髙村薫『土の記』(新潮社/2016年)
読初というのか年末からこれを読んでいる。読書メーターに投稿したArnold Kawakamiさんは以下のように本書の内容(上巻)を紹介している。
老齢になった農家の入婿の話で、事故で植物状態になった妻の介護をしながら田畑茶畑を営む。16年間植物状態の妻は冒頭では既に亡くなっており、奥さんの亡霊と会話するかのように話は進んでいく。高村作品独特の微に入り細に入った農作業の記述や主人公の趣味である地質学の話などここまで要らないだろうと思わせるが、なぜか引き込まれてしまうのは圧倒的な取材力と描写力の為せる技であろう。ほとんど何も起こらない話の筋ではあったが、高校生の孫が一夏一緒に過ごす下りが唯一の事件でもあった。
二ヶ月ほどまとまった散文を読んでいないので年末年始何か骨のある散文を読もうと借りてきた。
生きていて活躍している髙村薫は前から興味があったが事件性のあるものを繙いても3ページも読めなかった。文体が長いというのかしつこくて小生の感性と合わなかった。けれど『土の記』は内容も地味そうでにわかに読む気になった。
昔の伊佐夫は、稲の生長に一喜一憂する農家の気持ちを理解せきなかったが、昭代の歓喜を通して、幼穂や出穂などのそれぞれがいかに大きな出来事であるかを学んだ。謂わば昭代の身体を通して田んぼがあり、米づくりがあったのだが、いまも見えない昭代の身体がそこここに遍満しており、自分の身体と重なり合い混じり合うように感じながら、伊佐夫は田んぼに立っているのだった。
主人公の伊佐夫は72歳。死んだ妻の「菩提を弔う」といった生き方をしている。
小生は来月69歳になるので伊佐夫の年齢に近い。仮に妻が死んだとして一人になった自分は伊佐夫のように妻を過去を偲んで暮らすだろうかという興味がわいてきた。
小言を言う妻がいなくなったら重石が取れたみたいにせいせいするのではないか。伊佐夫を別世界の男のように思ったが、待てよ、死なれてみないとわからない感情かもしれないと思い直す。小説を読む楽しみはこういうころにもあるなあ。
出穂からこのかた、伊佐夫が毎日籾の色を調べて生育具合を計ってきたところでは、今年も平年並みの作柄になるのは間違いなかった。伊佐夫の稲は、稈長が平均七十八センチと少し丈が小さい一方、穂長は約十九センチあり、一本の穂の籾数は平均の一・五倍の約百二十粒。しっかりした太めの稲から穂が重たげに頭を垂れる理想的な姿で、平米当たりの穂数は平均二百七十本と少ないが、登熟歩合は九割を確保していた。反収に換算すれば玄米で六百キロ弱の収穫になる。台風が来なかったので倒伏もなく、穂ばらみ期のイモチ病もなかったのが幸いしたとはいえ、一株二本植え、株間三十センチの粗植栽培にしてはまあまあの結果に伊佐夫は鼻高々で、昨夜はニューヨークの孫娘に、半年したら新米を送るからと滅多にかけない電話をかけた。
こういった記述がArnold Kawakamiさんの指摘する「主人公の趣味である地質学の話などここまで要らないだろう」に当たるところだが彼の言うように引き込まれるところでもある。
伊佐夫が死んだ妻のことをあれこれ思う、いわば恋情に獲り付かれている背後に妻には思い人がいたのではないかという疑惑がある。自分のような平凡で趣味のない男にとって妻は魅力的であった。その妻が外出したとき華やぐのはどういった事情なのか考えてしまうのだ。
本書は髙村薫作品としては例外といっていいほど事件が少ない。
やもめとなった伊佐夫に妻の妹がたびたびお惣菜など持って来て、姉さんでなく私が伊佐夫さんの妻になりたかったという衝撃的な告白をするが情事に発展するわけでもない。
野球でいうと5回裏まで0が10個並ぶといったたんたんとした進行。たんたんとしているが読んでいて滋養を感じる。
さて下巻で何か事件が起こるのか。このままたんたんと行かないだろうという予感はする。
ちなみに本書の印刷は精興社である。ここの活字は独特の雰囲気があり昔から好みである。