ミンドロの最期の夜、村の人々が感謝の集まりをしてくれました。
食事をした議員さんの庭に老人も子供もたくさんの人が集まってきました。
踊りをしたり歌を歌ったりです。
フィリピンの人は、子供でも熱心な愛国心を持っているように見かけました。
今、日本で教育の中で愛国心云々と大騒ぎですが、フィリピンでは、なぜ?
あんなに貧しく、この人たちのことをフィリピンの政府は何かしてくれるの?
と思いますが。
↓言葉は分かりませんが、国歌を歌いながら誇りを持って国旗を振る小学生、
この様な出し物がたくさんありました。
↓その他フィリピンの生活
魚、鶏肉を背負って、おばさんが売りに来ました。
↓これも買ったのかな?
↓仕入れた野菜を持って、もっと奥の村に帰るのでしょう。
↑この豚すごいでしょう。ミンドロの最期の夕食のご馳走です。
昼間パン屋さんへ寄ったとき、ピンクの子豚が1匹ありました。
まさか私たちの夕食になるなんて思ってもいませんでしたが・・・
でも美味しかったです。周りは香ばしく中の肉は柔らかくて。
↑村の女の子、と言っても17,18才でしょうかね。
皆着ている洋服のまま海に入って、楽しんでいます。
そう言えば、行く前に海で水着になって泳いで
はいけないという注意を受けた気がします。
ホテルでは水着で良いんですって。
もちろん海で泳ぎはしませんでしたが。
↓2回目にフィリピンに行ったときの写真です。
ルソン島です。マニラから南下した田舎で、きれいな景色です。
この時は、何とか又ブレンダリンに合えないかNPOの方に相談し、
当時姪が住んでいた家で少女とお母さんに会うことが出来ました。
私の方も夫を紹介することが出来、一緒にご飯を食べて
写真を撮って、不思議な導きを感謝しました。
↓姪が住んでいた家の庭、家に水を引くタンクです。
ここからの水を沸騰させて飲料水として使っていました。
8月に行ったのですが、布団をすっぽりかけて寝ました。
朝は早くから、鶏がなき、朝の早い生活です。
↓歩いて5分ぐらいの所に市場がありました。
お店屋さんにも冷蔵庫がありませんから、朝早く買い物に行って
自宅の冷蔵庫に入れますが、よく停電していました。
私が行った時は、もう市場も大体の商売が終わりになっていました。
小学2年生のフィリピンの少女と出合ったのは多分1994年頃、
日本の子供より、少し小さく見える女の子でした。
それから10年間の文通が始まり、何時も私を「ママ」と慕って
手紙をくれました。私もその女の子から喜びを感じながら手紙を書きました。
そして一昨年、彼女と彼女の家族が自立をし、私との関係は終わりました。
その間私は2度フィリピンを訪ね、その少女と、又2回目に少女ののお母さん
とも会うことだできました。私の10年間の思い出です。
↑マニラ乗換えでミンドロに着いたときです。まるで
地方のローカル線の駅のようでした。でも荷物の検査は厳しかった。
↑私のチャイルド、ブレンダリン
↑パン屋さん、パン焼き技術を学びパン屋さんを始めることによって
村の何人かが一緒に働け、現金収入を得て自立していきます。
私たち1人の援助では何も出来ませんが、こうして1つのNPOの
働きを通して村全体が自立へ向かっていけることを知りました。
↓これは給水センターです。これが出来る前は、水を汲みに行くのは
女性の仕事です。これが出来て飲み水が身近に受けられる
ようになったのです。 良かったですね~
これらの写真は私にとって大事な写真です。
一緒に見てください。