152881 日本の新聞業界は“言論の自由”という錦の御旗のもとに戦時下の言論統制時代の経営形態、つまり“1940年体制”を温存している唯一の業界である
猛獣王S ( 30代 営業 ) 07/05/28 PM00
2007.5.27(その2)
森田実の言わねばならぬ[269]
平和・自立・調和の日本をつくるために【182】
大新聞はこれでいいのか!――新聞記者自身による大新聞の病巣の摘発。勇気ある新聞記者の内部告発
大塚将司著『新聞の時代錯誤―朽ちる第四権力』(東洋経済新報社、2007年3月1日刊)を読む
「日本の新聞業界は“言論の自由”という錦の御旗のもとに戦時下の言論統制時代の経営形態、つまり“1940年体制”を温存している唯一の業界である」(大塚将司)
リンクより部分転載します。
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~前略~
「書物」を読む場合、「あとがき」から読むと意外なほど楽に読むことができる。
著者は本書の「あとがき」でこう述べている。
《バルザックは皮肉を込めて『ジャーナリズムの博物誌』の最後に「もしジャーナリズムが存在していないなら、まちがってもこれを発明してはならない」という公理を掲げ、締め括っている。その言わんとするところは「ジャーナリズムなんて害毒を流すだけだから存在しない方がいい。もしジャーナリズムがないなら、そんなもの、作っちゃ駄目だよ」ということである。》
たしかに人類は多くのことを発明した。ジャーナリズムもその一つである。すべての物事には、一枚の紙と同様、表と裏がある。プラスだけではない、マイナスもある。原子力のように、発明されたことにより人類の生存そのものが危機に立たされるような危ないものもある。新聞、テレビなどのマスコミにも似た性格がある。
ジャーナリストにも善と悪がある。薬になるところもあれば毒もある。とくにジャーナリズムが、倫理を失い、暴走したとき、社会に与える害毒は計り知れないものがある。ジャーナリズムが存在しなかった時代のほうが、人類は幸せだったかもしれないのである。
大塚将司氏の著作を読むと、ジャーナリズムの不条理というものを痛感させられる。
大塚氏は「あとがき」で著者の基本的考え方をこう述べている。
《日本の新聞業界は“言論の自由”という錦の御旗のもとに戦時下の言論統制時代の経営形態、つまり“1940年体制”を温存している唯一の業界であり、それがコーポレート・ガバナンスと無縁の存在にしている最大の原因なのだ。まず“普通の会社”になることがすべての出発点であり、それを避け続ければ、ジャーナリズムとしての新聞業界の信頼回復もないであろう。》
本書のなかで、一般国民にとってとくに注目すべき記述は〈4章 新聞社の私物になった「新聞」〉である。第1項は「宣伝に使われ、不祥事の言い訳に使われる新聞」。
著者は述べる。《日本社会で、新聞業界ほど、ダブルスタンダードがまかり通っている業界はない。》《日経新聞社が公共物の『日経新聞』を私物化して浪費している。》
第1項は「報道機関としての自覚が欠如」。著者は日経新聞だけでなく、朝日新聞も同様だという。私は、他の大新聞も同類ではないかと思っている。大新聞の経営者と大多数の記者には、報道機関としての社会的責任感がない。巨大な影響力をもつ者としての倫理観に欠けている。
とくに政治部記者はひどい。政治権力の手先と化してしまっている。政治権力の手先になってしまっている政治記者、政治ジャーナリスト、テレビキャスターの責任は重大である。
本書を読んだ人々は、大新聞は一般国民にとって有害であり、読まないほうがよい、というより読んではならない、ということを理解するだろう。
~中略~
最近は、とくに大新聞の「劣化」が目立つ。新聞記者の質が落ちたことを痛感させられる毎日である。とりわけ政治記事がひどい。全紙が自公連立内閣の広報機関紙と化している。政治権力の走狗となり、政治権力の“私物”と化した大新聞ほど悪質なものはない。大新聞よ、反省せよ!
本書の著者・大塚将司氏は、主として日経新聞と朝日新聞の堕落を糾弾しているが、私は他紙も五十歩百歩ではないかと思っている。大塚氏の言うように経済部もひどいが、私は政治部はもっとひどいのではないかと思っている。政治部は政治権力のサーバントになってしまっている。
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猛獣王S ( 30代 営業 ) 07/05/28 PM00
2007.5.27(その2)
森田実の言わねばならぬ[269]
平和・自立・調和の日本をつくるために【182】
大新聞はこれでいいのか!――新聞記者自身による大新聞の病巣の摘発。勇気ある新聞記者の内部告発
大塚将司著『新聞の時代錯誤―朽ちる第四権力』(東洋経済新報社、2007年3月1日刊)を読む
「日本の新聞業界は“言論の自由”という錦の御旗のもとに戦時下の言論統制時代の経営形態、つまり“1940年体制”を温存している唯一の業界である」(大塚将司)
リンクより部分転載します。
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~前略~
「書物」を読む場合、「あとがき」から読むと意外なほど楽に読むことができる。
著者は本書の「あとがき」でこう述べている。
《バルザックは皮肉を込めて『ジャーナリズムの博物誌』の最後に「もしジャーナリズムが存在していないなら、まちがってもこれを発明してはならない」という公理を掲げ、締め括っている。その言わんとするところは「ジャーナリズムなんて害毒を流すだけだから存在しない方がいい。もしジャーナリズムがないなら、そんなもの、作っちゃ駄目だよ」ということである。》
たしかに人類は多くのことを発明した。ジャーナリズムもその一つである。すべての物事には、一枚の紙と同様、表と裏がある。プラスだけではない、マイナスもある。原子力のように、発明されたことにより人類の生存そのものが危機に立たされるような危ないものもある。新聞、テレビなどのマスコミにも似た性格がある。
ジャーナリストにも善と悪がある。薬になるところもあれば毒もある。とくにジャーナリズムが、倫理を失い、暴走したとき、社会に与える害毒は計り知れないものがある。ジャーナリズムが存在しなかった時代のほうが、人類は幸せだったかもしれないのである。
大塚将司氏の著作を読むと、ジャーナリズムの不条理というものを痛感させられる。
大塚氏は「あとがき」で著者の基本的考え方をこう述べている。
《日本の新聞業界は“言論の自由”という錦の御旗のもとに戦時下の言論統制時代の経営形態、つまり“1940年体制”を温存している唯一の業界であり、それがコーポレート・ガバナンスと無縁の存在にしている最大の原因なのだ。まず“普通の会社”になることがすべての出発点であり、それを避け続ければ、ジャーナリズムとしての新聞業界の信頼回復もないであろう。》
本書のなかで、一般国民にとってとくに注目すべき記述は〈4章 新聞社の私物になった「新聞」〉である。第1項は「宣伝に使われ、不祥事の言い訳に使われる新聞」。
著者は述べる。《日本社会で、新聞業界ほど、ダブルスタンダードがまかり通っている業界はない。》《日経新聞社が公共物の『日経新聞』を私物化して浪費している。》
第1項は「報道機関としての自覚が欠如」。著者は日経新聞だけでなく、朝日新聞も同様だという。私は、他の大新聞も同類ではないかと思っている。大新聞の経営者と大多数の記者には、報道機関としての社会的責任感がない。巨大な影響力をもつ者としての倫理観に欠けている。
とくに政治部記者はひどい。政治権力の手先と化してしまっている。政治権力の手先になってしまっている政治記者、政治ジャーナリスト、テレビキャスターの責任は重大である。
本書を読んだ人々は、大新聞は一般国民にとって有害であり、読まないほうがよい、というより読んではならない、ということを理解するだろう。
~中略~
最近は、とくに大新聞の「劣化」が目立つ。新聞記者の質が落ちたことを痛感させられる毎日である。とりわけ政治記事がひどい。全紙が自公連立内閣の広報機関紙と化している。政治権力の走狗となり、政治権力の“私物”と化した大新聞ほど悪質なものはない。大新聞よ、反省せよ!
本書の著者・大塚将司氏は、主として日経新聞と朝日新聞の堕落を糾弾しているが、私は他紙も五十歩百歩ではないかと思っている。大塚氏の言うように経済部もひどいが、私は政治部はもっとひどいのではないかと思っている。政治部は政治権力のサーバントになってしまっている。
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