現在、一旦中止された「あいちトリエンナーレ 表現の不自由展・その後」が再開されようとしていると共に、文化庁からの公的助成金の支払いの停止問題が話題となっている。今日は、この問題の簡単な解決方法を提案したい。
まず、助成金の停止問題は、「混乱が生じることを予見しながら展示を強行した」ことに対し、文化庁にはなんの相談も報告もなく、国民の血税を使う以上、必要最低限の文化庁への説明責任を果たしていなかったことには弁解の余地はない。という以前に、中止せざるを得ない事態が当然予測できたのにその点を隠し、勝手に開催を中止しておいて「金だけは払え」というのは言いがかりに近い。例えば、「イベントやるからスポンサーを求む」としてクラウドファンディングを立ち上げ、しかし裏では「明らかにイベントが没になる」理由が明確にあるのにそれを隠し通していたとする。結果、イベントは没になり、それに気づいた時点でまだお金を払っていないスポンサーがいたら彼らは支払いを拒否するのは当然で、イベントが没になったのに「約束通り金を払え」というのは明らかに無理があるだろう。
更に、天皇陛下のお顔の写真を燃やしてその灰を踏みつけることや、政治的に偏ったプロパガンダを表現の自由と称して(公金を用いて)世間にアピールすることが本当に良いことなのか、という問題も当然ながら着目されるべき点である。私は、税金を使う以上はある種の公序良俗に反することは反対なのだが、今回は大上段に「表現の不自由展」とうたい、その点に主催者は敢えて切り込んでいこうと言うのだから、ある種の問題提起ととらえ、場合によってはその立場に寄り添ってみても良いかもしれないとは思った。
そこで、この問題を解決するための提言をしてみたい。
答えは簡単である。現在の展示に加えて以下の展示を追加して開催するのである。
(1)大村知事のお顔の写真を燃やしてその灰を踏みつける映像を展示
(2)津田芸術監督のお顔の写真を燃やしてその灰を踏みつける映像を展示
(3)ライダイハンの象徴の像を慰安婦像の横に並べて展示
この三つの展示を合わせて展示すれば、「表現の不自由のタブーに挑戦するイベント」との認識を誰にでももってもらうことができる。例えば、大村知事はことある毎に「検閲は良くない」というのだから、自分にとって最も不都合な表現の自由をも許容するのは当然のことである。津田芸術監督も、同じくその責を追うべき立場だから、自ら率先してこのような展示を許容すべきだろう。最後のライダイハンは、偏ったプロパガンダの毒を中和すると共に、真の意味での「表現の不自由」をアピールするなら、これほど適した展示はないのである。何故なら、今回の展示を企画した者達にとって、これほど不都合な展示はないのだから。つまり、すべての者にとってバランスをとって、主催者側ですら不自由に感じることをあからさまにさらけ出せば、ダブルスタンダードを廃した議論ができること、請け合いである。
多分、このような内容になれば、過激な脅迫など大分緩和されるだろう。偏った政治的プロパガンダの毒を抜くことで、警備の方も少しはやり易くなるだろう。実際に世の中の議論を深める展示が再開できれば、文化庁も「金は払えん」とは言いにくくなる。今回のA級戦犯の二人も責任を果たすので、多くの不満のガス抜きにもなる。
これで丸く収まる...と、私は思うのだが。
←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます
まず、助成金の停止問題は、「混乱が生じることを予見しながら展示を強行した」ことに対し、文化庁にはなんの相談も報告もなく、国民の血税を使う以上、必要最低限の文化庁への説明責任を果たしていなかったことには弁解の余地はない。という以前に、中止せざるを得ない事態が当然予測できたのにその点を隠し、勝手に開催を中止しておいて「金だけは払え」というのは言いがかりに近い。例えば、「イベントやるからスポンサーを求む」としてクラウドファンディングを立ち上げ、しかし裏では「明らかにイベントが没になる」理由が明確にあるのにそれを隠し通していたとする。結果、イベントは没になり、それに気づいた時点でまだお金を払っていないスポンサーがいたら彼らは支払いを拒否するのは当然で、イベントが没になったのに「約束通り金を払え」というのは明らかに無理があるだろう。
更に、天皇陛下のお顔の写真を燃やしてその灰を踏みつけることや、政治的に偏ったプロパガンダを表現の自由と称して(公金を用いて)世間にアピールすることが本当に良いことなのか、という問題も当然ながら着目されるべき点である。私は、税金を使う以上はある種の公序良俗に反することは反対なのだが、今回は大上段に「表現の不自由展」とうたい、その点に主催者は敢えて切り込んでいこうと言うのだから、ある種の問題提起ととらえ、場合によってはその立場に寄り添ってみても良いかもしれないとは思った。
そこで、この問題を解決するための提言をしてみたい。
答えは簡単である。現在の展示に加えて以下の展示を追加して開催するのである。
(1)大村知事のお顔の写真を燃やしてその灰を踏みつける映像を展示
(2)津田芸術監督のお顔の写真を燃やしてその灰を踏みつける映像を展示
(3)ライダイハンの象徴の像を慰安婦像の横に並べて展示
この三つの展示を合わせて展示すれば、「表現の不自由のタブーに挑戦するイベント」との認識を誰にでももってもらうことができる。例えば、大村知事はことある毎に「検閲は良くない」というのだから、自分にとって最も不都合な表現の自由をも許容するのは当然のことである。津田芸術監督も、同じくその責を追うべき立場だから、自ら率先してこのような展示を許容すべきだろう。最後のライダイハンは、偏ったプロパガンダの毒を中和すると共に、真の意味での「表現の不自由」をアピールするなら、これほど適した展示はないのである。何故なら、今回の展示を企画した者達にとって、これほど不都合な展示はないのだから。つまり、すべての者にとってバランスをとって、主催者側ですら不自由に感じることをあからさまにさらけ出せば、ダブルスタンダードを廃した議論ができること、請け合いである。
多分、このような内容になれば、過激な脅迫など大分緩和されるだろう。偏った政治的プロパガンダの毒を抜くことで、警備の方も少しはやり易くなるだろう。実際に世の中の議論を深める展示が再開できれば、文化庁も「金は払えん」とは言いにくくなる。今回のA級戦犯の二人も責任を果たすので、多くの不満のガス抜きにもなる。
これで丸く収まる...と、私は思うのだが。
←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます