けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

集団的自衛権をサッカーに例えて説明するならば・・・

2014-07-01 23:30:24 | 政治
いわゆる集団的自衛権の行使容認に関する閣議決定がなされた。報道はこぞってこれを非難し、特に報道ステーションなどはその急先鋒ともいう番組構成であった。何度もブログでも書いているので2番煎じ、3番煎じになってしまうが、折角だからコメントしておこうと思う。

まず、マスコミが安倍総理の非難に用いる最も象徴的な表現は「日本を戦争をする国にした!」と言うところだろう。もう少し前までは表現は微妙で、「日本を戦争が出来る国にする!」で留めていたのかも知れないが、今では完全に「日本を戦争をする国にした!」と断言している。しかし、「戦争が出来る国」と「戦争をする国」では180度方向が異なる。「戦争が出来る国」は単なる能力として、戦争を挑まれれば戦うことが出来る能力を有している、その機能としての能力を示しているに過ぎない。しかし、「戦争をする国」とはその理由を問わずに戦争をするのだから、あたかも好戦的なニュアンスが強い。可能な限り戦争を避けるための外交的努力を極限まで行い、仮に突発的に戦争が起きたとしても可能な限り早期に和平を試みて、戦争回避を最優先とする国というニュアンスの対極にある国という印象を強く植え付けるものである。

しかし私が知る限り、誰一人として、安倍政権の行動が「その様な好戦的で戦争に突き進むための行動」に導くものであることを論理的に説明してくれる人はいなかった。全ての説明は、「国家権力は原則として国民を騙すものである」という根拠不明の大原則を前提として、だから仮に安倍政権が戦争を起こさなくても、次に続く政権の何れかが戦争を起こすはずというロジックの上に成り立っていた。これは、安倍総理を信じている人でも、安倍総理の言葉を鵜呑みにしてはいけないという窘めの言葉である。

しかし、私に言わせれば全く逆のロジックも存在するのである。

それは、「左翼的な思想で汚染された報道機関の中には、イメージ戦略で国民を欺き、一部の外国勢力の望むがままの思想誘導を行い、国家を危機に導く危険がある」というものである。実際、過去にも私のブログへのコメントでご指摘を頂いたように、永世中立国のスイスなどでは永世中立を貫くために、自国民に対して細心の注意を払うべき注意事項として民間防衛のマニュアルが配付されており、そこには興味深いことが書かれている。つまり、外国勢力が行う情報戦として、いわゆるオピニオンリーダと言われるような一見良心的に見える人をターゲットにして反国家的な思想を植え付け、その人を介して誤った思想に騙されるような危険があることを示し、常に肝に銘じて情報を是々非々で吟味すべしと言っている。言い換えれば、大新聞社が一大キャンペーンを繰り広げたら、それだけで盲目的に正しいと信じ込んではいけないということである。「国家権力は原則として国民を騙すものである」という命題も時として正しいのは確かだが、「敵対勢力は情報戦において、まずはオピニオンリーダという人を介して反国家的思想を洗脳しようとする」というのも同様に時として正しい。第2次世界大戦中の例を引いて「マスコミの言うことを盲目的に信じよう!」という洗脳に騙されてはいけない。自分の頭でちゃんと考え、ひとつひとつのロジックの組み立てに是々非々で判断をしなければならないのである。

次に目を引いたのは、テレビには多くの学生や若い母親などが集団的自衛権反対の官邸前のデモに参加している映像やインタビューが流れていた。その様な人のコメントを聞くと、何か論理的な香りのする説明ではなく、極めてスイスの民間防衛において慎むべき典型的な例として示されているような、国と国との情報戦での洗脳に犯された人の発言ばかりが聞かれた。そんな彼女たちに聞いてみたいのは、「もし、あなたが1960年、1970年に学生であったならば、あなたは『日米安保反対』デモに参加していたと思いますか?」という質問である。多分、全ての人は「Yes」と答えるであろう。その上で、「では、今の時代を生きるあなたとしては、日米安保が結ばれなかった方が良いと思いますか?」と続けて聞いてみたい。当然であるが、こちらは間違いなく「No」であろう。その上で、「では、時代の雰囲気に流されて『正しい』と感じていたものが、実は間違っているという可能性が少なからずあるということは認めますか?」と聞いてみれば良い。そして、正しいか正しくないかは感性で感じるものではなく、論理的な議論の上で答えを導くべきものであることを伝えたい。感性に頼るのはイメージ戦略を狙う人の術中にハマる危険性が非常に高いことを忘れないで欲しい。

次に、番組内のキャスターは「安倍総理には、手段的自衛権の行使により自衛隊員が死ぬことになるかも知れないことを、ちゃんと説明して欲しい!」とも言っていたが、これは同じことを私も熨斗を付けてそのキャスターに返してやりたい。

サッカーに例えて言うならば、上述の主張は「ディフェンスラインを上げてコンパクトな守備を志向することは、敵にバックラインの裏を突かれて失点するリスクがあることを、ちゃんと説明して欲しい」という解説に似ている。しかし、その言葉をそのまま鵜呑みにするならば、それは「バックラインは思いっきり引いて守りなさい」と言っているに等しい。しかし当然ながら、「ディフェンスラインがズルズルと下がってしまったら、防戦一方になって何処からでもシュートが打てるエリアで守備をすることになり、決定的なシュートが雨あられと撃ち込まれるリスクがある」ことも、ちゃんと説明しなければ、それは正しい情報を提供したことにはならない。安倍総理の主張する積極的平和主義は、まさに「攻めの守備」であり、現代サッカーでは常識である「コンパクトなサッカー」である。それは確かに裏を狙われるリスクは高くなるが、総合的なリスクを下げ、ボールを奪ってから攻撃までの距離を短くする。相手は必然的に慎重にならざるを得ないから、それがある種の抑止力に繋がるという具合である。2006年のワールドカップで日本が惨敗したのは、中田ヒデやジーコが欧州の現代サッカーを目指したのにディフェンダー陣がリスクを恐れて引いて守り、中盤が空洞化して攻撃に迫力がなくなってしまったからである。リスクはある一面にだけ存在するのではない。ありとあらゆるリスクを吟味し、その中で最も総合的リスクが小さいものを選ぶのが定石である。だから、刺激的な発言を総理から引き出してイメージ戦略で迫るという報道姿勢はアンフェアである。

今のマスコミは、途中をすっ飛ばかして短絡的に(イメージ戦略だけで、集団的自衛権を阻止しようという)結論を得ようとしている様に見える。サッカーで言えば中盤の無い「放り込みサッカー」そのものである。もう少し中盤を組み立て、組織的に守り組織的に攻め、相手を崩して点を取るサッカーに通じる議論をしてもらいたいと思う。

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