11月1日 (金曜日) 晴れ 夕
むのたけじさん 詩集「たいまつ」を読んでいてハットした。・・・・詩。
伝説のジャーナリストなどとも言われている。
今でも、お元気で98歳で講演をこなしている。
~~~~~~~~~
夜を十分にくぐりぬけなければ朝を迎えることができないように、
種をまかなければ芽をみることができないように
、
青年期をしなびさせると豊かな壮年にはなれない。
壮年期を充実させないと、実りをもった老人にはなれない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
青年期も壮年期も充実させていたか?と自分に問えば
決して充実していたとは思えない・・・・歩み・・・であった!
今更、遅いなあ~!
実りを持った老人にはなれないんだ。
~~~
と思ったが、この方の講演を聞いていると元気がでるから不思議だ!
=====================
むのたけじ
むのたけじ(武野武治、1915年1月2日 - )は、
日本のジャーナリスト。秋田県横手市在住。
秋田県生まれ。旧制県立横手中学校(秋田県立横手高等学校の前身)から
東京外国語学校卒。報知新聞記者を経て、
1940年朝日新聞社に入社、中国、東南アジア特派員となるが、
敗戦を機に戦争責任を感じて退社。
1948年秋田県で週刊新聞「たいまつ」を創刊、
反戦の立場から言論活動を続けた。1978年「たいまつ」は休刊。
2011年2月27日に放送された、NHKスペシャル
『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』シリーズ、
第3回「"熱狂”はこうして作られた」の終盤に出演し、96歳で健在な姿を見せた。
2011年8月14日NHK BSプレミアム放送の『100年インタビュー「96歳のジャーナリスト・むのたけじ」』にてジャーナリストとしての思いを直言し、鋭く雄弁に語った。
2012年、花巻市の「宮沢賢治学会 イーハトーブセンター」から
第22回イーハトーブ賞を受賞した。
2013年5月10日放送の報道ステーションに出演し、
自ら体験した戦前・戦中の表現の自由、
言論統制を振り返りつつ、
憲法改正の議論に対してジャーナリストの立場から意見を述べた。
*************************
☆参考に載せておく。
2013年10月4日のラジオ出演
むのたけじさんのお話
むのたけじ「希望は絶望のど真ん中に」刊行記念講演会
これは面白いです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
むのたけじ
ジャーナリズムの世界に入って4分の3世紀。
75年の歩みの中でいま語りたいことは何かと考えたら、
中国での経験がふっと胸に浮かびました。
1940年、まだ報知新聞の記者だったころです。
そのころ私がいちばん疑問だったのは、
日本の軍隊がみな占領しているように見えるけども、
中国は軍部のいうことを聞く気配がまったく見えないということ。
そこで本当の戦場の状態はどうなのかと、軍に頼んで、
最前線に近い内モンゴルの包頭(パオトウ)の西の、ある街に取材に入りました。
着いてみると、人口は2万人くらいの街だったはずが、
家が一軒もない。街全体がすぽっと消えちゃってる。
これは戦(いくさ)が激しくて壊れたのかと思ったら、そうではないという。
この街に住む人たちが自分たちで街の施設を、
井戸から道路から全部破壊して、日本軍が入ってきても、
普通の生活ができないような状況をつくっていたのです。
徹底的な抗戦です。街を自分たちで壊すという
抵抗なんて想像できなかったから、びっくりした。
夜はマイナス10度くらいまで下がる中で、
軍隊といっしょにテントの中で寒さに震えて寝かしてもらったら、
夜が明けて、美しい歌声が聞こえてきた。
500メートルくらい離れたところで、小学生が青空学校をやってるんです。
たくさんの子どもが、女の先生と一緒に喜々として歌ったり踊ったりしてる。
大人たちは、街を破壊し隠れていて、
しかも、子どもたちの教育だけは守っている。
3500人もいた日本の兵隊は、それに指一本触れることができないでいる。
中国という国は2千年、3千年という歴史の中で、
全国で軍閥が起こり波乱興亡を繰り返してきたでしょう。
その中で人々が一番の支えにしたものは、青少年を立派に育てるということだったわけです。
私は大変な感銘を受けました。
そのころ、ちょうどエドガー・スノーが中国共産党の本拠地だった延安をリポートした
『中国の赤い星』が評判を呼んでいました。
私は、中国の民衆の根っこの生えたような
たくましい抵抗をつくった延安をぜひ見てみたいと、
もう家庭を持っていたこともすっかり忘れて、
捕虜になってでも、自分で行ってみようと思いました。
わざと捕まって延安に連れていってくれと頼もうと、
包頭で丸一日、黄河のほとりで座っておりました。
今考えればまったくお恥ずかしい話ですが。
戦後、中国を訪ねると、中国政府は「軍閥財閥は敵だが、
日本の人民は友人」という決まり文句を繰り返していました。
しかし実際に人を殺し、火をつけたのは日本で農民やサラリーマンだった普通の兵士です。
政府がそう言っても、人々の日本に対する恨みつらみは決して消えていないし、
それが中国政府に対する不満にもつながっている。反日デモの背景もそうでしょう。
だから本当の日中友好のためには、民衆同士がきれいごと抜きに、
本気でぶつからないとダメ。
現在ではインターネットを使ったやりとりもできる。
若者同士が存分にやりあったらいい。
89年の天安門事件は、中国の大きな過ちです。
青少年を大事にし、学びながら進むという希望の光を、自らつぶしてしまった。
そういうことも言える関係でないといけない。
日本と中国は、お互いが不満や怒りをぶつけあった上での二人三脚が必要なんです。
◇
「子どもを粗末にして希望もへったくれもない」。
87歳で胃がんを手術、92歳で見つかった肺がんも克服し、
今も講演や執筆を続ける。支えるのは、若い世代への愛だ。
むのたけじさん 詩集「たいまつ」を読んでいてハットした。・・・・詩。
伝説のジャーナリストなどとも言われている。
今でも、お元気で98歳で講演をこなしている。
~~~~~~~~~
夜を十分にくぐりぬけなければ朝を迎えることができないように、
種をまかなければ芽をみることができないように
、
青年期をしなびさせると豊かな壮年にはなれない。
壮年期を充実させないと、実りをもった老人にはなれない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
青年期も壮年期も充実させていたか?と自分に問えば
決して充実していたとは思えない・・・・歩み・・・であった!
今更、遅いなあ~!
実りを持った老人にはなれないんだ。
~~~
と思ったが、この方の講演を聞いていると元気がでるから不思議だ!
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むのたけじ
むのたけじ(武野武治、1915年1月2日 - )は、
日本のジャーナリスト。秋田県横手市在住。
秋田県生まれ。旧制県立横手中学校(秋田県立横手高等学校の前身)から
東京外国語学校卒。報知新聞記者を経て、
1940年朝日新聞社に入社、中国、東南アジア特派員となるが、
敗戦を機に戦争責任を感じて退社。
1948年秋田県で週刊新聞「たいまつ」を創刊、
反戦の立場から言論活動を続けた。1978年「たいまつ」は休刊。
2011年2月27日に放送された、NHKスペシャル
『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』シリーズ、
第3回「"熱狂”はこうして作られた」の終盤に出演し、96歳で健在な姿を見せた。
2011年8月14日NHK BSプレミアム放送の『100年インタビュー「96歳のジャーナリスト・むのたけじ」』にてジャーナリストとしての思いを直言し、鋭く雄弁に語った。
2012年、花巻市の「宮沢賢治学会 イーハトーブセンター」から
第22回イーハトーブ賞を受賞した。
2013年5月10日放送の報道ステーションに出演し、
自ら体験した戦前・戦中の表現の自由、
言論統制を振り返りつつ、
憲法改正の議論に対してジャーナリストの立場から意見を述べた。
*************************
☆参考に載せておく。
2013年10月4日のラジオ出演
むのたけじさんのお話
むのたけじ「希望は絶望のど真ん中に」刊行記念講演会
これは面白いです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
むのたけじ
ジャーナリズムの世界に入って4分の3世紀。
75年の歩みの中でいま語りたいことは何かと考えたら、
中国での経験がふっと胸に浮かびました。
1940年、まだ報知新聞の記者だったころです。
そのころ私がいちばん疑問だったのは、
日本の軍隊がみな占領しているように見えるけども、
中国は軍部のいうことを聞く気配がまったく見えないということ。
そこで本当の戦場の状態はどうなのかと、軍に頼んで、
最前線に近い内モンゴルの包頭(パオトウ)の西の、ある街に取材に入りました。
着いてみると、人口は2万人くらいの街だったはずが、
家が一軒もない。街全体がすぽっと消えちゃってる。
これは戦(いくさ)が激しくて壊れたのかと思ったら、そうではないという。
この街に住む人たちが自分たちで街の施設を、
井戸から道路から全部破壊して、日本軍が入ってきても、
普通の生活ができないような状況をつくっていたのです。
徹底的な抗戦です。街を自分たちで壊すという
抵抗なんて想像できなかったから、びっくりした。
夜はマイナス10度くらいまで下がる中で、
軍隊といっしょにテントの中で寒さに震えて寝かしてもらったら、
夜が明けて、美しい歌声が聞こえてきた。
500メートルくらい離れたところで、小学生が青空学校をやってるんです。
たくさんの子どもが、女の先生と一緒に喜々として歌ったり踊ったりしてる。
大人たちは、街を破壊し隠れていて、
しかも、子どもたちの教育だけは守っている。
3500人もいた日本の兵隊は、それに指一本触れることができないでいる。
中国という国は2千年、3千年という歴史の中で、
全国で軍閥が起こり波乱興亡を繰り返してきたでしょう。
その中で人々が一番の支えにしたものは、青少年を立派に育てるということだったわけです。
私は大変な感銘を受けました。
そのころ、ちょうどエドガー・スノーが中国共産党の本拠地だった延安をリポートした
『中国の赤い星』が評判を呼んでいました。
私は、中国の民衆の根っこの生えたような
たくましい抵抗をつくった延安をぜひ見てみたいと、
もう家庭を持っていたこともすっかり忘れて、
捕虜になってでも、自分で行ってみようと思いました。
わざと捕まって延安に連れていってくれと頼もうと、
包頭で丸一日、黄河のほとりで座っておりました。
今考えればまったくお恥ずかしい話ですが。
戦後、中国を訪ねると、中国政府は「軍閥財閥は敵だが、
日本の人民は友人」という決まり文句を繰り返していました。
しかし実際に人を殺し、火をつけたのは日本で農民やサラリーマンだった普通の兵士です。
政府がそう言っても、人々の日本に対する恨みつらみは決して消えていないし、
それが中国政府に対する不満にもつながっている。反日デモの背景もそうでしょう。
だから本当の日中友好のためには、民衆同士がきれいごと抜きに、
本気でぶつからないとダメ。
現在ではインターネットを使ったやりとりもできる。
若者同士が存分にやりあったらいい。
89年の天安門事件は、中国の大きな過ちです。
青少年を大事にし、学びながら進むという希望の光を、自らつぶしてしまった。
そういうことも言える関係でないといけない。
日本と中国は、お互いが不満や怒りをぶつけあった上での二人三脚が必要なんです。
◇
「子どもを粗末にして希望もへったくれもない」。
87歳で胃がんを手術、92歳で見つかった肺がんも克服し、
今も講演や執筆を続ける。支えるのは、若い世代への愛だ。