Kennyのブログあれこれ

写真付きで日記や趣味を書くあれこれ

日記(11.7) ゴンズイの木と魚のこと

2013-11-07 15:46:08 | 日記
11月7日 (木曜日)  夕

午後は雨もやんだ。

14時からM自治会長と9日の防災訓練の打ち合わせ。
明日は午後から当日使う荷物の事前運びなどを行う予定になった。
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午前中に
警察から各自治会長あてに電話あり
今、この熊谷に集中的にオレオレ詐欺(助けて詐欺)の電話が
非常に多くかかってきています。
既に被害も出てしまっています。
機会をみて自治会を通じてアナウンス願いたいとの連絡だった。
なお、
14日10時からベルク上之店でその対策の話が警察からあるらしく
防犯対応の服装で御参加、願いたいとの事であった・・・。
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先日、いきがい大学社会見学で
お昼を食べたお店の前にあった木の花の名前がわからなくって
気持が悪かったのが、わかってスッキリした。



この木の名前は”ゴンズイ”であった。
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権萃 (ごんずい)
狐の茶袋(きつねのちゃぶくろ) 
黒臭木(くろくさぎ))


季節の花から・・木から花に至る推移の写真をお借りする。



・三葉空木(みつばうつぎ)科。

・樹皮には縦に 不規則な白い模様がある。
・秋に紅色の袋の中から、黒い実が現れる。

・材としては用途がないところから、
 同様に役に立たない魚とされる、権瑞(ごんずい)」になぞらえた。
 (名前の由来)


関東地方以西の山地に自生する。
・別名
 「狐の茶袋(きつねのちゃぶくろ)」実の形から

 「黒臭木(くろくさぎ)」臭気から
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・似ている実へのリンク
 ミッキーマウスの木


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さて、魚のゴンズイとは?


ゴンズイ(権瑞、学名 Plotosus japonicus)は、
体長10cm~20cmに達するナマズ目の海水魚である。

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茶褐色の体に頭部から尾部にかけて2本の黄色い線がある。

集団で行動する習性があり、特に幼魚の時代に著しい。
幼魚の群れは巨大な団子状になるため、「ごんずい玉」とも呼ばれる。

この行動は集合行動を引き起こすフェロモンによって
制御されていることが知られている。

背びれと胸びれの第一棘条には毒があり、
これに刺されると激痛に襲われる。

なお、この毒は死んでも失われず
死んだゴンズイを知らずに踏んで激痛を招いてしまうことが多いため、
十分な注意が必要である。

もともとナマズの仲間なため、
成魚になるとナマズとよく似た姿となり地方によっては
味噌汁や天ぷらなどで食される。

他の魚と同様、ギギ、ハゲギギ、ググといった、
地方ごとにさまざまな呼称があるという。

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今は”私が”ゴンズイ”かもしれないなあ~!

日記(11.7) 新聞コラム(コメの生産調整見直し)

2013-11-07 10:37:38 | 日記
11月7日 (木曜日) 雨

折角、本日は空けておいた日だったのに
苺と玉葱を植える予定であったが
この雨では、又おくれてしまう。
最近は畑より遊びを優先したツケが来ているんだ!

本日の天気は


北日本 暴風・高波に警戒
7日の夕方から8日の昼前にかけて、
北日本では日本海側と海上を中心に、非常に強い風が吹き、
北海道の海上では7日夜遅くから大しけとなる見込みだ。

7日から8日にかけて陸上で予想される最大瞬間風速は、北海道地方35メートル、
 東北地方30メートル。
 波の高さは、北海道地方6メートル、東北地方5メートルの見込みで、
 暴風や高波に警戒が必要だ。

関東地方も大雨の様子だ。


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今朝の毎日新聞コラム

「いつも月夜に米の飯」。

申し分ない暮らしのたとえだが、
夜が闇に閉ざされ、コメの飯は祝日にしか食べられなかった昔を物語る。

毎日がこうあってほしいという願いがこもったことわざだ。

▲「昔の主食は稗と麦で、米は少し入れるだけだった。
  その後は麦七米三で、あそこの家は半々だというとぜいたくだと思ったものだ」。

  これは戦後に記録された東京都杉並区の古老の回想である。

★そう言えば昔は麦飯に・うどん・すいとん・サツマイモが主食だったことを
 ・・・。白い米は学校に上がってから・・少し良くなった覚えがある。
 麦飯のオニギリというのは、パラパラしてしまい握っても固まらない苦労があった。
 母が病弱だった事もあって、小さい時から包丁の扱いは上手い方であった。
 なんてことを思い出している。
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「いつも米の飯」が全国どこでも
  当たり前になったのはそう昔でない。

▲しかし、この古老への聞き取りが行われて
 ほどない1960年代にコメの生産は需要を大きく上回って余り出し、

 70年には生産調整(減反)が本格的に始まる。

「いつも米の飯」が実現してみれば
 過剰生産を防ぐ 「減反」 
 日本農業のキーワードになってしまった。

▲政府は農業の構造改革の一環として
 コメの生産調整見直しにむけて動き出した。
 高齢化が進み、耕作放棄地が増える農家の現状である。

 経営効率の悪い零細農家を温存してきた生産調整を改め、
 農地の貸し出しによって農業経営の大規模化を促進するのが狙いという。


▲国際競争に生き残れる産業としての農業の自立は待ったなしの課題である。

 だが市場の激変が意欲のある農家までのみ込む恐れもあろう。

 また山間地など不利な条件下で環境を守る役割を農業に求める場合もある。

 構造改革を実現するには周到な目配りが欠かせない。

世の中はいつも月夜に米の飯 さてまた申し金のほしさよ

 江戸時代の蜀山人の狂歌である。

 月夜や米の飯よりも、欲しいのは金という今の世のコメ作り、

 10年後はどんな姿になっているだろう。

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★私が狂歌に興味を持ったのは、会社の顧問だったN先生の
 ”人間その心と原点”の講演会からだった。!

 蜀山人の狂歌の説明があって、面白かったからである、
 この時の蜀山人の辞世の歌が・・・・

1823年(文政6年)死去。辞世の歌は

今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん
と伝わる。この歌の内容だった。

墓は小石川の本念寺(文京区白山)にある。
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○1787年(天明7年)、寛政の改革が始まるが、
 改革に対する政治批判の狂歌

世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず

 の作者と目されたことや、
 田沼意次の腹心だった土山宗次郎と親しかったことで目を付けられ
 戯作者の山東京伝らが弾圧されるのを見たこともあって、
 狂歌は止める。
 これ以降、職務に励むかたわら、随筆などを執筆した。
とある。
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狂歌

狂歌の起こりは古代・中世に遡り、

狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。
落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。
独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、
享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる。

特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、
狂歌がひとつの社会現象化した。


そのきっかけとなったのが、
明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人)著した狂詩集『寝惚先生文集』で、


そこには平賀源内が序文を寄せている。
明和6年(1769年)には唐衣橘洲(からころもきっしゅう)の屋敷で
初の狂歌会が催されている。
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これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連を作って創作に励んだ。
朱楽菅江(あけらかんこう)、宿屋飯盛(やどやのめしもり、石川雅望)
らの名もよく知られている。

狂歌には、『古今集』などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。
これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる。

現在でも愛好者の多い川柳と対照的に、狂歌は近代以降人気は衰えた。

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話がズレてしまった。
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