Kennyのブログあれこれ

写真付きで日記や趣味を書くあれこれ

日記(10.30) 伊勢崎 小菊の里・ みどり市 大間々ながめの菊

2013-10-31 22:28:09 | 日記


10月30日 伊勢崎のSさん宅で入社当時の仲間との、
打ち合わせが有って出かけた。
昔の仲間も各地区に散っているので・・

11月末に、東京駅に集まろうと言う事で、話がまとまった。

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本日30日は天気も非常に良くなって、
このお宅は広くて、

柿の木も何本かあって、いっぱい実っている。

時間つぶしに柿獲りを行った。


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その後、折角良い天気なので・・
赤堀の小菊の里に出かけた。
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「あかぼり小菊まつり」
伊勢崎の最高峰▲峰岸山(168m)の南斜面一面に咲く玉菊を愛でるお祭りです。
峰岸山は、旧・赤堀町の磯沼公園のすぐ北東にあり、
すぐ東にはカリビアンビーチがあります

 小菊はオレンジ、黄色やエンジ色等の洋種と、薄紫、白、黄色等の和種があります。

洋種が先に咲きますが、両種を同時に咲かせるのは難しいとのことです。
洋種が色が濃くて、和種が色が淡い感じでしょうか。

 小菊の里は、地元の「小菊の里つくりの会」
中心にボランティアの皆さんの尽力で運営されています。
見晴台入り口には寸志の受付箱がありますので、皆さんご協力を。
 まつりの日には、野菜や饅頭、団子などが売られます。

 たこ焼き、たい焼きなどの出店も並びます。また、
 大きな鉢に植えられた小菊が500円、800円、1000円くらいで販売されます。
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ちょうど良い咲き具合であった。









全体像は




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凄く、天気に映えて綺麗である。






個人的には毎年来ているところであるが、今年はピッタリの咲き模様であった。
ただ、この時期にしては北に入道雲が見える。
雨に?
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ついでに”みどり市、大間々のながめの菊”まで足を伸ばした。






下には渓谷が







園内には年代物の余興場があって、今も使われている。




近くの和食店”赤城”に入って遅いランチをいただく。

ここの食事は安くておいしい。又来ようと思った。

この後、渡良瀬川を渡って、足尾に向かう途中にある貴船神社へ参拝。

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更に反対方向の小さい小平鍾乳洞&湿性植物園へ行ってみた。




静かなところであった。
夏休みは子供の遊び場として混むと売店のお姉さんが言っていた。
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3時半を廻ったころ、急に雲が出てきて、雨になった。
赤城山の裾野から伊勢崎に戻るのに大分混んできて、1時間半程かかったが
着いたころは雨も上がった。

深谷経由で帰宅。

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あっちこっと歩きまわって少々足が疲れた感じ。


史跡めぐり ④ 河口湖畔の大石公園のコキア見学

2013-10-31 21:43:31 | 日記
 史跡めぐり ④ 河口湖畔の大石公園のコキア見学

雨が止まない!

河口湖畔に



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河口湖北岸の「河口湖自然生活館」に隣接する公園。
富士河口湖町初夏の名物イベント「河口湖ハーブフェスティバル」の
大石会場としても有名で、6月中旬から7月中旬までは、
雪をかぶっていない夏富士と、じゅうたんのように植えられたラベンダーを
一緒のお楽しみいただける。また7月には周辺でブルーベリー狩りも楽しめる。

「逆さ富士」の隠れた名所で、
特に冬の早朝、風がなく湖面が穏やかな日に写真のような景色を見ることができる
ところとある。
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100M程歩いてコキアを観賞に・・・。







止まないなあ~!

温室らしきハウスにはブーゲンビリアの花が
赤く見えるところは葉っぱだとか!




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最後に休憩場所”浅間園”に着いた頃には雨も上がった。


カリンがいっぱい実っている。




いきがい35期史跡めぐり日記(おわり)
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史跡めぐり ③ 西湖いやしの里 根場(ねんば)

2013-10-31 21:08:08 | 日記
つづき
史跡めぐり ③ 西湖いやしの里 根場(ねんば)

集落に歩く間はコキアが赤く染まって綺麗に咲いている。







写真撮影には雨が強く・・ここでは諦めて・・

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食事の場所に・・・










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西湖いやしの里根場は、山梨県南都留郡富士河口湖町にある野外博物館
である。かつて当地にあり、台風災害で移転した集落の跡地に茅葺民家を復元したもので、
2006年(平成18年)に開園した。
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西湖の西北に位置する旧足和田村根場(ねんば)集落には
「かぶと造り」の茅葺民家が並んでいた。

しかし、1966年(昭和41年)の台風26号の集中豪雨により集落は土石流に襲われ、
死者94名を出した。

この結果、集落は壊滅し、住民は西湖対岸に集団移転した。

2003年(平成15年)に南都留郡の河口湖町・足和田村・勝山村が合併し、
富士河口湖町が誕生すると、合併を契機に根場集落の復元・展示事業が開始され、
2006年に第一期オープンとなった。
その後、段階的に整備され、
現在は20棟の茅葺民家がある。

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食事は・・



ビールを飲んで、ゆっくり雨やどり・・を。
ヒメマスの焼き物が美味しかった。

お店にはススキの葉を使って編んだ、素晴らしい一品が飾ってある。


雨でも、根場の民家を歩き廻った。




富士山アザミ(アーティチョークと思われるが・・?)花も終わって枯れ始めている。

☆私は、今年”地中海アザミ”を畑で作って大きくなったが花芽を持てなかったので
 アーティチョークの料理が出来なかった。


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歩きまわって、坂も多くて・・少々疲れたが
お土産物やでシイタケのドンコを買って、自宅用に・・・。
何か買わないと・・気が落ち着かなく?・・なるものだ。

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つづく 次は 河口湖畔の大石公園のコキアを見学へ

29日史跡めぐり ②  青木ヶ原樹海

2013-10-31 20:41:31 | 日記

続き・・・・
浅間神社を後にして青木ヶ原樹海へ・・・。



樹海の中をR139号線が走っている。

樹海ガイドさんの案内でまずは樹海の説明を聞く。

写真で樹海の大きさを教えられる!
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標高は920m-1300m付近。
面積はおよそ30平方キロメートルで
これは山手線に囲まれた面積に匹敵する。

実際よりも広大なイメージを抱いて「富士の裾野」と表現する人もいるが、
裾野全体に広がっているわけではないので、これは誤りともいえる。


貞観6年(864年)に、富士山の北西山麓で大規模な噴火活動(貞観大噴火)が発生した。
流れ出た膨大な量の溶岩は森林地帯を焼き払った末に、

北麓にあった広大な湖・剗の海に達し、大半を埋没させた。
やがて溶岩地帯には、1200年の時を経て
ツガやヒノキを中心にハリモミ、ヒメコマツ、アカマツなどの針葉樹
ミズナラなどの広葉樹の混合林である原始林が形成された

植物の垂直分布では落葉広葉樹が発達する山地帯にあたるが、
水分や養分の少ない溶岩質の土壌であることから針葉樹が発達している。

人為的攪乱の加わっていない原生林であると考えられているが、
伐採が行われていた可能性が指摘され、石塁も発見されている。
周辺には風穴と呼ばれる洞穴を始め、溶岩洞などが数多くある。


溶岩流の端には西湖、精進湖、本栖湖がある。

864年の噴火以前には現在の青木ヶ原の地に剗の海(せのうみ)という大きな湖があったが、
溶岩流でその大部分が埋め立てられた末に西湖と精進湖とが残った。

このいきさつは日本三代実録に記されている。
また紀元前4,000年紀に起きた噴火以前には、
剗の海と本栖湖とを隔てる溶岩塊も存在せず、
両者はひとつの大きな湖であったとされる。


樹海の中には国道139号などが通っている。
樹海そばにある三湖台を登ると、頂上からは樹海が見渡せる。

西湖の西側が樹海

精進湖の南東が樹海
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降りしきる雨の中を、樹海ツアーに入る。


キノコが。。これも森林の循環に一役かっているのか?・・


木々の一部が紅葉・黄葉を始めている。




コケがいっぱいだ!


針葉樹の幹にも苔がいっぱい。

時期はずれたが”松茸”も出るのだろう。赤松の木も多い。

これは、何の木?赤い実の付く低木。千両でも万両でもなさそう。

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そこで調べてみた。 季節の花からお借りする。

万両、千両、百両、十両
・万両、千両、百両、十両の実などをまとめて紹介します。

・万両、百両、十両は 薮柑子(やぶこうじ)科。
 千両は千両(せんりょう)科

・学名
  Ardisia crenata  (万両)
  Chloranthus glaber(千両)
  Ardisia crispa  (百両)
  Ardisia japonica (十両)

   Ardisia :   ヤブコウジ属
   Chloranthus : センリョウ属
   crenata :   円鋸歯状の
   glaber :    無毛の
   crispa :    縮れた、皺がある
   japonica : 日本の
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・万両の花は7~8月頃に咲き、12月頃から冬にかけて実が赤くなる。
 万両のなかには 実が白い種類もある。
・正月の縁起物に使われる。
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・万両と千両の名前の違い。 
       
 千両は葉の上の方に実をつけるので鳥に食べられやすく、

 万両は葉の下に実をつけるので食べられにくく、その分 実がしっかり残るから・・。

  でも、万両の実も、
  覆いをしておかないと翌年の2月頃までには、ほとんど食べられてしまうようだ。

 また、万両の実は垂れ下がり、千両は上向きにつくので 万両の実は重く千両の実は軽い、
 との発想からこの名になった、ともいわれる

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 百両や十両は、 それらに比べ背が低く、実の数も少ないからことから
 こう名づけられたらしい。


・千両は、江戸時代後期までは「仙蓼」の字で表現された。

・百両  葉っぱは細長くギザギザがない。千両、万両より背が低い。
 十両  百両よりも背が低い。 葉っぱはギザギザ。


・百両の別名 「唐橘(からたちばな)」。

 十両の別名 「薮柑子(やぶこうじ)」。
   薮柑子の名は、薮の中に自生していて、葉の形などが 柑子(こうじ)みかんに
   似ていることから。
・12月29日の誕生花

      (千両の実)
・花言葉は「富、財産」
      (千両の実)

・「吾が屋前(には)の花橘の いつしかも 珠(たま)に貫(ぬ)くべく
  その実成りなむ」 万葉集 大伴家持

 「この雪の 消残る(けのこる)時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む」
  (山橘=十両:薮柑子)
   万葉集 大伴家持

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この写真、多分、”やぶこうじ”=十両だと思われる。


葉っぱを拾ってみる。

どんぐりも一杯落ちていて、もう芽を出している。

ほんの入り口近辺を散策して、バスの駐車場へ出てくる。



雨がやまない!

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③に・・つづく

29日史跡めぐり①  北口本宮富士浅間神社

2013-10-31 19:53:07 | 日記
10月31日 (木曜日) 晴れ

少し前にさかのぼる
29日は、
いきがい大学の史跡めぐり(19回目との事)富士山麓めぐりに参加した。
4.8班が担当班で39名の参加との事。
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北口本宮富士浅間神社・青木ヶ原樹海・西湖いやしの里根場(ネンバ)・大石公園(コキア)の地点を見学と少し勉強。

熊谷を出て秩父観光(CTC)のバスが中央高速にのった頃からおかしな天気に。
雨が降ってきた。


幹事班の女性の進行で史跡めぐりが進む。駐車料金や、なにやかんやと大変だ。


浅間神社に着いた頃は・・かなりの降りであった。

R139沿いにあるのに、意外に立ち寄っていない方も多いらしい。
国道から一歩入ったとたん、そこは静寂に満ちた、うっそうとした参道。
石灯篭の参道を神社に進む。






立派な神社である。






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この大鳥居は現在工事中で見られず。

少し調べる。
北口本宮冨士浅間神社は、
山梨県富士吉田市上吉田にある神社。
旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
浅間神社の一社。

延暦7年(788年)に甲斐守である紀豊庭が現在地に社殿を造営したと伝わる。
中世には同社が所在する郡内地方の領主である小山田氏からの庇護を受けた。
社号について、甲斐国の地誌である『甲斐国志』では以下のように記される。

このように古来より社中に「諏訪の森」が位置し、
諏訪神社の鎮座地に浅間神社を勧請したと伝わる。

現在当社は浅間神社であり祭神も木花開耶姫命を主祭神としているが、
当初は諏訪神社であったと考えられている。


例えば天文17年(1548年)5月26日、小山田信有は吉田の諏訪禰宜に
富士山神事の際に新宮を建てる場合は披露するように命じている。

このように富士山神事に関わる案件に対しても、諏訪禰宜に宛てがわれている。
永禄4年(1561年)3月2日、武田信玄は吉田の諏訪の森の木を伐ることを禁止している。

『甲斐国志』によると、同年に武田信玄が富士権現を造営したとある。
これらの事柄から、
永禄4年(1561年)の信玄による富士権現造営が現在の北口本宮冨士浅間神社の元に
なるものであるとし、それ以前は諏訪社のみが鎮座していたとする見方がある。

その後は元和元年(1615年)、谷村城主鳥居土佐守成次が現在の本殿を建立、
貞享5年(1688年)に社殿が造修された。

一時荒廃していたが、享保年間になって、富士講の行者であった村上光清が私財を投げ打って再興し、富士講の参詣者を集めた。拝殿の前の両脇には樹齢千年の「富士太郎杉」「富士夫婦檜」の名を持つ大きな御神木がある。

富士登山道の吉田口の起点にあたる。
江戸時代には富士講が流行し、周辺には御師の宿坊が百件近く立ち並んだこともあるが、
これは神社に属さない独自の宗教活動であった。
昭和初期には神社北の裏手から登山バス浅間神社 - 馬返線が運行していた。

同じ富士吉田市下吉田にある小室浅間神社に対して「上浅間」と呼ばれる事があるが、
直接的な関係は無い。
富士吉田地域に於いて、この神社が前述した富士講御師に依る対外的な信仰を集め、
下吉田の小室浅間は農耕信仰を中心として地元民の生活に根差した文化があった。
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拝殿

西宮本殿

東宮本殿

重要文化財(国指定)
北口本宮冨士浅間神社東宮本殿 - 1907年8月28日指定
北口本宮冨士浅間神社西宮本殿 - 1953年3月31日指定
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