Kennyのブログあれこれ

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日記 遺族会研修旅行④ 浄土ヶ浜

2013-08-31 08:08:45 | 日記


 遺族会研修旅行④ 浄土ヶ浜

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アイスが欲しい様な天気。
浜では海水浴の子供も・・

津波が本当に来たのだろうか?と疑いたくなるが
前にここに来た時は浜は白い砂であったが今は全部石に変わっている。
すっかり砂が持って行かれたんだ!、・・・・





それにしても綺麗なところ、背景が良い。


船に乗ってみるツアーもあるんだ。
浜辺のお土産物やの屋根近くまで波が来た印がしてある。

避難路の看板が目につく


宮沢賢治の句碑もあって、訪れた時は静かだったんだろうと想像できる。


折角の顔だし看板だ一寸覗いて撮って貰った。


草花は何事もなかったように咲いている。

大文字草か?
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すぐこの崖上のホテル”浄土ヶ浜パークホテル”に宿泊
コーナーの部屋でガラス張りで上から浄土を見下ろせる部屋であった。



赤松の木のすき間から岩の島が覗き見られる、素晴らしい景色を堪能。
夕刻は涼しい風が・・・・。
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夕食は



小ぶりのアワビ踊り食いだった。両側の元ポリス2名さんに
さしつさされつで、飲みすぎた!又この2人がカラオケが上手い。

各号車単位でカラオケが飛び出して最後に遺族会会長(K市議)の
持ち歌”高校3年生”で締めてから全員で秩父音頭で踊って宴もお開き。
眠い! 疲れた感じ。
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翌朝は先ず宮古海産物の朝市に・・



沢山の魚と野菜が店のコマ毎に並ぶ。
夕顔の大きい物を売っている。

ホヤ・アナゴ・サバ・の生ものに加工品も沢山並んでいる。

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続いて盛岡八幡宮に立ち寄る。


先ずは洗心



厄除けの瓢箪が沢山吊るされている。


紅葉?なのか・・種が風が吹くのを待っている。
プロペラになって飛ぶ。

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その後は 花巻で昼食を取って幾つかのSAで休息とりながら
長距離を走って羽生IC。
一気に宮古から走って来るんだからドライバーも大変だ
ドライバーは2名いて、交代制である。
昨年の事故以来、厳しい方針指導がなされているんだあ~!
よく知らないが
400KM以上は一人運転はNGなのかな?
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無事について、途中で土産げの請求のあった
おみやげを孫君に渡して一段落。
最近はお土産に何を買ったら良いのか?迷う様になってきた。

喉がイラついている。
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日記 遺族会研修旅行③ 三陸鉄道

2013-08-31 06:15:49 | 日記
8月31日 (土曜日)

遺族会研修旅行③ 三陸鉄道

昨晩27日は、美味しい料理をいただき

28日天気の良い中をお見送りの御挨拶をうけながら海辺に向かって旅館とお別れ。

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土砂崩れの被害あとなど見受けられない御所湖を見ながら久慈に向かう。


久慈道の駅にて休息。天気最高。


あまちゃんの
ポスターがいたる所に貼られている。


NHKに取り上げられると、その効果は絶大だなあ~!
もっとも復興に向けての企画でもあったろう。
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JR久慈駅横の三陸鉄道に乗車












久慈から宮古の路線だが、単線で結構揺れる。

あっちこっっち修復作業が行われたんだろうが何処が終わっているのかは・・わからない。
海を見下ろすと漁港の堰堤の修復も進んでいるんだろうか?
海は青く穏やかであるが、これが津波が起こると牙をむくんだ!



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普代駅で下車して北山崎へ向かう。
今回のメイン観光地。
歩いて展望台へ日射しが強い。

リアス式海岸の素晴らしい眺めだ。




下の第2展望場所に降りたは良いが、帰りはキツイ登りだ・・
足腰の調子の確認も兼ねてゆっくり登り降りをしてみた。
汗びっしょりだ。

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又バスに乗り込んで田野畑に向かう。
途中で普代村の奇跡の防潮堤のお話と水門を車窓から観る。





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震災津波の時の記事や写真を集めた。
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岩手県普代村の奇跡 3000人の村の堤防があの津波をはね返した

 高さは共に15.5メートル。東北一の「防潮堤と水門」が村を救った。
岩手・三陸海岸の北部にある普代(ふだい)村。
漁業が盛んな人口約3000人の村だが、
2011年3月11日午後3時半すぎ、巨大な津波が襲いかかった。

 「高台から見ていましたが、津波がものすごい勢いで港に押し寄せ、
漁船や加工工場を一気にのみ込みました。
バリバリという激しい音がして、防潮堤に激突。


みな祈るように見ていましたが、波は1メートルほど乗り越えただけで、約1000世帯が住む集落までは来ませんでした」(普代村漁協)

 津波が来る前に、港に船を見に行った男性が行方不明になっているが、
防潮堤の内側にいた人の被害はゼロ。

住宅への被害も一切なかった。高さ15.5メートル、全長130メートルの「防潮堤」が、村人の命を救ったのだ。村の北側には、同じ高さの水門(全長200メートル)があるが、
こちらも川を勢いよく上ってきた津波をほぼはね返し、小学校を守ったという。


 普代村の隣、田野畑村(人口約4000人)には、高さ8メートルの防潮堤が2つあるが、津波を抑えられず、死者・行方不明者40人、全半壊533戸の被害が出ている。“高さ15.5メートル”の防御力は絶大だが、なぜ普代村に2つも造られたのか?


 「防潮堤は1970年に約6000万円(当時)をかけて造った。
水門は35億円(同)で、84年に完成しました。

普代村は1896年の明治三陸大津波で1010人の死者・行方不明者が出た。

1933年の津波でも約600人が死傷しました。

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戦後、和村幸徳村長

『2度あることは3度あってはいかん』と県にひたすらお願いし、建設の運びとなった。かなりの費用がかかるので、当時は『他のことに使えばいいのに』
『ここまでの高さは必要なの?』といった批判もたくさん受けましたよ(苦笑)。

 きっと今は天国でホッとされているのではないでしょうか
村ではボロボロに壊れた漁港や養殖場の修復作業が進められているが、

一方で、堤防に手を合わせたり、故・和村村長の墓に線香を供える人が絶えないという。
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同じような記事
 
岩手県普代村に設けた防潮水門などが東日本大震災で効果を発揮。
同村の中心部や集落を大津波から守った。
3月30日時点で行方不明者は1人出ているものの
死亡者はゼロ。住宅への浸水被害も出ていない。

 三陸海岸に面した普代村は、普代川に沿って中心部を形成している。
1896年に発生した明治三陸大津波では、1000人以上の死者や行方不明者を出している。
この明治三陸大津波を対象に、普代川の河口から約300m上流に建設したのが普代水門。水門の高さは15.5mで、長さは約200mとなっている。岩手県が高潮対策事業の一環で総事業費35億6000万円をかけて建設した。完成したのは1984年。

 普代水門は遠隔操作で水門の開閉をできるようになっているが、
操作中に地震の影響で停電。一部を久慈消防本部の職員が手動で操作して、
津波の到達前に水門を閉めた。

 津波は到達時に水門を越えたものの、水門から約200m上流付近で停止。
水門の上流側に設けた管理用の橋が破損したが、住宅などに浸水の被害はなかった。

 さらに同村の太田名部地区では、太田名部防潮堤が効果を発揮した。
同防潮堤は高さが15.5mで、長さが約130m。1970年に完成した。

津波は防潮堤の高さ約14mの位置で止まり、背後の集落に被害はなかった。
 普代村では住宅への浸水被害はなかったものの、水門や防潮堤の
下流側で水産加工場が全壊するなど、漁業施設に大きな被害が出ている。
行方不明となっている1人について同村は、
「船を心配して海岸側に向かったときに被災したのかもしれない」と話している。

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この河口に建つホテル羅賀荘で昼食を
山からホテルの全景を

このホテルは3階まで浸水sたそうである。
今はすっかり綺麗になって営業している。


ホテルからの海の様子は・・すぐ海なので津波をまともに受けたらしい。

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被災時を想像しながらの食事
ホヤの二杯酢と・言われなければわからない烏賊の味に似ている
マンボウの湯引きを酢味噌でいただき、ビールも入ってやや気分良し。
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これから浄土ヶ浜へ・・・・・・・むかう。

日記 遺族会研修旅行② つなぎ温泉

2013-08-30 18:21:14 | 日記
8月30日 

遺族会研修旅行② つなぎ温泉

仙台に入る。結構長く感じた宮城仙台。
仙台戦災復興記念館に到着。



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ボランティアガイドの80歳木村さんが説明。

ご本人は12歳の時B29の爆撃を受けた経験を語っている。
戦争は怖いものだと・・・。

☆1000人以上の方が焼死しているとの事である。
 すっかり焦土と化したその後の復興は仙台の誇りであろうな!
 何度も仕事・私事で訪ね歩いた仙台だが、素晴らしい都会である。
 まさに杜の都である。
 それにしても外は暑い日になった。
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仙台市は、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)7月10日に
仙台空襲で市街地が焦土と化したため、

戦後の1946年(昭和21年)に戦災復興都市計画が策定された。
岩戸景気の中、1961年(昭和36年)に復興関連諸工事が完了すると、
全国の公害問題を意識して1962年(昭和37年)3月16日に「
健康都市宣言を採択して復興後の都市計画の方向性を示し
1973年(昭和48年)3月27日に「杜の都の環境をつくる条例
1974年(昭和49年)9月28日に「広瀬川の清流を守る条例を制定していくことになる。

このような戦災からの復興を記念し、
15億9千万円をかけて当館は建設され、
1981年(昭和56年)4月に開館した。

資料展示室の展示内容は、藩政期から現在までの仙台の歩みが網羅されているが、

上述のような戦後復興期から高度経済成長期を中心に展示がなされている。

なお、戦後混乱期の1945年(昭和20年)9月から1957年(昭和32年)まで
仙台にアメリカ軍が進駐していたが、
その資料収集は榴岡公園にある仙台市歴史民俗資料館が主に行っている。

仙台市戦災復興記念館
詳しくはここをクリック
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一気に・・つなぎ温泉の愛真館へ

今年の8月9日に土砂災害に見舞われた旅館群であったが立ち直っていた。
凄かったらしい。
すぐ目の前が人造湖の御所湖であるが・・当時はWEB上の写真では
流木が流れ来て、湖面が木で埋め尽くされてしまったらしい。

ホームページは
盛岡 つなぎ温泉 愛真館
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先ずはお風呂にここは檜の木の良いお風呂がある。

宴会も始まって、カラオケで熱唱する方、皆上手だ。
踊り(フォークダンス)の活動サークルも参加していて、披露してくれた。



結構可愛く踊っている驚きだ。
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関東と違って夜は涼しい!寝冷えをしない様に全部締めて寝ても暑くは無かった。
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元は警察官で、刑事(一課)にも席を置いていたTさんと同室で、
話が盛り上がって面白かった。
今はただの”オジサン”だと言っていた。
畑の話に興が咲いた。
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☆多くの方と交流すると数々、勉強になるなあ~!

日記(8.30) 遺族会旅行①

2013-08-30 13:03:42 | 日記
8月30日 (金曜日) 晴れ 蒸し暑い!

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27日~29日
熊谷市遺族会の研修で東日本の震災復興の旅に参加する。
当家は遺族ではないが、知人のKさんからお誘いもあって
2泊3日の三陸”北山崎”を中心とした
宮城・盛岡の復興なった旅館に泊まる旅であった。
体調が戻りつつあるところであったが、エイヤーで参加実行する。

毎年この時期に行われていて幹事も各地区の方が担当している。
バス4台で結構大勢の参加である。
羽生ICでバスが集合。

天気は最高、本年も晴れ男状況が続く。
東北道を一気に北上する。

途中、雲が来ては激しい雨(スコール)があって又雲が来てと
バスにいるときはお湿りのシャワーが良い気分。

宮城の白石に到着。快晴だ。



空は綺麗に晴れ上がりあきの空気だ!


白石と言えば
江戸時代より「白石の三白」として、
白石の温麺・和紙・葛は宮城を代表する産品
として広く全国に知れわたっていた。
今も温麺は有名だ。

昼食に温麺(ウーメン) 
短いうどんである、食べ慣れない為か美味しさがよくわからなかった

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日記(8.26) 24Hテレビ

2013-08-26 18:04:43 | 日記
8月26日 (月曜日)   晴れ


24日のH25年度富士総合火力演習が見られなかったので
25日の防衛大臣も観閲の演習をインターネット配信で観た。

下記をクリックすることでで見られる。
富士総合火力演習のインターネットライブ映像配信について

長い、実際は2Hの演習である。
日本の火力装備も大変なものだ。

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話題変わって

4CHでは昨晩まで24Hテレビが・・・

辛くてTVの前から離れる事も何度か?
皆さん、前向に頑張っているんだ・・・・・。

今を幸せと思って行動しないといけないんだ!

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この企画を初め誰がやったんだろう?
スタートは萩本欽ちゃんが総合司会だったことは記憶にある。・・・・
どういう企画で、いつ始まったのかを一寸調べてみる。
まさに忘却とは?である。
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『24時間テレビ 愛は地球を救うは、
1978年から毎年8月下旬[1]の土曜日から日曜日にかけて生放送で実施されている
チャリティー番組である。通称『24時間テレビ』、『24HTV』。

日本テレビ系列(NNN・NNS)30社に沖縄テレビ(フジテレビ系列)を加えた
民間放送局31社が共同で主催している。

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1978年、「愛は地球を救う」をキャッチフレーズとして、
各地でチャリティーキャンペーン活動を行う番組として誕生した。



年末などを除いて、通常の放送を休止し特別番組を終夜放送することは
当時としては画期的な企画であり、福祉をテーマにしたことから実現可能であった。

視聴者から寄せられた浄財を、
国内外の福祉・環境・災害援助活動に役立てる事を目的とした番組であり、
「本当の主役は(テレビの前の)あなたです」
謳い文句にしている。
このキャッチフレーズは2000年代初頭までエンディングで表記されていた。


番組のイメージカラーは黄色。
番組のシンボルマークは赤色・黄色・緑色のグラデーションで
色付けされた地球と軌道上を周回する月をデザインしたものである。

毎年8月下旬の土曜日夜から日曜日夜まで生放送されている
(8月最終週の週末に放送されることが多い)。

第1回(1978年)の放送時間は土曜日20:00 - 日曜日20:00であり、
文字通り「24時間」であったが、その後24時間半→25時間→25時間半と次第に長くなり、

第25回(2002年)以降は原則として土曜日18:30 - 日曜日20:54と26時間半に
渡って放送されている。

番組内容は毎年設定されるメインテーマに基づき、
健常者のみならず、障害者や被災者、難病患者などにも着目し、

チャリティーマラソンやドラマスペシャル、
ドキュメンタリー、チャレンジ企画などを中心に構成されている。

番組内では出演者が応援ソングを歌う場面があり、
使用される楽曲は毎年40曲前後にも上る。

メイン会場として日本武道館が使用されているほか

日産グローバル本社ギャラリーや系列各局のイベント会場では、
チャリティーオークションなどのチャリティーイベントが開催される。

徳光和夫は番組開始以来全ての回に出演している。
第3回(1980年)から第33回(2010年)には31年連続
総合司会を務めた。


歴史をみると
深夜のワイドショー番組『11PM』のスタッフだった都築忠彦が、
アメリカのラスベガスで毎年開催されているチャリティーテレソン
『レイバー・デイ・テレソン』(名:MDAテレソン)、、

日本でもやれると考え企画し、当時制作局長の井原高忠を口説き落として実現した。
『11PM』の
「巨泉の考えるシリーズ・世界の福祉特集」から誕生したものでもある。

第1回(1978年) - 「日本テレビ開局25周年記念特別番組」としてスタートした。
当時の民放番組のスポンサー体制は一社提供が主流であり、

複数社が提供を行う形とした本番組の仕組みにスポンサーが難色を示していたことに加え、
週末のゴールデンタイムの番組が固定されていた関係で、
局内からも本番組の放送には反対の声が多かった。

当初は1回限りの予定だったが、募金額が予想以上に多かったこともあり、
当時社長の小林與三次の意向で翌年以降も開催することが決定した。



第2回(1979年)
- テレビくまもとが熊本県での放送を開始した。
静岡県での放送が静岡けんみんテレビ(現:静岡朝日テレビ)から静岡第一テレビに移行した。

第3回(1980年) - メイン会場として初めて日本武道館が使用された。
 徳光和夫が初めて総合司会を務めた。

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☆もう36回目の24Hテレビだったんだ!
ボーとみていたが、年もとってしまったんだ。
子供が生まれてすぐくらいから始まったんだが
仕事でそうは観ていられなかったんだなあ~!
何せ長い長い・・・・・・・・番組だ。
毎年走るランナーに選ばれその挑戦は大したものだ。
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明日から3日間程ブログ休み。
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