再び原点回帰なり!

未熟なビジネスマンの心のつぶやき

祖母の教え

2012-08-18 09:19:59 | チャット
先週から今週にかけて、一週間の夏休みをいただいた。いつも通り、実家に帰省し、家族と一緒に先祖のお墓参りにもでかけた。

幼少のころ仕事を持っていた母に代わって私を育ててくれた祖母が亡くなってから、もうすでに23年目の夏となる。そのお墓には、その祖母も眠っている。

明治生まれの祖母は、彼女にとって初孫である私には優しい一面もあったものの、一口で言えば「超頑固なクソばばあ」という感じだった。

実に細かい日常のことに、いわゆる「箸の上げ下ろし」に対して、一家言あるというか、「こうあるべき」という考えを持っていた。

私が何をしても、それが自分の基準に合わないと、実にうるさく注意、叱責された。長男たるものは・・・、食事中は・・・、風呂の入り方は・・・、などなど。その基準自体が、偏見や理不尽なものも多々あったように思う。

可愛いはずの孫に対してもこのようであるので、当然、母との嫁姑の関係は最悪。母のやることなすことすべて気に入らず、いつも文句や皮肉ばかり言っていた。

ただ不思議なことに、なぜかこんな頑固ババアのことを最近思い出すことが多くなった。

私がものごごろついたころの祖母の歳は、今の自分と同じぐらいか、あるいはもうちょっと若いぐらいか。

自分が歳をとったからなのか。

それも多分にあるだろうが、それよりも祖母の持っていたある種の気骨、明治の女としての矜持、それが正しいか正しくないか、はたまた道理にかなっているか理不尽かどうかではなく、自分自身の生き方に対する自信と明確な基準を持っていたことに、どこか心の中でひっかかっているのではないだろうか。

すべてのことに、自分自身の基準としての「あるべき論」を持ち、一本筋の入った生き方をすること。そのことの高貴さと大切さを祖母は私に教えてくれたのだと、四半世紀も経った今頃、気づかせてくれた。

いずれ彼の地で祖母と出会った時、昔のままに叱られないよう、今の自分を信じて、一本筋金の入った生き方をしていこう。

そんなことを心密かに誓いながら、祖母の眠る墓石に手を合わせた。