稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

映画「仇討」を見て

2020年08月14日 | つれづれ

(映画「仇討」のラストシーンから)

たまたまyoutubeのお勧めにあった時代劇の「仇討」を観た。

名作 今井正監督「仇討」 中村錦之助 田村高廣 丹波哲郎 三田佳子
https://www.youtube.com/watch?v=eB5rHteNdog

解説・あらすじ(YAHOO JAPAN 映画より)
--------------------------------------------------------
「切腹」の橋本忍のオリジナル脚本を、「武士道残酷物語」の今井正が監督した時代劇。中村錦之助が悩み、もがき、苦しむ下級武士を熱演。クライマックスに登場するリアルかつ迫力満点の殺陣も見もの。  江戸時代。脇坂藩の武器倉庫点検で、槍の穂先の曇りを見つけた奥野孫太夫が、手入れ担当の江崎新八を罵倒。口論の末、孫太夫は新八に果たし状を叩きつけるが、逆に新八に斬られてしまう。乱心による私闘として処分された新八は感応寺に預けられるが、兄の仇討ちに乗り込んできた孫太夫の弟・主馬を斬り殺してしまった。脇坂藩は奥野家の仇討ちを認め、奥野家の末弟の辰之助に新八を斬らせることにする。死ぬ覚悟を決めた新八に、光悦は「逃げて人間として生きろ」と言うのだった。
--------------------------------------------------------

何気なく観始めた映画だが、すぐに引き込まれ、最後まで一気に観てしまった。
いやはや理不尽な話である。死ぬ覚悟の出来た武士に対し藩の重臣たちは対面だけを繕った。
ひっそりと行うべき果し合いを、見物人を集め、なぶり殺しの見世物にするなどトンでも無い話である。

中村錦之助の迫真の演技も良かったが、こういう映画は白黒に限る。

--------------

で、思い出だが、5才の時の、私にとっての理不尽な思い出がよみがえった。

昭和36年9月に奈良の自宅が第2室戸台風で飛ばされてしまい、
半年ほど近鉄奈良線の小坂駅前の近鉄ビルの2階に仮住まいしていた。

私は小さい頃から咽喉や鼻が弱く、
小坂駅一つ奈良寄りの八戸ノ里(やえのさと)駅の布施市民病院(現 東大阪医療センター)に通っていた。
もちろん一人で通院は無理なので、母親に連れられ一駅歩いて行ったのだ。

どういう経過か知らないがアデノイド(扁桃腺の一つ)を切除しなくてはいけないという話になり、
手術日が決まって、その日は朝から子供心に非常に緊張していたのを思い出す。

手術の前に腕の付け根に注射をされた。精神安定剤か何か予備のような注射だったと思う。
注射は今でも好きになれないが、これは大変なことになったと思った。
子供心にも、覚悟を決めるため「あと何本の注射をするの?」と看護婦さんに聞いたのだ。

看護婦さんは「咽喉の奥にあと2本しますからね」と言った。
咽喉の奥というのが怖かったが、よし2本ならば我慢しよう。
そう覚悟を決めて手術台の上に横になった。

照明がまぶしく、医者や看護婦さんが上から覗き込む。
「口を開けて」「注射しますね」と麻酔薬の注射が始まった。

今にして思えば、それは確かに2本の注射だったのだ。
まさかその2本を何回かに分けて注射するなんて考えてもいなかった。

注射針を3回、4回と刺された時に「これは騙された!」と思った。
「2本だと聞いた注射はすでに4本、しかもまだまだ続きそうじゃないか」と思ったのだ。

突然私は固く口を閉ざした。「口を開けなさい!」と医者と看護婦さんが叱りつける。
医者は私の口をこじ開けようとしたが、私は意地でも口を開けない。
両腕は押さえつけられ、まったく身動きは出来ない。

とうとう鼻を押さえられた。鼻を押さえれば口を開けると思ったのだろう。
私は唇だけを開け、歯の隙間で呼吸をした。もう必死だった。

「お母さん、呼んできて!」と医者が言った。
私は母親が来てくれる。助かった!と思った。母親が助けに来てくれると思ったのだ。

母親が手術室の扉を開け、看護婦と同じような格好をして飛び込んできた。
「誠、口を開けなさい!」そう何度も言う母親も必死だった。
私はもうわけもわからずひたすら口を閉ざし、抗議も言い訳も出来ず涙を流し続けた。
マスクをして目だけを出した母親が別人のようにも思っていたのだ。

結局、手術は中止となり、私は一駅間を、母親に殴られながら歩いて帰った。
「手術が終わったら電車で帰ろう」と言われていたのを思い出してもいた。
歩きながら、口の中が麻酔で変な感じがしていたのを思い出す。

小坂駅前の近鉄ビルの2階の自宅に帰るなり、私は窓際のコンクリートのたたきに叩きつけられた。
この時、たんこぶを作るほど頭を打ったのだが、目から火花が出たのを今でも思い出す。
それほど、この日の手術の始めから自宅で叩きつけられるまでの間の出来事は鮮明な記憶なのだ。

思い出せば小学校時代も含めて、口下手で自分の意見が言えず、随分誤解を受けたことがある。
この手術の時でも「咽喉の奥に麻酔注射をします」「麻酔は分けて注射するのでたくさんしますが我慢しなさい」
と言われれば、私の性分なら我慢するのは間違いが無い。
しかし「騙された」と思った瞬間からてこでも動かないぞと意地を張ってしまうのだ。

もし母親が手術室に入って来て「どうしたのか話してみ」と言えば、たどたどしくても自分の気持ちを言えたと思う。
それに対して大人たちは誤解を解く説明をすれば手術も無事に終わったはずだ。

「とんでもない無茶苦茶な子供だ」と思われたことは(今から思えば)かなり多いのだが、
子供時代だけでなく、青春時代、いや社会人になってからも、自分で気づいている以上にあったことだろう。

「そんなことしたら損やで」とよく親から言われたが、
いつも「損得で判断するようにはなりたくない」と思ってきたものだ。
「納得のいくことならやり通せる」という生き方は今でも同じだ。

----------------------------------

映画の中で、死ぬと覚悟を決めた直後の江崎新八(中村錦之助)が、
お寺で風呂に入りながら明るく歌っていた武者追い唄が印象的だった。

槍を立て 筒を取れ いざ行かん 晴れの戦さの庭へ 一切を迷うことなし
馬に鞍 鞍に旗 旗に風 風に雲 いざ行かん 死出の旅路となるも・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする