稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

昭和30年代の給食の思い出

2020年01月18日 | 食べ物の話など
昨年の12月26日に給食の事を書いたので少し補足。

捨てる牛乳やパンを持って帰ったら罪になるのか・・・
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20191226/


(2016年10月28日の読売新聞、日本ユニセフ協会の広告より)

小学校(奈良女子大学文学部附属小学校=現在は奈良女子大学附属小学校)の給食の話。
確か低学年(昭和36年4月~昭和39年3月)までは脱脂粉乳だった。

給食室で、粉の粉乳を給食用のスコップで大きな容器に放り込み、
水を入れて掻き回したのを見た記憶があるが、想像なのか記憶なのか自信が無い。

それを金属製のバケツに移し変えて各教室状に運ぶ。
低学年では脱脂粉乳のバケツは重く二人係で運んだ記憶がある。

脱脂粉乳はまずくて、クラスのほとんどが鼻をつまんで飲んでいた。
(中には「好きだ」という子もいたが少数であった)
当時は給食を残すことはご法度で、全員が食べ終わるまで席を離れることは出来ない。
私などは男兄弟の中で育ったので食べるのが人一倍早く、時間を持て余して困っていた。

今でも思い出すのがM岡さんの事。
M岡さんは旅館の娘さんで、誰より口が肥えていたのか脱脂粉乳が飲めない。
飲み終えるまで遊べないので、一人残ったM岡さんに、誰かが拍子を取り始めた。
「飲め飲め牛乳はやく飲め」みたいな拍子だったと記憶している。
せかされたM岡さんは思い切って鼻をつまんで一気に飲み干した。
ワ~イ!の歓声が出た瞬間、手で押さえたM岡さんの口元から牛乳が噴き出した。
咽喉にでも入ったのだろうか、あわてて先生が雑巾を持って駆けつける。

そこからの記憶は無いが、当時は連帯責任のような教育が普通だったのだ。
給食の時間は、好き嫌いの多い子、食が細い子には大変な時間だったのだろうと思う。

昭和39年に小学校は旧奈良市内から郊外の学園前に引越しをした。
脱脂粉乳は三角パックの牛乳になり、ほどなく瓶の牛乳に変わった。
奈良の植村牧場の牛乳である。「牧場で作った牛乳なんだ」と感激した。

ある日、社会見学ということで植村牧場まで行った。
描いていた牧場のイメージが粉々に砕け散ったのをよく憶えている。

牛乳の蓋は机の端に置いて飛ばしっこをしてよく遊んだ。
あまり熱中し過ぎて禁止令が出たほどである。

---------------------------------------

もうひとつ、私のとっての大事件。

魚のフライが出て、骨っぽいのを我慢して食べていた。
すると小骨があったのか、咽喉の奥に引っ掛かってしまった。
咽喉の奥が痛くてたまらないので担任の小川先生に訴えた。

「パンを丸呑みにしたら落ちる」と言われ、パンをいくつも丸呑みにした。
落ちないので「パンじゃなくてご飯が良い」ということになり、
小川先生はご飯をどこからか貰ってきて、ご飯の塊を何回も私に飲み込ませた。
お腹はパンパンに膨らむがそれでも骨は落ちない。落ちないまま帰宅した。

帰宅して母親に骨のことを言ったのかどうか記憶は無い。
弱音を吐くと兄達に馬鹿にされるのがイヤで黙っていたのかも知れない。
痛いまま寝床につくのだが、痛くて、不安でなかなか眠れなかった。

しかし朝起きたら骨はすっかり取れていて痛みも無くなっていた。

それからずっと骨のある魚フライはなるべく食べないようにしてきた。
アジフライなどを食べ出して「旨い」と思ったのは大人になってからである。


(ネットで探したイメージ写真)
https://matome.naver.jp/odai/2136945200257776801/2136946269760074203

さらにカレーについて。

今のカレーでもカレーシチューでもなく黄色い粉っぽいカレー。

当時は給食はパンだけでコッペパンの日と食パンの日があった。
どちらにもマーガリンが付いていて家のバターより柔らかく塗りやすかった。

ある日、カレーを先割れスプーンですくったらトリの目玉と目が合った。
驚いてよく見ると、それはトリの頭の片側半分で、赤いトサカまで付いている。

大変驚いたが、なぜか自分が悪いような気がして、それだけ残してあとは食べた。
残したら叱られるかも知れない・・という思いのほうが強かったのだ。

今から思うとホラーのような場面である。女の子なら卒倒していたかも。

----------------------

これは私の長兄の小学校一年生の時の話。

私の長兄の滋は未熟児で生まれたのと1月生まれのせいでクラスでは小さかった。
小学校の低学年は大阪の船場に住んでいて、通っていたのは今は無き芦池小学校。
小さいので給食のパンは食べきれない。それを机の引き出しに入れていたらしい。

何やらおかしいと思った女の先生が長兄の引き出しを開けたところ、
中に潜んでいたネズミがその女先生の腕を駆け上って逃げていったらしい。
先生は驚いて気絶してしまい学校をあげての大騒ぎとなった。
「学校でネズミを飼っていた」と母親がこっぴどく叱られたという話。

当時は私は3才だったと思うが、なぜかこの話はよく憶えていて、
「ぼくも学校へ行ったらネズミ飼ってみたい」と密かに思ったのを憶えている。

----------------------

余談だが、低学年の頃は、世間一般に栄養失調児も多かったのか、
給食か何かの時に肝油が一粒配られた時期があった。
甘くてとてもおいしくて嬉しかった。

あと、高学年の時だが、虫下しの丸いチョコレートが配られた事がある。
当時は水洗トイレで無い地域も多く、田んぼの片隅には肥え溜めがあった時代だ。
回虫やギョウ虫のいる子供も多く、毎年ギョウ虫検査の検便を行う。
検便はマッチ箱に入れて提出する。ビニールに包むとはいえカバンに入れるのがイヤだった。

虫下しチョコは全員に配られた。
虫のいる子だけで良いはずなのだがイジめ防止のためでは無いだろうか?

甘いものに飢えていた私達子供に虫下しチョコは大変美味だった。
すぐに食べなくちゃいけないのに隠し持って放課後ゆっくり食べた事もあった。
チョコは誰かが「チロルチョコ」と呼んでいた。調べたがそうでは無い。名前は不明である。

四角い虫下しチョコの箱を、音楽の時間中にオルガンの鍵盤で弾いて飛ばしていたら、
ちょうど文部省か何かの視察の時で問題になり学校上げての大事件になってしまった。
確か、私を入れて4人だったと思うが、全員、親を呼び出された。しくしく泣いていているヤツもいた。
私は「これぐらいのことで怒るなよな」とうそぶいていた。チョコのちょっと苦~い思い出だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする