稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№90(昭和62年9月11日)

2020年01月15日 | 長井長正範士の遺文


○9月15日「敬老の日」を迎えるに当って
これは新聞にも載っていましたが、なかなか良いことを言ってあるので皆さんに私見を混じえてお話しておきます。
此頃、ワープロやパソコン、テレビ、その他電器製品が次々と新製品が発売され、市場に出廻ると、今迄もてはやされたものが、忽ち古い製品となって値打ちが無くなってしまう。然し盆栽や美術工藝品など良いものは、古くなるほど益々価値が出てくるように、われわれ人間も年をとるにつれ、価値ある立派な人物になる不断の修養が大切である。あのキリストや釋迦のように、今尚、いや永遠に偉大であり、光を放っているように。

ところで「老」という文字ですが、この老は、ただ「古い。衰える。としより」という意味だけでなく、「位の高い人」「深い経験を積んだ品格のあるすぐれた人」という意もあることを忘れてはいけません。昔、江戸時代の重要な役職を「大老。老中。家老」などと呼んだことがこの事を示しています。あの寛政の改革を行った松平定信が老中の筆頭の座に就任したのは僅か三十才の時でした。このように「老」はただの年寄りだけの意ではない事がよく判ります。中国では学校の先生を「老師」と呼びますが、これとて、年寄りの老先生だけをそう呼ぶのではなく、若い先生に対しても「老師」と敬称をつけるのです。

さて、来る九月十五日の敬老の日ですが、ただ単にお年寄りを敬うだけでなく、多少お若くとも立派なすぐれたお方をも心新たにして敬う日であるという事を私は念頭において、己れのよき反省の日としております。この意味あいに於いて、私は手紙を出す時、剣道の先生方は勿論何々先生と書きますが、剣道家以外の先輩、友人、又平素私の後輩であっても立派なお方は皆等しく「老師」「老大人」又「老漢」等と書き敬意を表わします。最近では「敬老」精神がうすらぎ「軽老」にもなりかねない時代になってきているような気がして大変淋しい思いが致します。ここにおいてわれわれ剣道を修行する者は、年老いて益々磨きのかかった立派な人間に成長してゆくよう剣道即実生活の実を挙げて終生修養を積み重ねていかなければならないと思うのであります。 この項終り

○ウイリアム・アーサーは教師の段階を次のように言っている。
1)凡庸な教師はしゃべる。
2)良い教師は説明する。
3)すぐれた教師は示す。
4)偉大な教師は心に火をつける。と。
立派な格言でわれわれ少年剣道の指導に当る者にとって大変勉強になる戒めと反省しております。

○人間は生まれた時は肉体が先で、精神はあとだが、凡人は精神が先に死に、肉体はあとから死ぬ。立派な人は肉体が先に死に、精神はあとから死ぬ。虎は死んでも皮を残す。人死んで何を残すか、名を残し流れを残す。私は小野派一刀流を大阪いや関西一円に残す責任がある。これがために、東京からわざわざ小野十生先生が道場に来られ、私に指導されたのである。その当時、笹森順造先生の道場へ小野先生につれて行って貰い、格別の温かいご指導とお励ましの言葉を頂き、今も尚、私の耳の奥底に、ありありと残っている。それは「長井さん、小野先生の意図を良く体し、しっかり一刀流を身につけ、先生のご恩にお応えして大阪はもとより関西一円に正しく広めて下さい」と笹森先生の温顔からほとばしるおやさしい中にも凛としたお言葉に、私は感激の余り眞赤になり涙ぐんで「ハイ!有難うございます」とそれだけを申し上げるのが勢一杯だりました。偉大なるは笹森順造先生と感銘を受け、私はこのすばらしい一刀流との出合いにつくずくと、わが先祖に感謝し、それ以来、小野派一刀流を日夜励み、今日に至っております。以上
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