稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

妙所見ゆ(上垣範士からいただいた詩)

2018年07月03日 | 剣道・剣術
先日の川上村の合宿の宴会の中で上垣範士に剣道で悩んでいることを話した。

「明日、良いものをあげよう」と言われ、
翌日、私に(全員にだが)、詩と解説のコピーを戴いた。
(どなたの書いた詩かお聞きしなかった)

読みやすいように翻訳して紹介する。
間違っていたらお許しあれ。

------------------------------------------------------------
稽古にて 心を決めて 打たれて見よ なる程という 妙所見ゆ

妙所見ゆ(山岡鉄舟「門人に示す」から)

剣術の妙所を知ろうと思えば元の初心に帰るべきである。
初心には何の邪心も無い。
ただ一途に相手に向って打ち込んで行くばかりである。
これが無我夢中で純粋である証拠である。
ある程度上手になった人は自分の経験や思いが邪魔をして害となってしまう。
これを取り去ればすぐに剣の妙所を知ることになる。
ためしに上の人に打たれて見れば良い。
これがなかなか「ただ打たれる」ことは出来ないものなのだ。
そこをどこまでも忍んで「自分からは決して打たない」と覚悟して、
心を動かさずに稽古を続けていれば、いつか「なるほど」という場面が出てくる。
少しも疑いの気持ちを入れずに修行をしてみるべきだ。
必ず妙所(非常に優れた剣の高み)を発見する時が来るものだ。
------------------------------------------------------------



このコピーを戴いたあとで上垣範士に稽古をお願いした。
「自分からは決して打たない」と覚悟していたが、
構えて対峙し、初太刀のあとは懸かり稽古になってしまった。

まだまだである。まだまだである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする