Y's クロニクル

旅行等の一生思い出に残る事から日々の小さな出来事まで少しずつクロニクルに残せたら・・・と思っています。

カミュの「シーシュポスの神話」を読んでみた。

2011-06-10 08:20:05 | 日記

先日おもしろいTV番組がないので適当にチャンネルを変えていたら、BSか
どこかのほんの数分見ただけの番組にハートをキャッチされた
見た事も無いおじ様が主役だったが、その方がカミュの”シーシュポスの神話”に
衝撃を受け「希望を求めない生き方をすれば絶望する事もない」と気づかれ実践している
との事琴線に触れちゃいましたよ~。以前聖書のヨブ記が納得いかない
書きましたが、今年はあの未曾有の大惨事を目にし、直接被害を受けられた方が
もし・・自分なら・・と考え、はたしてこの絶望の中から立ち直る事が出来るのか?
なーんて事を考えちゃう日もある訳で・・なので余計に興味をひかれたってワケ。

ギリシャ神話に出てくるシーシュポスはなかなかの野心家の男で、その野心ゆえ
地獄に行くのだが、言葉巧みに少しの間、現世に戻らせてもらうのだが、ずーと居座る
心つもりな事を神から見透かされ地獄に引き戻される。その時に無限に続く労苦を与え
られる。タルタロスという所で、巨大な岩を山頂まで押し上げなければならないのだ。
山頂まで押し上げるとすぐさまその岩は下に落とされてしまう。エンドレスな労苦。
全身全霊を打ち込んで尚且つ何も得るものがないという責苦。もやは希望としての
「死」はないのだから。恐らくこの有名な神話の絵画があるのだろう。カミュはそこに
その責苦にさへ打ち勝ち生き生きとしたシーシュポスを見出すのだ。

あらゆる力という力を使って岩石を山頂まで押し続けるのは「山頂に岩を上げれば・・」
という希望の力。しかし無慈悲にも岩は下に落とされてしまう。山頂から降りるシーシュポス
にカミュは勝利を見る。絶望を持って山を下る事もあるが、それすら超越して喜びに
満ちるシーシュポスをカミュは確かに見ている
絶望を持って下る時には岩に彼は負けている。しかしそれを受け入れ下る彼は既に神に
勝利しているというのだ

同じくギリシャ神話のオイディプスにもシーシュポスと同じ「神への勝利」をカミュは見る。
悲劇的な宿命を知らずに人生を歩んでいたオイディプスが運命を知った時に悲劇に変わる。
しかし彼は「これほどおびただしい試練を受けようと私の高齢と魂の偉大さは、私に
こう判断させる・・全てよし!・・と」

「希望」を持たずに生きるという事が大変難しい事のように私には思われた。
希望を持たなければ絶望も無いというのは理解できる・・つもり・・
等と考えながら読んでいたら、意外な収穫があったこの「シーシュポスの神話」
という本の付録に「フランツ・カフカの作品における希望と不条理」という書評が
あったのだ
以前このブログにも書いた「審判」と「城」をカミュはとても評価しており、そのカミュの
分析はカフカを読んで何かモヤモヤしていた私の大変な助けになってくれた

どちらの主人公も「希望」を持ち続けていたのだだから苦しく空しい同じ事の繰り返しを
行わなくてはならなかったのだな~。
案外、希望を持たない方が自由になれるのだな~。

世界史的に見ても非常に理不尽な事がこの世を埋め尽くすと必ずそこには退廃的
で享楽的な文化が現れる。私なんかもあのような惨事を見ると「生きているうちに
楽しい事しておいた方が勝ちだな!」とか思ちゃうものね~
心底そう思えればこれはこれで有りだろうけれど、退廃的な結果が享楽的では
これはツマラナイ人生だろう。希望を持たずに「全てよし!」と思えるように
修行の日々だ~。アッ修業は大嫌いなんだった


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