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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

日本刀の謎 〜藤原の名乗り〜

2021年02月06日 | open


日本刀の歴史の中で、明らかにされて
いない謎は多いが、その中に刀工の名乗
りがある。
自身の姓を「藤原」とする刀工が圧倒的
に多いのだ。
中世までは刀鍛冶が姓を銘に切るのは、
無いことはないが多くはなく、一般的
ではなかった。
しかし、新刀期(慶長以降)に刀にハクを
付けようと工人であるのに朝廷から書類
上の官位を受領(ずろう)する事が流行っ
た。取り仕切ったのは伊賀守金道だ。
初代金道は文禄三年(1594)に伊賀守を
受領して禁裡御用を拝命し、その後、
徳川家康から太刀一千口の製造を命じら
れたことをこなした。彼一人では作れない
ので、人脈を駆使して関係鍛冶職を引き
込んで量産した。慶長十九年の事だ。
そのため、家康の斡旋により、のちに
朝廷より「日本鍛冶宗匠」に任じられる。
以降、日本国内の刀鍛冶は、ハク付けの
為に形式上の官位を取得しようとしたら、
絶対に伊賀守金道を通さなければならなく
なった。

刀工という一介の鍛冶が国々を治める訳
でもないし国司でもないのに守(かみ)や
大掾(だいじょう)などの官位を名乗りだ
したが、これは実体を伴わない名目上の
官位だった。
刀鍛冶はただの鍛冶屋の職人である。
しかし、権勢と結びつく事によって刀工
に権威付けをさせることを時の武将は好ん
でやった。朝廷の権威を利用して。
実は金で買える官位だ。
ただし高い。超高額だ。今の金額で、申請
一件で6,000万円程かかる。
だが、大名や商人たちがスポンサーとな
り、多くの刀工がハク付け官位を求めた。
苗字なども持っていない、持っていても
公式には名乗れない階級であったのに、
源平藤橘の姓を名乗った。下手したら、
苗字の前に姓を決めたのではという勢い
で。
姓名の姓は血筋と家の来歴を体現するもの
であったが、武士とてコロコロ変える始末
だった。徳川将軍家でさえ、元は藤原を
名乗っていたのが、トクガワを剽窃して
からのちには源にしてしまった。
柳生家も平を名乗ったり菅原を名乗ったり
していた。
日本全国、公家以外は大出鱈目を武士たち
はやっていた。
その大親分は島津家で、始祖を秦の始皇帝
としている。
よくぞ、「わが先祖は卑弥呼なり」とする
武将がいなかったものよ、という位に武家
の血筋来歴などは出鱈目ねつ造大流行だった。
そして、そのねつ造を補完するために系図
を専門家に新規製作させたのだった。
それがいわゆる「系図買い」という現象で
あった。

日本の歴史は、多くの社会的な局面で大嘘
だらけだ。
日本刀の鍛冶工人=刀鍛冶に「藤原」姓が
多いのは、たとえ受領していようがいまい
が、朝廷と密接した関係にあった藤原氏を
僭称する事によって、大衆と権威筋に対し
て、ハク付けして自分はレッキとした貴種
である、としたかったからだろう。
僭称であり、盗用であり、権力に阿るせこ
い根性ともいえるが、往時の日本人全体が
そんな調子なので、何も刀鍛冶たちの町人
が特別なのではない。お上でさえ僭称盗用
の総大将であり、武力で権力を掌握した
だけの野蛮人でしかない。

公武のうち武門はそうだが、公家とて同
様。
古代にあっては、朝廷皇室内で殿中で対立
者を斬首とか平気でやっていた。皇子だろ
うが関係なく首切断。
そして、自分が権力を握る。それを改新と
称する。
日本というのはそんなもの。

江戸期の刀鍛冶が圧倒的多数で「藤原」を
名乗るのは、公家の藤原氏とは関係ない。
僭称なのである。
しかし、なぜ藤原が多いのか。
それだけ、日本人の精神的質性のバロメー
ターと見れば、刀鍛冶が藤原を名乗りたが
る精神的土壌が見えて来る。

しかし、そうしたことに全く興味のない
刀鍛冶もいた。長曽祢虎徹や幕末の清麿
(すがまろ)がそうだ。
清麿は源を名乗ったが、これは信州での
郷士の家系の伝系ではなかろうか。
元々姓を持っていたのだろう。
虎徹に至っては、刀工銘以外、通称の名前
さえ判ってはいない。
通称とは武士が持つ実名=諱ではない何と
か太郎みたいな日常の呼び名の事。
現代の日本の戸籍では、氏と名の登録しか
なく、名は諱だろうが通称だろうが認可
された漢字ならば登録できる。
江戸期は武家の男子は姓名苗字通称を持っ
ていた。清水甚之進藤原信高、というよう
な。
そして、名前の変更は任意に可能であっ
た。現代より自由が存在した。
なお、実名を呼ぶ事は「名指し」と呼ばれ
て、日本にあっては、武家政権時代は禁忌
であった。絶対に「家光殿が」などとは
武士は口が避けても呼ばない。家光と呼ぶ
のは家光より上の位の者だけだし、将軍
宣下の折に源家光(花押)と自称するのみ
だ。時代劇はすべて大嘘。
水戸の光圀公がぁ、などという表現も絶対
にしない。
それはもう、現代人が天皇を二字名で本名
を呼ばないのよりもずっと厳格に守られて
いた。
現代人は気安く「家光公が」とか口にする
が、武士はそれをしないのである。

虎徹の名前は、私個人は研究から「みの
すけ」だったのではなかろうかと思う。
虎徹の名前は三之丞という説もあるのだ
が、それは「みのすけ」を改字してサンノ
ジョウと読む漢字を宛てたか、もしくは
三之丞自体もミノスケなのかも知れない。
元来は「巳之助」とか「箕助」とか「三ノ
助」とかではなかったろうか。
史料で虎徹に「巳之助」は未見だが、たぶ
んそのあたりではなかろうかと踏んでい
る。
虎徹興里は、受領には興味無かった。
また、幕末の源清麿(すがまろ)本名山浦環
も同じく。
清麿の兄の山浦真雄(さねお)も然り。
彼らに共通することは、超絶物切れ、大切
れする突出した業物を作った事だ。
余計なハク付け算段してる暇あったら、
鍛治について頭一杯にしていろ、という
事だろう。
いくらハク付けしても、刀としてしょっぱ
過ぎたら話にならない。
直胤だって、もっと資金を潤沢に回して
貰っていたら、あんな折れ易い代物は作ら
なかっただろう。
あれまた特筆すべき程に天下の見かけ倒し
の刀だったが、直胤は書面にて泣きをお上
に入れている。
こんな賃金では刀などは到底まともに作れ
ません、どうにかしてください、と。
しかし、けちんぼ殿様からは無視された。
そうして、あのような刀が出来上がった。
実際に戦闘や切り結びさえしなければ
直胤の刀剣は刀も長物も見事だ。見たら
唸る。

そして、現代人の現代刀の刀鍛冶は、その
直胤のやり方と路線を墨守して模倣して
いる。
虎徹、真雄が目指した所を目指す現代刀鍛
冶は、現代刀工300名のうち、ごくわずか
しかいない。
かといって、彼らが悪い訳じゃない。
そうしないと、つまり直胤パターンでやら
ないと刀鍛冶として存在できないシステム
に日本の制度がなっているのだ。
その特殊な刀剣の事を「美術刀剣」と呼
ぶ。
戦闘には使えない、否、あえて使えなく
させ、使わせない、物理的に不能な物品
を作らせているのだ。
誰が?
お上が、である。
戦後日本は、そういう国なのだ。
そして、現代刀鍛冶は、刀鍛冶という刀の
鍛人(かぬち)である事を忘れ、陶芸作家の
ような作家であると自らを見誤って生きて
行く。
それがもう何十年も続いている。

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