渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

古代山陽道 ~吉備国沼田郡真良(しんら)/現三原市~ (2014.6.2記事再掲)

2024年04月23日 | open

道路から古代史を見る。

古代、大和王権から中央集権
的な大和朝廷に移行していく
時期、
日本国内が統一され、
それに伴い列島を往来する陸
路である
古代街道が整備され
た。

この街道整備は大化の改新に
よって進められ、畿内の都と
各地を結ぶ
往路が開かれた。
律令制により、街道には「駅家
(うまや)」と呼ばれる宿駅
が設置され、
物流運搬用の疋
馬が規定頭数常備されていた。
現在の鉄道の「駅」は
この古
代の駅家からの流れにある。
また、日本発祥の「駅伝」は
こうした古代の駅家間の通信
手段の形態を参考にした命名
であった。
(※
大正年間、「東海道駅伝
徒歩競争」の開催にあたり、
当時の大日本体育協会副
会長
および神宮皇學館館長・武田
千代三郎が名づけた。当時江戸
時代
における東海道五十三次
における伝馬制からヒントを
得たと言われている。

駅伝という言葉自体は、日本
書紀にも記載されているほど
古いものである。

首都と地方の間の道路網に30
里(約16km)毎に置かれた中
継所のことを
」といい、
ここに宿泊施設や人、馬を配置
していた。駅に朝廷の使者が

到着すると、次の駅まで乗り
継ぎの馬を用意する仕組みが
整っており、
この制度を「駅
制と伝馬制」あるいは「駅伝
貢進」といった)

現在の三原市(古代吉備国水調
(御調/みつぎ)郡・沼田郡)
近辺には
古代山陽道において
複数の駅家が置かれた。

沼田郡は古代には「ぬたぐん」
と読まれたが、後に沼田荘と
区別が
事実上なくなったため
消滅した。江戸期に沼田(ぬ
また)郡として復活するが、
安芸国に編入されている。

古代から備後沼田(ぬた)郡
は安芸国の区域として捉えら
れることもあり、備後と安芸
の国境は古代においては不明
瞭だったのではなかろうか。
これは吉備国の境界線が古代
においては東は掛川から西方、
四国香川県の一部を含む地域
から、西は現在の三原市内あ
たりまでとされていたことか
らも類推できるが、そもそも
古代街道でさえ完全整備され
ていなかった古代において、
きちんとした地理調査など不
可能だったことだろう。
行政区割りとしての国境線な
どは、統一国家となった律令
国家日本にとってはあまり厳
密なものではなかったのかも
しれない。
ただし、各地方の国名につい
て「どこからどこまでを、な
ぜ、どのような名にしたのか」
ということについては、古代
政権成立以前の歴史、倭国の
クニの時代からの流れがある
ことだろう。
吉備は畿内大和政権に拮抗す
る大勢力が存在した。しかも、
製鉄技術と共に存在した。大
和は出雲と並んで吉備が欲し
かった。吉備の技術と土地と
人も支配下に起きたかった。
そして、それは叶う。吉備の
王家も畿内大和王権の中央に
重用された。
しかし、ある時期から吉備の
人間が大和王権中央から排除
されて行く。
これは製鉄技術を吸収したか
ら「ハイ、サヨウナラ。もう
君たちは要らないよ」で処分
されていったのではなかろう
か。明治維新後の薩摩人と西
郷さんが明治中央政府勢力か
らポイ捨てさせられたように。


ネット百科Wikipediaによる
山陽道の説明を引用する。


古代山陽道

概要

古代日本では、太陽の出没方向
に因んで東西を日縦(ひたて)、
それに
直行する南北方向を日横
(ひよこ)と呼んでいた。そし
て山稜の南斜面
(上古・中古中
国語で「陽」)を影面(かげと
も)、北斜面(上古・中古中国
で「陰」)を背面(そとも)
と呼び、共に日縦である本州西
部南岸の街道を
「影面の道」
(漢訳すると「山陽道」)、本
州西部北岸の街道を「背面の道」

(漢訳すると「山陰道」)とも
呼ぶようになったとされる。

大同2年(807年)の改制までは、
播磨以西の山陽道には51の駅家
があり
(駅間距離13里程度)、
それぞれに25疋の駅馬が置かれ
ていた。この改制
以降は、新任
国司の赴任も海路を使うように
なるなど駅路の利用は衰微して

いった。

『延喜式』(927年に編纂)に
は、駅路(七道)ごとに各駅名
が記載されており、
これを元に
当時の駅路を大まかに復元する
ことができる。延喜式の兵部省

諸国駅伝馬条による、駅家・駅
路関係の史料からは、山城国の
山崎駅から
筑前国の久爾駅まで
58駅を数えていたことが伺える。
なお奈良時代には、
平城京から
木津川沿いを北上し、河内国交
野郡(現、枚方市・交野市)の

楠葉駅を経て淀川対岸の摂津国
嶋上郡(現、高槻市・島本町)
の大原駅を
経由する路線であった。
その後平安時代には、平安京か
ら南下して山城国乙訓郡(現、
大山崎町・
長岡京市)の山崎駅
から高槻を経て、西へと向かう
路線となったようである。

古代の山陽道の場合、原則30里
(当時の一里は約540メートル
で、30里は
約16キロ)ごとに駅
家(うまや)を設けていた。道
幅は約6メートルから9メートル

で、その行程は直線的に短絡す
るよう計画されており、各国の
国府を効率良く
結んでいた。本
道から外れた美作国へは、播磨
国草上駅から西北に分岐した

路(美作路)が伸びていた。 山
陽道が重視されたのは外交使節
の入京路
に当たっていたからで、
駅家は瓦葺きで白壁にしていた
ので、天平元年
(729年)その
ための財政措置が行われた。

当初はこの陸上交通路によって
地方官である国司が往復し、各
地域からの
税である庸・調を運
搬することを原則としていた。
しかし大量の物資を輸送
するの
は水運を利用する方が効率的で
あり、次第に瀬戸内海を経由す
水運の比重が高まっていった。
やがて律令制の納税、軍制の形
骸化に呼応するかのように、駅
伝制は急速な
衰退をみせ、10
世紀後期または11世紀初頭には、
名実共に駅伝制も駅路も
廃絶し
た。

実際の古代山陽道の路線趾が、
発掘調査において確認された事
例は極めて
少なく、高槻市郡家
(ぐんげ)川西遺跡(幅8m)、岡
山県備中国分寺尼寺跡
(幅7メ
ートル)、兵庫県たつの市小犬
丸(こいぬまる)遺跡、上郡町落
地(おろち)
遺跡など数例を数え
るのみである。

~広島県の古代駅家~
備後(5駅、『延喜式』では安
那、品治、葦田の3駅となっている)

  • 安那(やすな、安那郡) 駅馬数20疋 広島県福山市(旧深安郡神辺町)御領
  • 品治(ほんじ、品治郡) 20疋 福山市駅家町
  • 葦田(御調郡) 20疋

安芸(13駅)

  • 真良(しんら、沼田郡) 駅馬数20疋 三原市高坂町真良
  • 梨葉(なしわ、沼田郡) 20疋 三原市本郷町
  • 都宇・津宇(つう、沼田郡) 20疋(『倭名類聚抄』に「沼田七郷」
    として今有・沼田・舩木・安直・真良・梨葉・津宇)
  • 鹿附(かむつき、沼田郡) 20疋
  • 木綿(ゆう、賀茂郡) 20疋 東広島市西条地区
  • 大山(賀茂郡) 20疋 東広島市八本松地区
  • 荒山(安芸郡) 20疋 広島市安芸区中野東地区
  • 安芸(安芸郡) 20疋 安芸郡府中町城ケ丘 下岡田遺跡
  • 伴部(佐伯郡) 20疋 広島市安佐南区伴地区
  • 大町(佐伯郡) 20疋 広島市佐伯区利松地区周辺
  • 種篦(へら、佐伯郡) 20疋 廿日市市下平良地区
  • 濃唹(のお・おおの、佐伯郡) 20疋 廿日市市大野高畑地区(『万葉集』
    高庭馬家(たかばのうまや)跡)
  • 遠管(おくだ、佐伯郡) 20疋 大竹市

古代の山陽道は都と大宰府を
結ぶ陸路だった。

古代の距離でいくと、30里
(当時の一里は約540メートル
で、
30里は約16キロ)ごとに
駅家を置くことになっていた
のだが、者度(うつと)から
真良(しんら)の中間地点(三
原市八幡付近)には駅家の名
は史料上確認できない。
名が出てくる駅家間の駅間距
離が古代距離の60里(32km)
となってしまうから、その中
間に駅名不明の駅家(八幡地
区)があったのだろうという
仮定だ。

(三原市歴史民俗資料館)

なぜ、者度(うつと/いつと)
から真良(しんら)・梨葉ま
での地域に私がこだわるかと
いうと、この区域こそが「三
原」という地名が存在しなか
った時代の陸地部分における
古代の重要地点だったからだ
(事実)。
そして、この地域こそが「元
三原」ではなかったろうかと
いう問題意識がある(推定)。
それは真良という名称そのも
のが古代製鉄と密接にあるば
かりか、
真良は古墳郡遺跡地
帯であり、古名で赤石という
地名もある地区であることも、
元三原比定地としての可能性
を高めている。
そして、ここから沼田川(ぬ
たがわ)を下ってデルタ地帯
にかかる梨葉(なしわ)の駅
家周辺地域は備後地区におけ
る一大古墳遺跡地帯なのであ
る。弥生遺跡と縄文遺跡も同
地域に多く発見されている。
弥生から古墳時代の遺跡は一
つや二つではない。まさしく、
古代、ここにおいて、製鉄に
絡む何らかの強力な政治・産
業活動が見られたのが、この
地域の遺跡に見て取れるので
ある。

古代山陽道の真良(しんら)
駅家の周囲は山間部の谷あい
であるのだが、古墳をはじめ
古代遺跡が多い。
主だったものだけでも以下の
通りだ。

・城の前古墳(三原市高坂町真良城の前)
・大峠古墳群(三原市高坂町真良大峠)
・大峠古墳群(三原市高坂町真良大陣)
・室迫古墳群(三原市高坂町真良室迫)
・小陣遺跡(三原市高坂町真良小陣)
・真良古墳群(三原市高坂町真良小陣)
・文殊ヶ迫古墳(三原市高坂町真良文殊ヶ迫)
・猿神古墳(三原市高坂町真良猿神)
・仏通
寺石造宝篋印塔(三原市高坂町許山)
・許山窯跡(三原市高坂町許山)
・ひじり塚古墳群(三原市高坂町許山中ノ坪)

沼田川下流部(古代において
は高山城より北が河口)で中
世にデルタ地帯が形成された
沼田(ぬた)西、沼田東地区
に至っては、古墳や遺跡が多
すぎて列挙するだけでかなり
の時間がかかる。

古代王権あるところ製鉄あり。
日本刀の刀鍛冶は空から降っ
て降りて来たのではない。
古代から連綿と続く鉄器生産
者の流れの中に中世に成立し
た「日本刀」の鍛冶職はあっ
たことだろう。
弥生から古墳時代初期にかけ
ての国内古代製鉄は褐鉄鋼を
原料としていたことだろう。
だが、製鉄として効率のよい
タタラ製鉄の技術と原料採取
技術が大陸半島から韓鍛人
(からかぬち)によってもた
らされ、以降は国産製鉄は順
次、褐鉄鋼から磁鉄鉱の餅鉄・
砂鉄を原料とする製鉄に移行
していったのではなかったろ
うか。

日本神話を出すまでもなく砂
鉄製鉄こそが国内を統一した
古代大和中央王権の権力の象
徴であり、日本の古代製鉄の
原初においは褐鉄鋼による製
鉄であることは明らかである
のに、それを否定し、最初か
ら日本の古代製鉄は「たたら
+砂鉄」ありきの論を「正論」
として主張する現代研究者が
異様に多いのは、遺跡などの
歴史事実を無視してまでも無
自覚ながらの指向性として大
和中央政権に対する恭順の思
想を体現するものであり、科
学的根拠により学術研究を深
化させることを拒否する歪ん
だ国粋主義に依拠するもので
あると断じることができる。
歴史解明に政治的意図を持つ
捏造や改ざんなどの恣意性が
存する限り、学問の純潔性や
健全性は保全されない。

では、古代山陽道の現在の三
原市内を通っているルート、
とりわけ真良(しんら)地域
の古代山陽道はどのようなも
のか見てみよう。
(仏通寺を通らない真良通過
ルートとする)


真良(しんら)の駅家から南
下して梨葉(なしわ)に行く
に際し、中世の小早川氏の城
である高山城から新高山城の
間には現在は沼田川が川とし
て流れているが、中世末期以
前はここは入り江である。高
山城から数キロ奥の上流域の
地名は「船木」であり、そこ
まで古来船が入っていたこと
が分かる。


高山城(建永元年1206年築城
~天文21年1552年廃城)の鎌
倉時代の築城からさらに500
年程昔の7世紀頃の古代山陽道
が現在どのようなものかネット
マップで見てみる。



山賊が出そうな場所だ。これが
古代山陽道である。A地点を南
下して安芸国をめざす。


横を見ると、何かの道標がある。
数百年は軽く経っていそうだ。



B地点。巨石による石垣・石組
みがある。



明らかな人工建造物だ。


更に進む。C地点。巨石の切欠
きは古く見える。
まさか奈良時代の開墾跡?


しばらく下って、ようやく新道
との合流地点に到達。



真良(しんら)駅家があった
だろうと仮定できる地域の全
景。馬井谷という現在も残る
字名は、駅家(うまや)であ
ったことの名残で、「うまや」
が転化したものと思われる。
古代においては「う・ま・や」
ではなく「うまぃや」と発音
していたのではなかろうか。
1400年の時を超えて、かつて
の息吹が地名として残っている。
歴史とは過去の夢物語などでは
なく、現在のたった今と繋がる
時間軸の流れのことなのだと認
識させられる。



しかし凄いところだ。「街道」
などとは思えない。

現代でもこうであるのだから、
古代から中世にかけてはどうで
あったのか
というと、意外だろ
うが、さして今と変わらないだ
ろう。

この古代山陽道は往路として現
在頻繁な交通路として使用され
ていないからタイムカプセル

態で1400年の時を超えて現存し
ている。

古代山陽道ではこのような場所
がかなりある。
Wikipedia では「実際の古代山
陽道の路線趾が、発掘調査にお
いて確認
された事例は極めて少
なく
」と記載されているが、古
代道は残っているが発掘調査が
されていないだけである。古代
街道と駅家の発掘調査は、古墳
調査に匹敵するほど史実解明の
材料が眠っていると思われるが、
なかなか租税徴収の「物流」面
からの古代史解明アプローチは
あまり積極的には現在のところ
なされていないようだ。
この三原市内の古代山陽道は、
戦国末期に三原城が造られて海
岸線に
町ができてからは、その
三原城下に「山陽道」が西国街
道として移された。
もはや駅家も廃棄されて数百年
が過ぎており、城と城下町とい
う町形成が中世末期から現代に
つながる人口流出入と物流の新
形態となりつつあった。

三原の城下町を通って西に延び
る西国街道は、安芸国内で古代
山陽道と
重なるが、その地点が
古代山陽道の梨葉(なしわ)の
駅家地点であった。

戦国末期、三原近辺から尾道に
かけての地域では末三原物の刀
工群が
活躍していた。
同時期、安芸国の大山峠(現東
広島市八本松西五丁目~広島市
安芸区上瀬野町)近辺で大山鍛
冶宗重一派が鍛刀していた。作
柄は末三原物にソックリである。
何らかの技術的・材料的な交流
があったのではなかろうか。
銘を見ずば大山宗重は末三原と
まず鑑定入札するだろうという
くらいに似ている。

大山峠は江戸時代の山陽道でも
あったので、かつては山陽道を
旅する
日本人は全員が通った道
だ。

現在は人の往来は途絶え、古代
や江戸期よりも荒れている。


安芸国大山峠。ここを江戸時代
には大名行列や飛脚が通った。
今ではこちらも三原市内古代山
陽道と同じく、山賊が出そうな
峠道だ。
しかし、この現在の大山峠の様
子こそ、中世期の三原周辺の道
路の状況と酷似だったことだろ
う。三原と呼ばれた海辺の寒村
に出るには、どのルートから入
るにしろ、このような峠道を通
らなければならなかった。

さて、三原地区に戻る。
私は、実は「古三原」の正家が
三原近隣で作刀したのであれば、

それは真良駅家近辺数十キロの
範囲ではなかろうかとの仮説を
立ててみたいと思っている。

鍛刀候補地としては梨葉駅家、
真良駅家、そして八幡地区だ。

八幡地区は国内最古の製鉄遺跡
が発見されている場所だ。

この八幡地区の駅家は記録上記
載されていないが、駅間規定の
距離
から類推すると八幡に駅家
がないとならないことになる。

この八幡もかなり鍛刀地として
匂う。


真良・梨葉地区は古代からの古
墳文化時代の鉄器製造の地の

れとして、八幡もその流れとし
て位置づけられる。

とにかく、戦国末期までは現三
原城周辺は、屹立する山の半島
が海に
突き出した、あるいは入
り込んだ絶壁であり、平地部分
が極度に少ない
何もない海辺で
しかない場所であるので、その
ような交通の便にも不便な場所
刀剣鍛造をしたとは考えにく
い。往来はほぼ海路のみの場所だ。


呉線が通る現国道185号線沿い
の瀬戸内海沿岸地域は、鉄道
が開通するまでは絶界の陸の
孤島だった。現在の静岡県の
伊豆半島西側が鉄道がまった
く開通して
いない地域であり、
現在も隔絶感が高い。
伊豆西部や三原呉線沿岸部

そうであるように、現三原駅
周辺も、国道2号線が三原市内
を東西に開通したのさえ昭和
30年
代であるので、鉄道開通
以前はまさしく絶界の地だっ
たことだろう。

それでもまだ江戸期には城下町
があったし、城下を抜ける東西
の街道(広島海道と備中海道)
が整備されていた。
だが、城が築城される以前は、
現三原地点は立ち寄る意味もな
いただの
入り江の一沿岸地点で
しかなかったのである。

これは2014年現在の糸崎、つ
まり古代水調(みつぎ)郡長
井之浦である。

室町時代末期に城が出来る前
の現三原城地点もかつてはこ
のような風景
だったことだろう。

明治26年に鉄道が開通するま
では、この海岸線は上方から
の陸路も全く無く、まさしく
陸の孤島だったのである。万
葉の頃から湊として、あるい
は出雲への道が通る場所とし
て尾道は栄えていたが、その
尾道から現在の三原地区に出
るのは「山を三つ越さないと
ならない」と言われていた
(江戸期の伝/尾道市民による
伝承)。それは古代山陽道を
通るルートだとまさに3カ所峠
を越える。
この画像の山陽本線脇を通る
のが国道2号線だが、この国道
は昭和30年代に開通したので
ある。三原という場所が、い
かについ最近まで隔絶された
陸の孤島であったかが窺い知
れよう。

三原に入るルートは、尾道か
らは東から列挙すると、三か
所がある。
脇古道で尾道から北上して峠
を越え、美ノ郷の平地を西に
取り現三原市深(如水館高校
前の道)から太郎谷の峠を越
えて現三原入りする第一ルート。
これは三原手前で現在町名中之
町という場所を通る。ここの
狭い平地には古刹もあり、元
三原の候補地としても差し支
えないような場所だ。賀羅加
波(からかわ)神社という名
刹もあり、
『延喜式神明帳』
に記載されていることから平
安時代初期の延喜(900~)年間
には既に備後国の重要な祭祀を
執り行う主要な神社であった
ことは明らかだ。カラカワから
は韓鍛冶(カラカヌチ)をも想
像させ、この神社裏の山を越え
たらコマガハラという狭い原が
ある。駒ヶ原という地名は、元
来は高麗ヶ原であった可能性も
ある。
現三原市中之町(なかのちょう)
は、渡来系製鉄技術者集団の居
留地としての条件は揃っている。
第二ルートは、尾道から山を二
つ越え、三つ目として古代山陽
道の八幡から急峻な難所の峠
(エゲ谷)越えで三原に入るル
ート。これは現山陽自動車道三
原インターからの峠道と同一だ
が、途中からはエゲ谷ではなく
コマガハラに出る古道が枝分か
れして結合している。駒ヶ原を
抜けるルートは現在通行不能で
獣道状態となっている。昭和中
期までは三原から駒ヶ原経由で
八幡に抜ける古道があった。人
が離合できるほどの通りだった
という。
このエゲダニには古来鋳物師
(いもじ)が住し、中世室町
期には多くの寺院の鐘を製造
していた。鋳物師は鋳物師と
自らは名乗らず、「大工」と
して鐘に銘を入れている。
第三ルートは、尾道から古代
山陽道に出て三原山間部を大
きく西に迂回し、真良から峠
越え、もしくは梨葉から船便
で三原に数キロ東上して入る
ルート。
ここは、小早川城である高山
城・新高山城の御膝元であり、
「チンコンカン」なる不思議
な祭りが残っているが、この
チンコンカンは明らかに製鉄
者として鬼を見立て、これを
制するという古祭だ。「チン
コンカン」の由来は不明だが、
私はそれは鍛冶工程の鍛造の
音からきているのではなかろ
うかと踏んでいる(私以外に
この初見は既出なし)。

不思議なのは三原に入る三つの
ルートどれを取っても、古代製
鉄や中世鍛冶と密接な関係にあ
る土地を通る、ということだ。

いずれのルートも、三原という
土地が東・北・西の三方を急峻
な峠によってさえぎられている
地形のため、行程は楽ではない。
戦国時代末期に小早川隆景が数
百年居住した高山城・新高山城
を捨てて要塞としての海上城郭
を築城したのには、風雲急を告
げる戦国時代の頂点時代にあっ
て、強固な軍事的都市建設とい
う観点から、こうした両手背中
を山に囲まれた閉ざされた地形
の場所を絶好の場所として軍都
を建設したかったからというこ
とがあるのではないか。
小早川氏そのものは道など無く
とも困らない。なぜならば、毛
利・村上水軍を保有していたか
ら、兵役の移動手段は海路がい
くらでもあったからだ。
三原というのは、現代人が想像
するに、人家もほとんどない半
島突端やちょっとした浦にある
マリーナだったと思えばよいだ
ろう。そのマリーナは城郭機能
にも採用し、舟入櫓が造られ、
いつでも水軍本体が出陣できる
機構にしていた。海上に浮かぶ
城が備後国三原城だったのであ
る。これは、一種異様な城だっ
た。海上城であるのに、本丸面
積は日本有数でトップクラスの
土地面積を有していた。


だが、小早川が臨海都心部大
開発をする以前は、三原は下
の海の画像のような場所だっ
たのである。

現在の三原市街地においてタイ
ムスリップしてほんの450年前
(家の歴史ではだいたいたかだ
か15代程度)に行ったとすると
このような景色だったと思われ
る。
地面は
猫の額ほどしか存在せず、
街道も無い。
隣の尾道からはきつい山越えも
しくは海路で来るしかないが、
何もない場所にわざわざ立ち寄
る必要はない。
長井の浦の湧水地において、海
路の給水で立ち寄るのみの場所
が三原(=井戸崎=糸崎)だっ
たのである。

「古三原」とされる正家は「三
原住」と銘した作は一切残って
いない。
そもそも三原という地面も地名
も無かった鎌倉時代のこの現在
の三原地区で鎌倉武士のために
わざわざ刀剣を鍛刀したとは考
えがたい。
また、瀬戸内海路(陸路は古代
山陽道が海岸線から6~8km内
陸の山間部を通っているだけで、
海沿いに街道は一切無し)の補
給地としてのみ糸崎(後世の三
原)はあったことだろう。従っ
て、糸崎で鍛刀というのも考え
づらい。

私はもし仮に正家が備後最西部
で鍛刀したのであれば、八幡か
ら梨葉にかけての東西40km
以内の地域であろうと推定し
ている。
また、三原市深(ふか/如水館
高校近辺)、尾道市美ノ郷と
いう可能性も捨てがたい。
ただ、旧山陽道ではなく、古
代山陽道沿いという観点から、
八幡から梨葉にかけての区域
というような仮説を立ててい
る者は国内皆無なのではなか
ろうか。

しかし、そもそも、正家とい
う刀工が鎌倉末期から南北朝
にかけて備州(備後国)に存
在したことは在銘から確かだ
ろうが、どこでどうして「三
原」となったのか。
もしかしたら備後国内のまっ
たく別地域である可能性もあ
るではないか。
初代正家は徳治年間(鎌倉時
代1306~
)の人とされている。
古剣書によると本国は備前で、
福岡一文字唐河為遠(需要美術
品の画像あり)
の門人と伝え
ている。
腰反り、鎬高く、地鉄小板目
つみ、細かな地沸つく。刃文
小沸出来で匂い深く直刃に小
乱れ交じり、刃中に足や葉が
入って金筋かかる。鋩子は直
刃状に浅くのたれ込んで尖っ
て返る。中心鑢目勝手下り、
佩表目釘穴上の鎬地に寄せて
細鏨で草書体に切る。初代は
草書、二代は楷書。大業物と
いうのが古三原の作柄である。
二代目は南北朝時代貞和年間
(1345~)から延文(1356~)
年間の作刀あり。
「備後国住」との銘があり、
名を右衛門尉とする。
三代は南北朝時代貞治年間
(1362~)の作刀があり、名
を左衛門尉としており、永和
(1375)までの作刀が確認さ
れている。
四代目は兵庫助藤原正家と名
乗り、北朝年紀南朝年紀の作
があり、因島にても駐鎚した
との伝承もある。永和(1375~)
から応永(1394~)の人。
そして五代目が天下に名を馳
せた三原正家である。
名を左兵衛尉といい、応永
(1394~)から生長(1428~)
年間の作がある。
銘は「備州住正家」「備後国
住正家」「備州住左兵衛尉正
家作」。鎬高、板目、刃寄り
に柾が交じり、地沸がつき、
刃文匂出来、直刃に小互の目
交じり小沸つくというのが特
徴だ。日本のすべての刀鍛冶
の中で12工だけが選ばれてい
る最上大業物に幕末に指定さ
れている。

正家の系列では正家銘が天文
年間(1532~)にも続いてお
り、この天文年間の正家は
「三原住正家」と銘に切って
いる。小沸出来、のたれ刃に
食い違い交じり、ほつれる作
を残している。
これらの正家の一族同門系列
として、実に多くの刀工が存
在しており、室町時代に入っ
てから「三原」を銘に冠した
者の数だけで100名近くに及ぶ。
ただ三原住の三原が果たして
現今の三原地区であるかどう
かは定かではない、
どころか三原城築城以前は現
在の三原のことを称して刀工
たちは「三原」としたのでは
ないように思える。
理由は「土地がない」という
一点だ。物理的に向こう槌と
補助者含めて30年スパンで区
切っても、数百名単位の刀工
集団が一ヶ所で活動できるよ
うな場所が三原湾岸地区には
戦国末期までは存在しない。
もっと内陸部なら事情は別だ
ろうが。

そもそも刀工集団が銘に冠し
た「三原」というのはどこの
土地をいうのか。
もしかして、刀銘先にありき
で、現在の三原の地に三原城
を築城した際、刀銘からこの
地を三原と名付けた可能性も
ある。
となると、高山城・新高山城
付近の梨葉・真良の駅家付近
に元来の「三原鍛冶」という
ものがいて、それらも引き連
れて現三原に移住し、その地
を「三原」と名付けたことも
考えられる。
そうなると、南北朝時代の足
利尊氏が沼田荘の司に宛てた
文章に「備後国三原」という
地名が出てくるのも頷ける。
現三原ではなく、元来の三原
がどこか近隣にあったのでは
なかろうか。
読みは「みわら」だ。
当然、その原初三原の場所は、
「み」が付く場所である可能
性が高い。「御原」であるか
も知れない。

すると・・・比定地はいくつ
か出てくるが、それが不思議
なことに古代製鉄および街道
往来と密接な関係にある場所
だったりする。
それについては、後日あらためて。


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