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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

張り付き乗り(2018年記事再掲)

2024年11月28日 | open


(1982)

まだこの世にレーサーレプリ
カなるものが存在せず、バー
ハンドルが常識だった時代に、
いろいろ旋回途中の頭の高さ
を検証していた頃。
レーサーはポジションが絞ら
れてくるが、一般市販車はい
くらレーシーなエンジンを搭
載していても、結局はとっつ
ぁんバイクのようなポジショ
ンの物だった頃の峠走りでの
テストの写真だ。
これ、後ろ乗りでなく、結構
前に「被せる」乗り方です。
フロントはセルフステアで、
切り返し以外では当て舵はし
てません。RZ350の場合。
ペタ寝かしのきっかけでは逆
操舵をするが。

RZ350の場合は、ハンドルを
こじらず、逆を当ててから寝
かし込んでセルフステアを最
大に活かす乗り方のほうが速
く走れた(私の場合)。
この上の画像で、コーナーで
もどれほど伏せていたかとい
うと、上のコーナー立ち上が
りの画像とこちらの同じマシ
ンでの直線路とを比較しても
らえば分かるかと。

頭の高さはさして変わらない。
コーナーで身体を起こすのは、
私はハードブレーキングでの
コーナー進入の時だけです。
(あくまで私は)

峠は流していても楽しいよね。
マシンの挙動がほぼ全部出て
くれる。
RZは名車だったけど、公道の
峠でもハードブレーキングか
らの倒しこみではフロントが
よじれまくった。
かといって、フォーク間に金
属プレートを噛ませて単に見
かけ剛性を上げることは、本
当のRZのシャシのしなりをオ
ミットするので、単にそのパ
ーツを着けるだけのセッティ
ングは流行ってはいたが、私
には意味ないと思えた。
減衰力としなりを高次に融合
させるヤマハの開発意図を捨
象する素人セット感覚は、社
外品をポン着けしさえすれば
物が良くなると勘違いする駄
目な視点だと私は感じ取って
いた。それをやるならステム
周辺全部の見直しと、スイン
グアーム軸のピボットの強化
等も必要だろう、と。21才の
頃。


ヤマハの不思議。
それは、倒しこみ旋回中でも、
任意のラインを取れることだ。
これは、他のメーカーの追随
を許さなかった。
ホンダの車はブレーキをかけ
ながらでないと曲がらないし、
スズキのレプリカ車は、寝か
せたらレールの上を走るよう
な駄目な旋回性能だった。
スズキやホンダは、モーター
サイクルの理想的なそのヤマ
ハハンドリングに追いつくま
で、レーサー以外ではこの頃
から10年近い歳月を要した。
ヤマハのマシンが、突き抜け
て世界一だった頃の話だ。
ホンダは最後まで手こずって
解決はできなかったようだが。

一方カワサキはレースにおい
ては「眠れる獅子」、真の実
力王者の息吹を潜めていた。
ただし、250、350については、
レースの世界では70年代中期
から82年のGP撤退までは、地
球上で誰も追いつけない速さ
をカワサキは保持した。
カワサキは、一般市販車にそ
れを還元させる思想に希薄す
ぎたゆえ、日本の2ストレーサ
ーレプリカブーム時期には積
極的でなかったのだろう。

だが、カワサキは、4スト大
型の開発とメーカーの色出し
をして、レースではそれに効
果を得た。
カワサキが4ストの大型バイク
のメーカーのイメージがある
のはそのためだろう。
実際のところ、ミニバイクを
作らないカワサキは、排気量
限定を除くと、ホンダを抜い
て世界一の販売台数を誇る。
道を走るバイクを見ても、デ
カバイクはカワサキが圧倒的
に多い。
それは、「大型車はカワサキ」
の戦略が実効性を以って現れ
てるということだ
ヤマハ、ホンダ、スズキが真
に恐れたメーカーはカワサキ
ではなかったろうか。
しかし、カワサキは例によっ
て「我が道を行く」路線を薄
らとぼけて進み、レーサーレ
プリカ時代も独自路線を貫徹
してきた。
だが、食えないタヌキは恐ろ
しい。
オトコカワサキは、その堅固
なアイデンティティであるが
ゆえ恐ろしい。
かますときにはサクッとかま
す。
それは、マッハで世界最速マ
シンを地球上に投入したよう
に。
カワサキは、忘れ去られたよ
うなカウル付きライトウエイ
トクラスに、今世紀初頭、ニ
ンジャ250の市場投入を敢行
した。
現在の250cc人気が再燃した
のは、見まごうことなく、カ
ワサキの戦略的仕掛けによる
ものだ。カワサキ、恐ろしい。
でもって、ホンダが例によっ
て「俺らが世界一だ!」と時
流に乗ってハイパワーマシン
をどんどん出してくる。
もしかしたら、カワサキの術
中にはめられてるかも知れな
いのに。
そのうち、カワサキがとんで
ないハイパワーマシンを出す
のは見えている(現2018時で)。
でも、それでも、ヤマハ車の
ハンドリングは2018年の今も
素晴らしい。
ヤマハの総合力は世界一だっ
た。

最近のヤマハの動きで興味深
いこと。
それは、MotoGPトップライダ
ーをも巻き込んで、ヤマハの
音楽シーンでのモーターサイ
クルとのコラボレーションを
展開していることだ。
いや、これはね、他社は勝て
ないよ。
ホンダやスズキやカワサキは、
音楽という芸術面での独自の
チャンネルを持たないから。
ヤマハは、ヤマハ発動機と旧
全音ヤマハでその合体による
創文化活動をやり始めた。
GPトップライダーたちが、ヤ
マハの音楽コンサートに参加
するなんて、そんな新展開、
10年前に考えられただろうか?
でも、それが始まった。
今のヤマハは、すごいことを
やろうとしている。
今から50年前、ヤマハポプコ
ンから日本の音楽シーンの再
生は開始された。
それまでの歌謡曲とは違う、
ポップスとしての音楽の大衆
化をヤマハは模索して、それ
に成功した。
今の日本の音楽シーンはヤマ
ハこそが作ったと言っても過
言ではない。
そのヤマハは、再度、今、日
本の文化、世界の新文化作ろ
うとしている。
モータースポーツと音楽の結
合という新たな分野において。
やるな。ヤマハ。
カワサキもホンダもスズキも、
マシンの性能だけでは勝てな
い状況があと数年したら来る
かもしれない。
あとね、ヤマハはライダーの
若手人材育成に物凄い資金を
投入して実行し始めた。これ
は2016年から。
あらゆる面で、モーターサイ
クル関連のみならず、世界の
文化的歴史を総合的に牽引す
るのは、これからは日本のヤ
マハかも知れない。
答えは50年後くらいに出るこ
とだろう。
それは、ヤマハのポプコンが
日本の音楽シーンを作ったよ
うに。

私は、バイクメーカーとして
はカワサキが大好きなのだが、
ずっとヤマハのオートバイに
乗り続けていて、ピアノもヤ
マハであるのは、何か自分の
中で「決して外せない存在」
として日本のヤマハがあった
からかも知れない。
ただ、アコースティックギタ
ーに関してだけは、ヤマハの
音は優等生過ぎて好きになれ
ない。
ヤマハのハイエンドギターを
作っていた職人さんのT's Tの
工房を訪ねて、実際にヤマハ
の生の音に触れた時もそうだ
った。
私は未完成でいい加減な粗さ
が耳につくギブソンの音が個
人的には好きなのである。
ヤマハの音は膨よかで至福だ。
ただ、ヤマハの音で人間の至
らなさや不安定な不安感を出
すことができるのだろうか。
ヤマハは、いつでも「綺麗」
なのである。
それは、楽器においても、オ
ートバイにおいても。

ヤマハには、オートバイでも
楽器でも、単純な表層では私
は心打たれるのだ。
ただ、それはゴスペルを聴く
時のような感じなのである。
ゴスペルが真の福音として響
くかどうかは、それを聴く人
間の質性によるというのは充
分に解っている。神との架け
橋の「声」が聴こえるかどう
かは、聴く側の在り方次第だ
からだ。
神の側は常に平等に「人間」
に対しては振舞っている。
いつもいつでも。

ヤマハのオートバイも楽器も、
清純でクリーンなことはわか
りきっている。
ただ、ヤマハには、新宿ゴー
ルデン街の裏路地でゴミ箱に
蹴っ躓いて倒れて野垂れ死ぬ
ような人間の悲哀について、
一切関与してないような取り
澄ましたような空気があるよ
うに私には思えるのである。
その路地での人ざまは、一般
的社会通年からは排除される
べきマイノリティの対象なの
かも知れない。
しかし、私の中ではその路地
のような所に生きる人たちか
ら目を逸らす行為や思考や思
惟には、「人間的」で包括的
な「愛」は感じられないのだ。

 


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