日本には「バイク女子」な
る単語と存在が登場して久
しい。
別にバイクに乗るのは男で
も女でもトランスジェンダ
ーでもどうでもいいじゃん、
とは思うのだが、性別を売
り物にしないとならない事
情がたぶんあるのだろう。
そのニュアンスの根底には、
漢(おとこ)に対抗すると
りわけ性別を前面に出して
取り込みPRの立ち位置みた
いなものが色濃く見える。
旧古の呼称の「女流~」と
か男側が言う男社会の差別
的呼称とは別の意味で、あ
えて女性である事を前に出
す事で一つの事を構成しよ
うとしている意識がかなり
見える。
それは、ドンズバで指摘す
ると、「特別性」を具備して
いるかのような特権意識だ。
その意識は、時にバカな男
たちからちやほやされる事
を前提とする「姫ライダー」
という存在が登場したり、
「女だから特別」という
承認欲求が見え隠れする。
バカである。
ことオートバイに関しては。
例えば、「女剣士」という
言葉は、剣士は男である事
が当たり前の封建時代だっ
たからこそそうした呼称が
存在し得た。
今の時代、バイクなどは免
許を取れば老若男女誰でも
乗れる。男女で試験難易度
に差はない。大学受験も難
易度に性別差が無いのと同
じだ。
「女子大生」という呼称も
単に大学生の生物学的な性
別を指しているにすぎず、
「大学生女子」ではない。
「大学生をやっている女子」
という女性だからと特別視
する存在ではない。
然るに、「バイク女子」と
いうのは一体何なのだ。
免許合否に性別差も無けれ
ば、降りかかる危険度も男
女差などは無いのに。
なぜ「特別視」を自ら求め
る女たちが近年登場したの
か。摩訶不思議。
摩訶不思議ではあるが、社
会学的に実はそのカラクリ
は歴史的遷移の社会世相の
一端として判明している。
そのヒントは、空前絶後の
1980年代、バイクに乗る女
性などは珍しくもなく、数
もとんでもない程数がいた
事例事実が挙げられる。
そうした時代の社会世相の
中にあっては、オートバイ
に乗る女性を特別視はせず、
男女共に同じ種族として観
ていた。男女共学の学校の
ように。
また、バイク乗り同士も男
側は「女だからどうのこう
の」と女性のバイク乗りを
特別視はしなかった。
だから、女性ライダーだろ
うと倒れたバイクは身長な
ど関係なく自分で起こした
し(そうでないと二輪免許
は取得できなかった)、自
分で外出計画を立てて自分
で用意して自分一人の意志
と行動で走っていた。男も
女も無い「同族」として。
困っていたら掛値なく助け
るが、それは女性だからと
かではなく、男女年齢関係
なく困窮せる者に手を貸す
仕儀だった。
バイク乗りたち自身が自分
たちの種族を自分たちで差
別したりする事はしなかっ
た。「女の子にそんな事を
言ったらかわいそう」とか
口にする大馬鹿ちんのたわ
け男もバイク乗りにはいな
かった。
男女同権、平等という根源
をバイク乗りたちが知って
いた時代だったからだ。
理不尽さや不当さに男女別
は無い。男女別を以て理不
尽さを行使するほうがおか
しい、という確固たる人的
思想をバイク乗りたちは有
していたのが1980年代だっ
た。
だが、現代はどうか。
バイク乗りたちの間でマウ
ントや蔑視や特別視承認欲
求の渦が爆発的に蔓延して
いる情況だ。
実にくだらない。心底くだ
らない。人間がみみっち過
ぎてオハナシにならない。
これはバイク乗りが変質し
たのではなく、「変質した
日本人」が「たまたまバイ
クに乗って自己アピールし
ている層」として登場蔓延
しているだけのことである
のが実体なのだ。
カラクリの根幹骨子はそれ。
二輪走り人には性別も年齢
も出身地も職業も社会的階
層も一切関係なく一様に平
等に「危険」は降りかかる。
これは時代に関係なく。
ウルトラ平等にそれはやっ
て来る。
その根幹を認識した場合、
性別やその他雑多の属性
(排気量違いや車両価格の
上下等々)で二輪搭乗者の
間に垣根と区分けと差別を
持ち込むのがいかにバカげ
た事であるか。
だが、それに理解が及ばな
い人間が大多数の時代にな
ってしまった。
時代は確実に退化している。
人間性の質として。
日本人のつべらーたちの動
画配信者の自称「バイク女
子」の人たちで顔出しして
いる投稿者を観て、何か気
づきませんか?
欧米系外国人では「かっこ
いい」女性が多いのに対し、
日本人の種族「バイク女子」
という存在は、まるで芸能
人アイドルやタレントや女
優みたいに顔が可愛くて美
形揃いでしょ?
なんでだと思います?
それの答えは、全員事務所
に所属するタレントだから
です。完全個人のド素人と
いう存在はほぼいない。
そうしたアイドルタレント
路線ではないコンセプトで
大食い爆食い腹出しポンポ
ン、おねしょもしちゃった、
とかで売っている「バイク
女子(実はバイク女子では
ない)」もいるにはいるが、
それはエンターテイメント
を売りにして収益を得ると
いう芸人スタイルなので、
いわゆる「女」を売り物に
して稼ごうとする「バイク
女子ユーチューバー」とは
位相が異なる。本質は銭稼
ぎ目的の職業人=プロなの
で、根底的立ち位置と職業
は同じではあるが。
「バイク女子」というもの
は、実は女性の自立性や男
女同権や女性蔑視に抗する
独立自尊の精神や啓発等の
精神的ルネッサンスという
資質を具備してはいない。
むしろ、それらとは無縁ど
ころか対立する根底基盤が
存在する。
かわいいから何でもオッケー
などという事はない。
転べば誰でも痛いし死ぬし、
転んだり、車にはねられた
り轢かれたり、電柱に激突
したり、人にぶつけたり、
壁やガードレールに突っ込
んだりする時には誰も守っ
てはくれない。
「バイク女子」という立ち
位置の感覚でいると命を確
実に縮める。
それが根本から解ってない
フシの女性ライダーの動画
配信者、動画とは無縁でも
無自覚な女性二輪乗りがな
ぜかしら現代は増えすぎて
いる。
危険は二輪乗りには誰にで
も平等にやって来る。
空爆で空から爆弾や焼夷弾
が降って来るように。
性別を前面に出しても、危
険を回避する事はできない。
つまり、二輪に乗るにおい
て、性別を殊更に強調する
のは虚構のスタンスなのだ。
「バイク女子」を騙りなが
ら実は全く別路線でやって
いる人。これはこれでいい
と私は感じる。
性を売り物にはしていない
オリジナル路線だからだ。
しいていうなら1980年代
オヤジギャル的路線。今は
絶滅危惧種。「バイク女子」
金太郎飴時代の現代では、
むしろ貴重。親父さんの米
作りを手伝いに東京からバ
イクで数百キロ一気に走っ
て実家に帰って、農作業を
実際にやる、という点など
はさらに貴重。今の時代、
そういう人は稀有。