渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

昔の学生さん

2021年10月21日 | open

1980年代初期の学生

妻と被服の歴史について話をして
いて気づいた事。
かみさんは社会科の教員免許を持
ているが、被服については詳しく
はない。
対話の中で「そうだったよね」とい
う中身は、「私たちの時代の学生は
男子も女子も同じカッコしていた」
というものだ。普段着が。
これはどこの大学でも。医大や女子
大以外。
男も女もブルージーンズを履き、
はトレーナーで中は襟付きのゴルフ
シャツのようなもの。
そして靴はスニーカーで、上っ張りは
スタジアムジャンパー。
これ、1970年代〜1980年代前半の
学生の定番だった。
髪は男は1970年代前半のように
「僕の髪が肩まで伸びて」程は伸ば
してはいなかったが、まあ長髪。
ドライヤーは使わず、洗ってタオル
で拭いて乾かすだけだった。

仲間で、一人だけ高校時代の時のまま
の髪型を保持してる友人がいた。
ロックな感じで。ロックてかツッパー
というような。
入学して夏休みに地元に帰り、旧友と
飲んでいたら(昔は高校生も大学新入生
もフツーに居酒屋行って飲んでました)、
仲間から胸ぐら掴まれて言われたそう
だ。
「なんが『だからさぁ』だ、ゴルァ!
きさん東京もんか。くらすぞ!」
と(笑
東京もんならそこで「さーせーん。
クネクネ」とかやりそうだが、そん
な事したらその土地では確実にくら
され(ぶん殴られ)ていた事だろう(笑
こいつ最初から最後まで小倉弁で
通していた。つもりだったのだが、
数ヶ月東京にいただけで、「さ」が
出てしまったようだ。
本来は「だからさぁ」は「やけぇ
ちゃ」でなければならなかった場所
柄のシーンだったのだろう。
つい数日前も電話来たが、普段通り
の小倉弁だった。
この男に私は初めて「辛子明太子」
を教えて貰った。1970年代、まだ
東京では「九州土産」としてしか手
に入らなかったのだ。
大阪弁が東京でも知れ渡ったのは、
1980年にテレビで漫才ブームが
始まってからだった。
東京人は大阪弁は「いなかっぺ
大将」の西はじめと「あしたの
ジョー」のマンモス西しか知らな
かった。
さらに昔は「てなもんや三度笠」
を放送していたが、上方演芸は
東京では「異国のもの」だったし、
東京人自体が首都圏以外について
の知識があまり無かった。

最近の学生さんたちは、着ている物
も質素ながらも身綺麗だ。
そして、銭湯に行く大学生などは、
ほぼ絶滅したのではなかろうか。
私の時代までは、リアル「神田川」
だった。
てか、それしかない。
風呂付きマンションになど住む学生
は医大生か、余程の大金持ちの子し
かいなかった。
ただ、着ている物は質素でも、洗濯
しないとばっちーので、洗濯はよく
やってたよ。炊事洗濯部屋掃除。
これは私の世代の学生さんはきちん
とやっていた。
ただ、あのハマトラが都内の女子
学生に流行った時には、よせよー、
と思っただよな。
あれはフェリスの子がやるからいい
のによー、と(笑
慶應のキャンパスに用事があって
行くと、女性の皆さんはお綺麗な
お召し物で、「へっ、さすがに
福澤さんとこは違うねい」とか思
っただよな(笑
ニュートラとかなんだそれ?みたい
な(笑
レーザーディスクはなぬものだ?
みたいに。
他の都内大学のようにジーパン履い
て、キャンパスの地たに座れよ、
とか思っただす。

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