渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

武蔵国と相模国の国境

2024年04月05日 | open



(出典:「武相国境」)

横浜は相模国ではなく武蔵国だ
というのは、意外と知られて
いないのではなかろうか。
現在の埼玉県最北の市である
本庄市も横浜市も同じ武蔵国
なのである。

特徴的なのは、横浜市の区割
に沿って旧国境があるが、横
浜市港南区のみは区内ぶった
切りでかつては国境があった。
横浜市港南区は場所により武
蔵国と相模国にまたがるのだ。
現在の広島県三原市に似ている。
三原市は市内に備後国と安芸
国の国境が縦断している。
なお、今の広島県三原までが
律令時代には吉備国だった事は
これもまたあまり知られていな
いと思われる。
吉備というと岡山県だけだと
思っている人は多いのではな
かろうか。
吉備国とは、古事記に記載され
たエリアを現在の行政区割で特
定すると、兵庫県の加古川以西
から岡山県全域と香川県の島しょ
部分を含め、西は広島県の三原
市までとなる。
古代においては出雲、筑紫、大
和と並ぶ大国だった。
のちに律令制の中で吉備国は解
消され、689年に備前、備中、
備後に分割され、さらに719年に
備前が分割されて美作国が誕生
した。
その後、吉備国は復活せずに、
備前、備中、備後、美作と分か
れたまま明治になり新行政区割
が実施された。
明治初期には多くの県が存在し、
それが分割統合を繰り返して今
の地方自治体の県の区割と県名
になった。
現在でも県境の変更等は行なわ
れており、長野県の一部が岐阜
県に変更になったりしている。
東京と神奈川でも、町田が神奈
川から東京に編入されたりとい
う歴史が過去にあった。
東京都の北区の荒川放水路から
南は現在は東京都だが、かつて
は埼玉県戸田という地名だった
りとかもあるし、こうした事例
は国内に結構ある。
細かいところでは、東京都でも
人工島の帰属をめぐって江東区
と大田区が争い、裁判にまでな
っていたりもする。

さて、横浜の港周辺、いわゆる
ヨコハマは武蔵国だった。
武蔵国は広大で、相模国鎌倉ま
で隣接していた。
武蔵国は超古代には無邪志国
とも書いた。
やましきこころざしなし、であ
る。こじつけると。
だが、実際に実態はそうだと
思う。ヤマト勢力圏内の人たち
とは人種が違うのではと思える
ほどに気質がまるで現代でも違
う。
東国人は純粋でまっすぐだ。
ただし、もののふは東国と言わ
れる通り、いざのときの蛮勇さ
は筋金入りだ。
これは今も気質として色濃く
残っているし、なぁなぁで済ま
さず、迎合せず、きっぱりと
黒白をつけたがる資質が東国人
とりわけ武蔵国の人間にはある。
そして、一所懸命で仲間をとて
も大切にし、裏切りは万死に値
する恥辱と考えている。西国に
はそうした気質は皆無だ。特に
現在の中国地区などは信じがた
い程に「仲間」や「友人」を
裏切ってもおいしい汁を吸おう
とする人間が異様(まさに異様)
な程多い。人と人の絆というの
は殆ど無きに等しい程だ。東国
の土地柄と人的資質からしたら。
(私は中国地区に東国から転住
して、20有余年、これまで18度
の地元民の辛辣な裏切りを見て
来た。その悪辣さは筆舌に尽く
し難い)
東国人のこれらの無邪志の気質
は、古代から中世にかけての坂
東武者の武
士団勃興の頃からの
気概が何か
しら残っているので
はとさえ思
える。



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