渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

10.8羽田

2021年10月08日 | open
















1967.10.8ジッパチ羽田から54年。
佐藤訪ベト実力阻止闘争だった。
この日、学生は日本の学生運動史
初めてヘルメットを被ったが、それ
対立党派間の小競り合いを予想し
の事だった。
だが、用意したゲバ棒とヘルメット
は機動隊の阻止戦とぶつかる際に
使用された、というのが当時現場に
参加したセクトOBの79年時点での
証言だ。
まだ、セクト毎のヘルメットの色分
けは存在しなかった。

60年安保闘争を牽引した全学連主
流派(反主流派は共産党)の社学同は
安保敗北後に崩壊していた。
それが65年頃から都学連再建を契機
に旧主流派の中の主流派だったマル
戦派セクトナンバー6らを中心に関西
派との合流再建が模索されていた。
そして、1967年にブントは再建され
た。(68年3月にマル戦派がブント
退により再度分裂。首都圏を中心と
するマル戦派と関西派との対立は
解消できなかった)
社学同=ブントは、10.8羽田闘争は
関西の学生が指揮したために首都高
に駆け足で乗ってから方角を間違え
て羽田空港方向と逆走してしまい、
機動隊に挟みうちにされた、とされ
ている。だが、本当はブントだけが
知る別な裏事情がある。
空港目前の羽田の各橋での激突を展
開したのは革共同(中核派と革マル派)
だった。


この日、機動隊との衝突の際、京都
大学1回生の山崎君(18才)が殺された。
私の12才上、一回り上の世代だ。

この時代、ベトナム反戦運動は全世
界的な問題であり、「日本の一部の
学生が騒いだ」とか「左翼が暴れた」
とかの話ではなかった。
最先端の最先鋭の尖ったネジの先端
は全学連の学生だったが、国民、市
民の問題としてベトナム戦争は目の
前に横たわっていた。
戦後民主主義国を標榜する日本の基
地からベトナム人を殺すための軍隊
がどんどん出撃していたからだ。
小学生の私でさえ、毎日のように
横須賀に列車貨物で運ばれる米軍の
兵器等を見ていて、「これ、おかし
くない?」と思っていた。
米軍の陸上戦闘用の車両等は鉄道で
輸送していた。国鉄という日本人の
財産の鉄道を使って。
結局は、先の世界大戦は軍事的領域
の分捕り合いの泥棒合戦であり、そ
れに日本が負けて米軍に日本が占領
されているのだ、と小学生にも強く
感じさせた。日本は米軍の基地なの
だ、と。日本はベトナム戦争に参加
している、と。
民主主義の独立平和国家だなんて、
出鱈目も出鱈目、大嘘じゃないか、
と7才児でさえ気づく日常が神奈川
県に住んでいたら存在したのだった。


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