goo blog サービス終了のお知らせ 

渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

映画『時をかける少女』(1997年)

2021年04月24日 | open


『時をかける少女』(1997年)
監督:角川春樹

とてつもないキャストを要して
角川グループとは一切関係なく
角川春樹が製作した「時かけ」だ。
全編モノクロ。
最近ではカラー以外の映画を観る
ことができない、辛いとかいう人
が増えているようだが、それは
映画を観たいのではなく、単に娯楽
映像を見たいからだろう。
過去の名作映画はすべてモノクロで
あるし、またカラー時代にあっても
あえてモノクロで撮った名作は数
知れず存在する。
きっと、モノクロを観る事ができ
ない人たちは、映画作品の名作は
一切観ない人たちなのだろう。

オープニングのナレーションが非常に
巧い。誰だ?と思ったら原田知世が
主人公の回想シーンでナレーションを
していた。
そして、舞台設定は1965年4月だ。
これは原作忠実踏襲かと期待した。

撮影ロケは長野県の進学校の県立深志
高校だ。本郷の安田講堂のような建築
デザインの校舎の入り口。歴史が古い
学舎にはこの手の建築が多い。
うちの高校の学園女子高もこのような
校舎の入り口だったが、今はどうかは
よく知らない。




作品開始後、ほんの数分で、「この
作品あかんやつかも」と思った。
主人公の芳山君の後ろの男子生徒が
マジソンバッグを持っている。


マジソンバッグの地球上での誕生は
1968年、日本への渡来は1970年代に
入ってからである。主として1973年
中半以降に日本の大学生・高校生・
中学生の間で大流行した。
昭和40年-1965年にこのマジソン
バッグを登場させる時点で、時代
考証まる無視のファンタジーである
ことが初っ端から露見してしまって
いる。
それとなく昔流行した物を出せば
昔風だろう、という出鱈目な安直
な姿勢が露呈している。
ということは原作のニュアンスを
大幅に無視した作品である可能性が
高い。

この間違いは『時をかける少女 2010』
でもやらかしている。
1974年当時に間違ってタイムスリップ
してしまうのだが、そこで仲里依紗が
観た自分の母親の高校生はマフラーを
輪っかに入れる通称「サブちゃん巻き」
をしていたのだ。
これは、東京地方で『前略おふくろ様』
(1975~)で萩原健一さん演じる板前
サブが常にやっていたから流行った。
1974年時点ではそのマフラーの巻き方
は登場していない。
戦時中に「まちこ巻き」があったら
おかしいでしょう?というのと同じ。
南北戦争時代にコルトSAAが出て来た
らおかしいでしょう?
戦国時代に出刃包丁や菜切り包丁が
登場する漫画はマンガでしかないで
しょうよ、というファンタジーの類。
畳表切りは、中村泰三郎氏の弟子で
日本刀小林康宏の試刀家だった小幡
利城氏が昭和時代に考案したもので
あり、江戸期に畳表巻き切りが出て
きたり、イグサの畳表のことを巻き藁
とか呼んだりするのは、とてつもなく
珍妙なことでしょう?という類。

映像作品や小説、コミック等で時代物
を描く人たちは、時代設定は極めて
厳密にやらないとならない。
特に、描く時代に存在しない物を
描いてしまうと、それはSFになって
しまう。
源平合戦の頃の武将の隊列に火縄銃が
出てきてドンパチやらかす描写を描い
たとしたら、それはさてどうですか?
という話なのである。
うっかり八兵衛が言いそうな「ご隠居、
チャンスです」じゃないんだから。
演劇や映像作品や時代小説等では、
過去の時代劇であっても言葉遣いは
現代言葉で台詞を構成するが、その
際にも、現代人の流行り言葉は使う
事はやってはならない。
「バッチグー!こいつぁホームラン
だぜい!」なんてのを日本の時代劇
でやったり、1960年代の高校生が
「イケメン」とか「w」とか「草」
とか使う描写があってはならないの
だ。
作品を書いたり描いたり撮ったりする
人のそれは義務だ。

この角川春樹監督版、『時をかける
少女』(1997)は、開始早々一気に
全編を観る気力が萎えた。
そのうち気が向いたら継続して観る
ことにする。オープニングは大いに
期待させた。ほんの数分は。
だが、史上最悪にくそつまらな過ぎて
(描写が出鱈目過ぎて)観るのを途中
で停止したのは北野武の『座頭市』
以来だ。
本作は、気力充実させてから観ようと

思う。
そういう映画の観方って、どうかとは
思うが。




この記事についてブログを書く
« 映画『暴走パニック 大激突... | トップ | ど晴れ »