渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

尾道という街

2024年01月28日 | open



尾道は古代以前の古墳時代から
内陸部では古墳群が存在した。
ヤマト政権に与する地元有力者
の権力の象徴として古墳はあっ
たが、やがて白鳳時代に仏教の
普及により、権力者は古墳では
なく富と権力の象徴として寺院
を建立するようになった。
尾道もその轍を踏む。
古代以前から尾道は畿内から西
方に進む海路の要衝として開か
れていた。中央政権の行政区と
して整備されたのは平安時代末
期だった。備後国の倉敷地とし
て尾道村が整備された。
中世が終焉を迎え、江戸期に入
ると尾道は東部を備後福山藩領、
西北部を安芸広島藩領として分
割された。現市街部は広島藩が
統治し、三原城の管轄内にあっ
た。

本州向かいの島から見た尾道。
尾道水道と
いう広い河川程の
狭い瀬戸が
本州尾道と島しょ
になる向島
(むかいしま)の
間にある。(上掲画像参照)

向島に住む高校生たちは渡船で
本州側の学校に通学する。所要
時間約5分。


尾道は実は広島県内で一番古い
町だ。古代から開かれていた。
現広島市街地や尾道の隣りの
三原などは江戸時代が始まる
直前までただの海でしかなかっ
た。戦国末期に海沿いに埋め
立てにより町を作ったのが広島
と三原だった。
尾道はその遥か以前の一千年前
から拓かれた土地だった。
古代以前からヤマトと九州を
結ぶ重要な航路の拠点だった
からだ。

なお、広島県内で一番古い神社
は三原市と尾道市の境にある
糸碕(いとさき)神社である。
天平元年(729)創建。
なぜ三原市最東部の糸崎か。
それは、航路で尾道から西に
向かう際の補水地として古代
以前から使われていたからだ。
井戸崎が転じて糸崎となった。
海岸線なのに良質な真水が井
戸から採水できたため、
糸崎
が補水地に選ばれたのだ
ろう。
その頃、三原などという土地も
地名もない。現在の三原市街部
は全域海。入り江が現在の広島
空港(三原市)の山のふもとま
で現沼田川(ぬたがわ)河口か
ら18kmほど細く入り
込んでい
た。現在の三原市内を流れる
沼田川や和久原川や西野川の
流域は人工
河川部になる。本来
の河口は
遥か内陸部。そのため、
満潮時
には今でも海水が川を
何キロ
逆流する。潮位は人工で
はいじ
れないからだ。尾道は太
古のまま。

三原も広島もたかだか400数十
年程の「新しい」城下町なのだ。
当時の新興開発湾岸エリアで
あり、太古の昔から人が住した
場所ではない。
但し、現三原市の内陸部(古代
沿岸部)では古墳が群列してい
るので縄文弥生古墳時代から
人が住み、生産活動による富と
貧困の格差(弥生から古墳時代
の社会構造の変遷)が存在した
土地だった。そして鐵。
日本全国、古墳と古代産鐵のある
ところ、必ず差別とピラミッド型
の人民支配の歴史あり。王権の
歴史だ。王権は階級社会を形成
する事により存続していた。
人が人を踏み下して統治する世の
中だ。日本各地にその人民支配
の日本の歴史がある。その統治
手法は徹底していた。ヤマトが
全国を暴力と謀略で征服し、
やがて大和朝廷となって中央集
権化するに伴い、その統治制度
は強固に打ち固められた。
一部の貴族がその他の90数%
以上
の人々を支配する世の中と
なっ
た。
革命を一度も経験していない
日本という国は、基本的に今
現在でも、大和朝廷が作り上げ
たピラミッド型社会が残存して
いる。上辺の形式上は近代西欧
型「民主主義」の形をなぞって
はいるが、実態はまったく民主
的な事にはなっていない。今で
も一部の権力者が人民を実効支
配しているのが日本なのだ。
日本は日本人全員の国ではない。
一部の者たちの利益と生存の為
に動いている。
それは仕方ない。欧米人たちが
自ら血を流して支配者権力の権
力を粉砕して独立して建国して
きたような歴史を日本のみが一
切持たないからだ。
なお、戊辰戦争は武士階級同士
内輪もめの勢力争いでしかな
く、革命でも維新でもない。
欧米のように人民が自ら参戦
して建国した独立戦争では
ない。日本の戊辰戦争を英語
ではシヴィルウォーと米国南
北戦争と同じに表現するが、
これは誤りだ。日本には人民
自ら血を流しての独立建国の
歴史は一切存在しない。古代
以前から「支配者と被支配者」
という構造が貫徹された国だ。
日本人民は自分で国を手に入
れて国家を建設した事は一度
たりとも無い。二千年の長き
に亘り、支配者には抵抗しな
い。人類として誇れる歴史とは
いい難い。日本人は不条理で
非道な権力支配の鉄鎖を自ら
打ち砕かないからだ。


広島県で一番古い土地である
尾道。歴史は一千数百年を超
える。
そのせいか、土地柄は面白い。
土地の人々の気質はカオスで
錯綜している。
つまり、「尾道人の気質」と
いうものは固定的に確定され
ない。
これは、三原や広島や福山と
は大きく異なる。まるで異な
る。
広島・福山・三原の場合はかな
り固定的な集団性を見せる。
全国的には特異な部類の性格と
して。(高知県などが近いかも
知れない)
尾道にはそれが無い。
不思議な町だ。

街自体が昭和残影のような場所。
建物の老朽化が激しいが、レト
ロ感は溢れすぎる町が尾道だ。
昨夜食事した建物も、確実に
戦後直後のビルの構造だった。
他にも、古い建物が多く残って
いるのが尾道だ。
街を歩くと、戦後昭和の日本史
を見るような思いがする。
三原や福山と違い、観光地にも
なっているのが尾道だが、見所
の焦眉は即席ご当地物でっちあ
げの「尾道ラーメン」や新設の
施設等ではなく、「真実の歴史
感」のただ一点だろう。
まるで映画のセットのような街

が尾道そのものなのだ。




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