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初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

親父が亡くなって

2017年02月08日 21時33分08秒 | Weblog


葬儀を終えて、出棺のときを

迎えました

大勢の人々に見送られて

斎場へ向かいました

… … …

斎場へ親父と長年一緒に仕事していた

衣笠貞之助監督もこられました

新感覚派映画「狂った一頁」(サイレント)

以来の付き合いです。親父と衣笠さんは

気があったのでしょう



斎場で待っている間に

私の弟二人を前にして

衣笠さんは身振り手振りで

演技論を熱心に展開されました

私の弟二人は映画俳優の道を

踏み出したばかりでした



私の弟二人を前に演技論を展開する

衣笠さんに母親はこんなところでと

苦笑していました…








烏丸鞍馬口にて

2017年02月07日 23時54分23秒 | Weblog


親父の告別式は2月23日

京都、烏丸鞍馬口(からすま・くらまぐち)の

お寺で行われました

… … …

私たち遺族が、お寺到着してびっくりしました

あまり広くないお寺の境内に受け付けのテントと

休憩用のテントが張られていて、その他、

準備がすっかり整っていました

後で、聞いたのですが、このお寺始まって以来の

葬儀、告別式だったそうです。

… … …

葬儀委員長のH田省三さんが、西田町の家で

何時間も電話機を抱えてあちこちに連絡して

準備されていたのでしょう



やがて、お坊さんの読経で葬儀が始まりました

各撮影所のスタッフや俳優さんがそれぞれの

撮影所のロケバスで到着します

勝新太郎さん、市川雷蔵さん、月形龍之介さん

と、スターさんも焼香に来られました

遺族席の私が祭壇を見ると、大阪テレビの報道部が

取材に来ています。その日の芸能ニュースの1項目に

するのでしょう



しばらくすると、遺族席の私の肩を後からたたかれて

後を見ると、なんと、勤め先の大阪テレビ編成局

演出部次長のU宮楢生さんでした

「あんたが必要だと思って…」と

私の給料袋を渡されました

世間のサラリーマンの給料日は毎月25日ですが

大阪テレビでは何故か毎月23日が給料日なのでした

上司、U宮さんのやさしい心遣いに私は感激しました







通夜

2017年02月06日 23時22分11秒 | Weblog


親父が亡くなったことを、

母親は大映京都撮影所(太秦)へ

連絡しました。

親父の親しかった

H田省三さんが葬儀委員長として

西田町のわが家へやって来られました



私はH田省三さんを撮影所で知っていました

わが家にやって来たH田さんは、母親と簡単な

挨拶を交わして、

「電話を貸してください…」と

手帖を見ながら、片っ端から、東京をはじめ

あちこちに親父のことを連絡していきました

H田さんは連絡漏れがないか気を使いながら

その連絡に数時間、電話機を

かかえたままでした



H田さんと、母親は相談して

通夜はわが家で、告別式は

烏丸鞍馬口のお寺でとスケジュールが決まりました

… … …
わが家の部屋には花が一杯飾られました

通夜には、大勢訪れてくださいました

… … …

9時ごろ、親父と長年一緒に仕事をしてきた

俳優、長谷川一夫さんが来られました






親父の死

2017年02月05日 22時03分14秒 | Weblog


私は急いで帰宅して、二階で

休んでいる親父の枕元へいきました

母親によると、親父の容態が急変して

意識が戻らないといいます



先日、あれだけ元気に私と日本酒を

飲んでいた親父は、すやすや眠っているように

昏睡状態でした。

西田町のわが家には家族ぐるみ

近所のN医師が主治医としてお世話になっていました

そのN医師は親父の大腿部に毎日

点滴(リンゲル)を注射していました

点滴が終わる頃になると、意識が

少し戻るように感じました



数日後、

「いよいよ、お父ちゃんはダメらしい…」と

母親に云われて、二階の親父の枕元に集まりました

親父は病院から退院して自宅で亡くなりました






親父が危ない

2017年02月04日 22時45分11秒 | Weblog


私は東淀川団地へ戻って、

テレビ局へ通っていました

放送時間に関係なく番組の

ビデオ録りで夜遅くなることが

しばしばでした

… … …

その日の番組のビデオ録りが

終わって、スタジオから三階の

演出部へ上がってきました



誰かが私に母親から電話があったと

云ってくれたので、急いで京都へ

電話を入れました。

… … …

母親は

「お父ちゃんがあぶないらしい…」と

云っています



私は作業用ジャンパーを脱いで

真冬の夜、京阪電車、京都市バスか

国鉄大阪駅から京都、のどちらかの

ルートで西田町の実家へ飛んで帰りました

… … …

先日、真っ昼間から親父と日本酒を

酌み交わしながら雑談したばかり

だったのにと思いながら…





親父の自宅養生…

2017年02月03日 20時36分58秒 | Weblog


親父は府立病院から退院したと

母親から連絡がありました

親父は約1年、入院していました

私も退院した親父に会いたいので

久しぶりに京都、西田町の

実家を訪ねました



私が使っていた二階の部屋に

布団を敷いて、起きたり寝たり

しているようでした

親父が二階で養生するというのは

歩行困難なほど身体が

衰弱していなかったからでした



結局、親父の病名は母親から聞いていません

しかし、医学の心得のあった母親ですから

病院から何か聞いているはずでしたが…

親父は私を笑顔で迎えてくれて

久しぶりというか初めてだったのか

昼間っから父子二人は日本酒を傾けました

… … …

親父は酒豪というほどではありませんが

まあ、映画人としては酒好きで通っていました

親父に遺伝したのか私もかなり酒好きでした







親父の病室を訪ねて

2017年02月02日 22時37分48秒 | Weblog


私は京都市左京区浄土寺西田町から

大阪市東淀川団地、単身棟へ引っ越して

毎日の生活が軌道に乗って安定してきました

… … …

親父が実家の近所、府立病院に入院したのが

気になっていました。

親父はそれまで、大した病気もせず、元気でした。

私の東淀川団地に親父は来そうになかったので

それではと、私の作った

8ミリ動画「私の団地生活」を親父の

病室で見せて以来、ご無沙汰していました



テレビ局の番組制作にビデオ録りが増えて

勤務時間が不規則になってきました

私の映画撮影所勤務時代も、映画の完成が

近付くと、残業が増えていましたが…

テレビのビデオ録りの残業は撮影所の残業と

ちょっと違っていました



親父が府立病院に入院して1年ほど経ちました

その間、私は何回か病室へ見舞いに行っていました

母親から「お父ちゃんが退院できるらしい…」と

電話を貰いました







「空からこんにちは」が終わって

2017年02月01日 23時14分39秒 | Weblog


朝日放送ラジオの若者向け

深夜放送「ABCヤング・リクエスト」と

ヘリコプターからの交通実況放送?の

「空からこんにちは」はヒット番組でした



「空からはんにちは」(略して「空こん」)は

事故も無く約10年続きました

大阪も次第に道路の渋滞は日常化してきました

警察の交通センターもコンピューター化されて

市内の交差点には自動車用のセンサーが

取り付けられて精度の高い情報が

集まるようになりました

ヒット番組「空からこんにちは」は修了しました

いまは、日本道路交通情報センターから

民放ラジオ、NHK番組も含めて、

随時、交通情報を流すようになりました



私は、パソコンのradikoでラジオを

聴いています。

番組の途中に交通情報が流れます

宝塚西トンネルが××キロ渋滞(中国自動車道)とか

高槻バス停が…(名神)と交通情報が聞こえてきます。