goo blog サービス終了のお知らせ 

初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

香里団地を訪ねて

2017年02月18日 21時45分34秒 | Weblog


香里団地に住みだしたテレビ放送部の

A尾ちゃん夫婦を訪ねることにしました

場所は、京阪電車の京都三条と大阪天満橋の

まん中ぐらいの枚方市駅(ひらかたしえき)で

まず下車します



枚方市駅前から京阪バスでバス停三つほどで

突然、香里団地に着きます

第一印象は香里ニュータウンで、並木通りは

すばらしく、桜並木もあって緑が豊富です



私の住んでいる東淀川団地は出来たてなので

木々も若くて緑の乏しいところでした

香里団地の中心には、大丸ピーコックのスーパーマーケットに

隣接して飲食店が並んでいました



香里団地の敷地は、戦時中に火薬工場があったらしく

地形が盆地のようになっていて、そとから団地が見えない

構造でした。

緑豊かな並木道に、あちこちに小さな公園もあって

私はすっかり気に入ってしまいました。

… … …

テレビ放送部のA尾ちゃん宅での話では

空き家があるのではないか…というので

早速、大阪市内の公団事務所に出かけました










新しい住まい探し

2017年02月17日 19時38分46秒 | Weblog


母親が京都、西田町の家を

たたむ、というので、

私は、いま住んでいる東淀川団地単身棟の

ワンルームより広い2LDKの団地を探す

ことにしました。

… … …

当時、大阪では新しい団地建設が進んでいました

募集があると、すぐ入居申し込みをするのですが

応募が多いので抽選になり、なんども落選しました



大阪テレビ局は新しい会社で皆若いので

新婚家庭の住まいとして団地に入居する局員も

多く居ました。

当時、週刊誌などで新しく「団地族」という言葉が

流行っていました



大阪テレビ局・編成局放送部のA尾ちゃんに、

「どうも団地の抽選に当たらない…」と悩みを打ち明けると

「私の住んでいる香里団地(こうりだんち)は

なかなか良いところだよ…」

「一度、遊びがてら、おいでよ…」と云うので

香里団地を見学に出かけることになりました








母親の決断

2017年02月16日 19時21分56秒 | Weblog


母親は親父と結婚して

京都市左京区下鴨宮崎町に住み始めたころ

母親はそれまで、賑やかだった東京銀座新富町の生家に比べて

夜になると暗く静かな町の新居で

夜、一人、親父を待っているとき

「私はこれでよかったのかしら…」と

思ったようでした。



わが家、下鴨下川原町15で

大東亜戦争が始まりました

親父は満映の仕事で一家は

満州國新京特別市盛京大路

房産住宅78號へ渡満します



敗戦を迎えて満州から引き揚げて

結局、京都市左京区浄土寺西田町へ

帰ってきました

… …゜…

母親は、長年、京都で生活していたのに

会話に京都訛りがでませんでした

どうも京都の水が合わなかったようです

… … …

親父がいなくなって、京都で生活を続ける

意味が無くなったのでした

母親は私に「西田町のこの家を売る…

あんたは、東淀川団地のワンルームから

広いところへ引っ越しなさい…」

… … …

母親は弟二人と三人で東京へ帰る

あんたはこちらで頑張りなさい

「発展的解消だよ…」と云いました





親父と母親

2017年02月15日 22時54分46秒 | Weblog


親父が亡くなってしばらくして

わが家は落ち着いてきました

私も、東淀川団地単身棟に戻りました



ある日、母親は一寸相談したいと

電話を掛けてきました

西田町の家(京都)をたたんで

私は東京へ帰りたい…と云ってきたのでした



親父は静岡県浜松市の出で、母親は東京銀座の

新富町の生まれでしたから、私の両親は

関東から関西へ来ていました

… … …

関東大震災で関東の各撮影所が壊滅状態になって

関西へ撮影所を移したのでした

京都に移された撮影所のまわりには

神社仏閣が豊富ですから、時代劇映画の

ロケーションに不自由しませんでした

… … …

そして、親父と母親は

京都市左京区下鴨宮崎町で

所帯を持ちました。





新京極の映画館で

2017年02月14日 22時12分03秒 | Weblog


当時、私は一端の映画青年ぶっていましたから

新京極の映画館でいろんな映画を見ていました

… … …

「陽のあたる場所」はモンゴメリー・クリフト、

エリザベス・ティラー、シェリー・ウィンタース

富裕層のシーンをハイキーで、庶民層場面はローキーに

描写されていたのが印象に残っています

… … …

フレデリック・マーチ主演の「セールスマンの死」や

イギリス映画「ハムレット」はローレンス・オリヴィエの

ハムレットに、ジーン・シモンズのオフェリアで重厚な

画面で感動しました



私は撮影所の帰りに新京極の映画館へよく通いました

新京極の映画館は夜の9時過ぎに終わりますから

あちこちの映画館からどっと観客かはき出されます

新京極の通りはたちまち人で一杯になりました



映画館、SY京映で「クレオパトラ」を見ました

主演は、当時話題のエリザベス・ティラーと

リチャード・バートンでした。

ストーリーが少し難解な作品でした

… … …

映画が終わって、新京極を歩いていると、前を歩いていた

親子連れの女の子が父親に「この映画はよくわからなかった…」と

父親は「お父さんにも、わからなかったから、いいよ…」と

云うのが聞こえてきました。微笑ましい親子でした。










京都市内の映画館

2017年02月13日 22時14分20秒 | Weblog


昨日は大映の封切映画館、公楽会館の

ことを記しましたが、

映画が娯楽の王様だったころ

京都市内には数多くの映画館がありました

… … …

私はよく市内中心部の新京極の映画館へ

よく行きました。

… … …

河原町三条にあった京劇は毎週、ニュース映画

数本とディズニーのミッキーマウスの短編アニメ

かトムとジェリーなどよく見ました



河原町三条から四条のあいだに

京宝(京都宝塚劇場)と京宝劇場の横の

長いエスカレーターを上ると、スカラ座がありました

… … …

河原町通りを少し下がったところに

文映(文化映画劇場)があって、洋画を上映していました

この河原町通りと並行して西側の繁華街が

新京極です、この新京極に映画館が数多くありました

新京極の三条側から、京都座、松竹座、

ピカデリー劇場、菊映(菊水映画劇場)

京極大映、京極東宝、八千代館、

美松大劇場(みまつ)、美松映画劇場

SY京映(えすわいきょうえい)などが並んでいました



新京極の映画館のほかに、四条大宮、

千本(せんぼん)にも映画館がありました

当時、テレビはまだ、始まっていません

動画は映画館でしか見られません

世間は、動画に飢えていたのでしょうか…







親父の思い出②

2017年02月12日 22時21分32秒 | Weblog


親父の仕事が終わって(クランクアップ)しばらくして

街の映画館で封切りされます

大映の映画は、京都四条河原町高島屋百貨店の横に

あった、公楽会館(こうらくかいかん)で

封切られていました

公楽会館の地下に小劇場もあって、ここでは洋画の

二番館でした



私たち家族は、四条河原町の公楽会館によくいきました

完成した作品を撮影所の試写室で見たこともありましたが

やはり、街の映画館で大勢の観客に混じって見る方が

いいようでした

… … …

親父も街の映画館でときどき、見ていたようです

映画館のスクリーンにどう映写されているかとか

画面が暗くないかとか、画面の四隅が切れていないかとか

撮影所の完成試写ではわからないことが、あったのでしょう

親父は映画館のスクリーンにはどう映るかを意識して

仕事をしていたようでした。



私たち家族は完成した映画を公楽会館で見て帰ってから

親父に、あそこはどうしてとか、俳優さんの演技について

聞いたことがありました。親父は現場の裏話を交えて

いろいろ話してくれました



親父は、仕事のないとき、衣笠貞之助監督、長谷川一夫さんらと

新京極の映画館に他社の邦画、洋画を見ていたようです

… … …

映画館から帰ってきて私らにあの○○映画は面白いから

といわれて、母親と二人でとか私一人で見に行ったことが

ありました。

… … …

わが家では親父と家族で映画館へ行った思い出が

ありません。

わが家で映画は純粋に娯楽ではなかったのかも

知れません。






親父の思い出①

2017年02月11日 22時06分57秒 | Weblog


映画はセットとロケーションで

作られます。

親父はロケとセットと比べると

セットが得意だったようでした

スタジオでの撮影では

スタジオのセットに照明を

当てなくてはなりません
… … …

親父はそのライティングに

独特のセンスがあったようです



特に俳優さんのアップショットの

ライティングが鮮やかでした

俳優さんの照明に時間がかかることが

ありました

… … …

照明に時間がかかった俳優さんは

完成試写で綺麗なアップショットを見て

納得したとそうでした



親父は現代劇映画の仕事もありましたが

時代劇映画の仕事がほとんどでした

時代劇でロケーションに行くと

ロケ地の道路が広いと云っていました

… … …

ロケ地の未舗装道路が自動車用に広いのです

時代劇で三度笠の渡世人がそんな広い道路を

歩くはずがないと、広い道路に草を並べて道幅を

狭くしてしまいました

… … …

その細くなった道を遠くから歩いてくる侠客の

画面を見ると、時代劇らしく見えるのでした










親父の思い出

2017年02月10日 22時45分37秒 | Weblog


親父が会社から帰ってきました

夕食後、貰ってきた台本を読み始めます

赤鉛筆で台本のあちこちのト書きに

チェックを入れていきます



親父が台本を読み始めるといよいよ

仕事の始まりですから、家で

私たち子供らは大きな声を上げたり、

ドタバタ部屋を走りまわってはいけないと

母親から命令されていました



親父が台本を読み始めて、数日後

会社から帰ってきた親父は

「今日、スタジオでセット(撮影)が始まった」と

私たちに云いながら微笑んでいます

… … …

映画製作が企画されて俳優さんが決まって

スタッフも決まって、台本も配布されているのに

撮影に入らなくて、製作中止になることがありました

このことを「お蔵入り(おくらいり)」と云うのですが…

… … …

映画製作の初日がロケーションでもセットでも、

兎に角、撮影が始まれば、まあ映画製作は

間違いなく、大丈夫だろうというのです。





親父について

2017年02月09日 22時10分47秒 | Weblog


親父は1899年6月(明治34)生まれでした

ちょっと早いようにも思いましたが

60歳で亡くなりました

すでに、テレビの影響で映画の斜陽化が

世界的に始まっていました



国際的に名作を次々に制作していた

大映株式会社が倒産しました

私はまさか映画会社、大映がなくなるとは

思ってもいませんでした…

私も大映京都撮影所(太秦)の社員として

僅かな年月勤務していたので、

ショックを受けました



大映京都撮影所が完全閉鎖されてから

嵐電に乗って太秦(うずまさ)で下車して

撮影所の方へ通勤時代を思い出しながら

歩いて行ったことがありました

… … …

撮影所は完全に更地にされていて

新しく分譲住宅やマンションになって

あたりを見回してもどこが、スタジオで

東オープン、西オープンかわかりません。

西オープンのはずれにあった蛇塚(古墳跡)が

柵に囲まれて、住宅街の中にありました

… … …

親父が長生きしていたら、

この大映倒産のニュースに接することになります

その意味で、大映がまだ、元気なうちに

親父は、この世を去ってよかったと思いました