野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

戦略研究とクラウゼヴィッツ

2022年01月29日 | 研究活動
現代における戦略研究の「大家」は誰かと尋ねられたら、コリン・グレイ氏(レディング大学)は外せないでしょう。かれは、戦略について、数多くの著書と数えきれないほどの論文やエッセー、記事を書いています。さらに、グレイ氏は学問領域だけにとどまらず、実務でも、レーガン政権の顧問としても活躍しました。かれは戦略の学問と実務の両方に精通した稀有な人材でした。正直に申し上げると、わたしは、グレイ氏の研究には、あまり興味がありませんでした。もちろん、かれの著作や論文を無視したわけではありません。「武器があるから戦争は起こる。だから軍縮は平和を促進する」という「俗説」がありますが、わたしはこれに疑問を抱いていました。そこで『武器は戦争を作り出さない(Weapons Don't Make War)』(カンサス大学出版局、1993年)を訪ねたのです。ここで主張されている、「政治における政策が戦略を規定するのであり、これにより兵器は意味づけられる」との主張には、半分くらい納得したのですが、その反面、テクノロジーの進歩を反映した戦力という物質的要因が政治的意思決定の選択肢を制約する結果、戦争と平和に大きな影響を与えるのではないかと思ったりもしました。また、イギリスの古き良き「ヴィクトリア朝」をほうふつとさせるようなグレイ氏の文章や論述には、違和感を覚えずにはいられませんでした。かれの古典的ともいえる研究スタイルは、簡潔性を重んじる論理実証主義の政治学の研究とは、何か相いれないものがあるように読めてしまったのです。

そうしたわけで、グレイ氏の記念碑的著作である『現代の戦略』(奥山真司訳、中央公論新社、2015年〔原著1999年〕)は、購入済みだったのですが、ぱらぱらと斜め読みしただけで、本棚に眠っていた状態でした。本書は、おそらくエドワード・ルトワック著『戦略論』と並ぶ、戦略研究の必読テキストでしょう。そうした基本書を踏まえずして戦略を研究しているというのは無責任だと思い、キチンと読むことにした次第です。ありがたいことに、奥山真司氏(国際地政学研究所)が、素晴らしい翻訳と解説の仕事をしてくださったおかげで、本書は日本語で読めるとともに理解も進みます。感謝ですね。



グレイ著『現代の戦略』は、分厚い難解な書物のようですが、核心的な主張はシンプルです。すなわち、戦略には普遍的な論理や本質、機能といったものがあり、それはクラウゼヴィッツが約200年前に示したものと変わりがない、ということです。ここで示されている戦略とは「政策の目的のための軍事力の行使と、その行使の脅しに関するもの」です。そして、戦略とは「軍事力と政治的な目的をつなげる『懸け橋』である」という位置づけになります(『現代の戦略』45ページ)。この戦略のロジックは、規模を問わずあらゆる戦争を規定するものであり、また、陸海空そして宇宙やサイバー空間にいたる全ての軍事力を使用する際の基準となるのです。こうしたグレイ氏の学問的・政策的ポジションは、保守的であり、クラウゼヴィッツの擁護者といえるでしょう。かれは、自身を「歴史を深く尊敬している社会科学系の人間」と位置づけ、戦略へのアプローチを「戦略史」と「政策科学」の融合と記しています(前掲書、23ページ)。現在の政治学が歴史学から離れて数量的になる傾向にある中で、こうした歴史に立脚したオーソドックスな戦略研究は、とても価値のあるものではないでしょうか。

『現代の戦略』は、方法論が異なる歴史学と社会科学(政策科学)を取り入れていることがメリットである反面、その方法論があまり定まっておらず、既存の研究への批判が、ややもすると「独善的」になっているようにも読めます。本書の主要な目的は、グレイ氏によれば「あらゆる時代のあらゆる戦略の経験には統一性がある」という仮説を「説明」することです(前掲書、43ページ)。これだけでは「仮説」が何を意味するのか不明瞭ですが、本書を読み進めていくと、歴史研究によくあるように、埋め込まれる暗示的な形で仮説がそれとなく示されています。すなわち、「人間と政治」、「戦争の準備(兵站、軍事組織、訓練、軍事ドクトリン、テクノロジーなど)」、「戦争そのもの(指揮、地理、摩擦、敵など)」が、「戦略パフォーマンス」を定めるということのようです(前掲書、47、53ページ)。ただし、こうした「百科全書的な」仮説は、反証可能性に乏しい「万能理論」に近いため、全ての事例が仮説に合致してしまいそうです。その一方で、かれは「戦略的なアイディア」に内包されている仮説の検証が不可能であるともいっています(前掲書、24ページ)。もし、そうであるならば、われわれはグレイ氏の「理論」が正しいかどうかをどうやって知ることができるのでしょうか。

また、グレイ氏はさまざまな国際関係論の研究成果を退けていますが、その反論の仕方が「雑」であるようです。たとえば、かれは国際関係研究について、以下のようなバッサリと切り捨てるような批判を述べています。「専門分野における深い知識のメリットがどのようなものであれ、とたえば国際関係論の理論についての現代の学術研究…の知識のほとんどは、専門家になろうと思っていない一般の人々にとっては単なる不可解なものでしかあり得ないのだ」(前掲書、196ページ)。こうした指摘は、知る人ぞ知る難解な高等数学を使った定量的な国際関係の理論にあてはまるかもしれませんが、このブログで何度も取り上げているスティーヴン・ウォルト氏の「脅威均衡理論」やジョン・ミアシャイマー氏の「攻撃的リアリズム」といった政策に関連づけられた、日常言語で書かれた研究には該当しないでしょう。

グレイ氏の戦略論の主な特徴は、わたしが読む限りでは、戦略を政策科学と扱っているにもかかわらず、そのアートの側面を重視していること、そして戦略を実践する政治指導者の力量を研究に組み込んでいることにあります。かれ曰く「戦略家という職種に求められる能力の獲得には、多大な努力が必要とされるのだ。国防大学が学生たちに大戦略を教えようとしても、戦略が『術』であるという事実によって、彼らは限界に直面してしまう。これを喩えてみると、芸術学校は技能を教えられるが、それでも能力のあるアーチストとしてどうすれば偉大な存在になれるのかを教えられないのと一緒だ…戦争と戦略において人間が最も重要である…人間の次元は、テクノロジーや計略を克服する可能性を秘めているのだ…もし戦略が正確に理解され、確実な結果を得られることが保証されるような『科学』であったとしても、個人、組織、そして政治的なプレーヤーたちは、『科学的』な戦略知識の応用を失敗させるものなのだ」ということです(前掲書、95、153-154、386ページ)。では、戦争や戦略にたずわる人や組織は、どうすればいいのでしょうか。残念ながら、グレイ氏は具体的な指針を明示しようとはしません。「戦略は実践的な分野だが、戦略理論は行動のための具体的な指針を生み出すことはできないのだ」というのが、かれの1つの答えなのです(前掲書、155ページ)。ここまで人間が戦略で大きな要因となっていると主張するのであれば、せめて戦略を成功させるコツやヒントを示してほしいと思うのは、おそらく、わたしだけではないでしょう。あえて『現代の戦略』に、戦略の行動指針のようなものを見いだすとすれば、政・軍の「統率力」(前掲書、72ページ)といった抽象的な概念と、クラウゼヴィッツが『戦争論』で強調した、摩擦、偶然、不確実性、くわえて情熱、理性といった要因に十分な注意を払うことなのかもしれません。

戦略の全体図を記述的に描き出すという『現代の戦略』で示された研究スタイルは、本書の強みであり、また、弱みでもあるようです。戦略を構成する要因の相互作用を包括的に捉えるという点において、グレイ氏の分析は卓越しています。戦略の以下のたとえは、誰をも納得させるのではないでしょうか。

「戦略には多くの次元があり、それぞれの次元の機能には大小がある。言うなれば、戦略というのはレーシングカーのようなものであり、なかでもエンジンやブレーキ、タイヤ、そしてドライバーがいるのだ。戦略パフォーマンスというのは、他のレーサーたちの意志と能力によって決定されるものであり、戦略の…次元のいずれかで失敗したり不運が起こったりすると、全体的なパフォーマンスが落ちてしまう…二つの世界大戦におけるドイツ軍…は戦闘こそ非常にうまかったが、戦争の遂行という能力は劇的に低かったのだ…『偉大な司令官』がいても、戦場で戦ってくれる兵士がいなければ意味はないし、テクノロジー面で優秀な兵器も、これを使う兵士にとっては戦術レベルにおいて効果があるだけだ」(前掲書、54-55ページ)。

ただし、こうしたアナロジーによる戦略の理解は、その実践において弱点を露呈します。グレイ氏は「戦争は政策のために行われるものであるが、(クラウゼヴィッツの)『戦争論』は政策について書かれているわけではない」と指摘しています(前掲書、164ページ)。そして、かれは『戦争論』に欠けている部分を『現代の戦略』において、継承してしまったようです。グレイ氏に師事した訳者の奥山氏は「訳者あとがき」で、本書をこう位置づけています。「気になるところは…クラウゼヴィッツをやや神格化しているように見られやすい点だ…この本もクラウゼヴィッツの『戦争論』と同じように、あくまでも教育書や哲学書という性格が強く、結果としてクラウゼヴィッツの『注釈書』であると同時に、そのエッセンスを先鋭化させた『現代版』という性格が強い」(前掲書、530ページ)。グレイ氏自身も、このことは自覚しているようで、ケン・ブース氏(アベリストウィス大学)の次の批判を受け入れています。「彼はクラウゼヴィッツの主張と格言が、(グレイ氏の研究において)理性的な議論や判断の代わりにマントラ(真言)として使われることが多いことを指摘している点で正しい」(前掲書、513ページ)。

戦略研究においてクラウゼヴィッツは、国際関係論におけるトゥキュディデスのような存在なのでしょう。ただし、国際関係論はトゥキュディデスを継承しながらも、それを科学的に乗り越えようとしてきました。リアリストたちは、国際政治の諸事象や戦争の原因を探究する際に、トゥキュディデスを参照しながらも、新しい理論を構築してきたのです。E. H. カー氏の「リアリズム」をハンス・モーゲンソー氏が発展的に「古典的リアリズム」として継承し、それをケネス・ウォルツ氏が科学的なネオリアリズムに昇華させました。その後、ネオリアリズムは、ジョン・ミアシャイマー氏によって、「攻撃的リアリズム」という新しい学派を生み出しました。リアリズムは、現在の政治学・国際関係論において、研究プログラムとして定着したといってよいでしょう。国際関係の研究者たちは、リアリズムのコア理論を受け継いだ形で、さまざまな中範囲の理論を打ち出しています。こうした科学的な学問の進展は、われわれの国際関係に対する理解を深めることに貢献しています。

グレイ氏は、現代の卓越した戦略理論家であるのは、誰もが認めるところです。『テキサス国家安全保障レヴュー』誌における、かれを偲ぶラウンドテーブルは、その素晴らしい研究足跡を称えています。ロバート・ジャーヴィス氏は、グレイ氏の研究に対する真摯な姿勢を賞賛していました(奥山氏がご自身のブログでジャーヴィス氏のグレイ氏に対する追悼文を日本語に訳されています)。グレイ氏に代表される戦略研究は、古典や歴史さらには「戦略的センス」を大切にする良い面があります。こうした立ち位置は、歴史家であり戦略家でもあるジョン・ルイス・ギャディス氏(イェール大学)に通じるところがあります。ただし、その代償は、率直にいえば、戦略研究の「科学的な」発展にブレーキをかけていることではないでしょうか。近年の大戦略の研究を包括的にレヴューした書評論文では、確かに戦略研究はその蓄積がなされているものの、この分野の問題として、適切な定義や使うべき方法論がばらばらであり、また、その目的が説明的なのか規範的なのか未分化であるため、研究プログラムとなっていない根本的問題を抱えていることが、アメリカの海軍大学の研究者たちから指摘されています(Thierry Balzacq, Peter Dombrowski, and Simon Reich, "Is Grand Strategy a Research Program?" Security Studies, Vol. 28, No. 1, October 2019, pp. 58-86)。

クラウゼヴィッツが偉大な戦略家であったことには、誰も異論はないでしょう。ただ、「個人崇拝」は科学の世界では慎むべきです。もちろん、グレイ氏は、クラウゼヴィッツを「完全無欠な戦略理論家」とみなしているわけではありません。かれが展開する『戦争論』の「限界や弱点についての議論は、クラウゼヴィッツを弁護するためのものではない」(前掲書、157ページ)ということです。ただし、グレイ氏が戦略理論を総合的なものにしようとするあまり、上述したように、それが万能理論すなわち理論のいずれかの予測がすべての結果に一致してしまうものになりがちであり、時には、トートロジーに陥ってしまっています。たとえば、「不確実性」そのものは、論理的に、反証可能な仮説を生み出しません。なぜならば、将来の出来事には必ず不確実性が伴うからです。さらに、多かれ少なかれ、戦勝は「偶然」の結果、敗戦も「偶然」の結果であれば、これは明らかにトートロジーです。どれだけ優れた理論や研究成果でも、反証可能性がなければ、それは「ドグマ」です。実証科学の観点からすれば、クラウゼヴィッツ『戦争論』に内在する諸仮説の妥当性は、優れて経験的な問題でしょう。そうであるならば、それらを反証可能な仮説に再構築する作業が、戦略研究を前進させる第1歩になります。「戦略は…社会科学」(前掲書、135ページ)であるならば、その理論は標準的な科学的手続きの厳しい検証を受けなければなりません。そうしたプロセスは、社会科学としての戦略研究をより発展させることでしょう。


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戦争の終結と指導者の決断

2022年01月25日 | 研究活動
国際関係研究において、戦争がどのように終わるのかは、戦争がどのように始まるのかより、注目を集めてきませんでした。このことは戦略研究や安全保障研究の「隙間」であり、今でもそうでしょう。わたしは大学院生の頃、先達たちがあまり取り組まなかった隙間を埋める研究は、学問的・政策的価値があると考えていました。そこで、わたしは、戦争の終結プロセスにおける第三者とりわけ国連の介入が果たす役割について、当時、脚光を浴びていた「国際レジーム論」を援用した理論モデルを作り、拙いものではありますが、1995年に、それを論文にまとめたことがありました。その後、理論を検証するために、国連が介入した、いくつかの戦争の事例を調べたところ、少なくないケースで、国連の平和維持活動が行われたにもかかわらず、戦闘が再発してしまったことが分かりました。

今から考えれば、戦争の終結と戦後の「平和」の継続性は別々に扱える要因であり、これらの帰結に第三者として国連が与える因果効果は異なって当然なのですが、当時は、そうは思えませんでした。その結果、わたしは、この研究課題をあきらめてしまい、2国間関係におけるパワー分布の変化と戦争の生起の因果関係にテーマを変えてしまいました。その後、ヴァージニア・ペイジ・フォトナ氏(コロンビア大学)が、わたしと同じような問題関心から、紛争に対する第三者の介入を含めた停戦合意とその継続性について画期的な研究を行ったことを知りました。彼女は、著書『平和の時間―停戦合意と平和の継続―』(プリンストン大学出版局、2004年)で、国連の平和維持活動と停戦の破棄について、こういっています。「平和維持軍が駐留している場合でも紛争はより再発しやすいのは、平和維持軍が(紛争を)混乱させるからではなく、戦争が最も起こりやすいところに最も展開しやすいからなのである」(同書、32ページ)。わたしは、この1文を確かにそうだと、目から鱗が落ちる思いで読みました。このような発想は、大学院生として国連の紛争介入を調べていた時には、全くでてきませんでした。

戦争終結の研究は、その後、少しづつ進展しました。その成果の1つが、このブログでも紹介したダン・ライター氏のバーゲニング理論を応用した学術書の発表です。そして昨年、このテーマについて、日本でも新しい研究書が上梓されました。千々和泰明『戦争はいかに終結したのか』(中央公論新社、2021年)です。かれは戦争終結の因果関係をいくつかの主要な仮説にまとめています。第1の仮説は、「優勢勢力側にとって『将来の危険』が大きく『現在の犠牲』が小さい場合、戦争終結の形態は『紛争原因の根本的解決』の極に傾く」です。第二次世界大戦の終わり方は、これを裏づけるものです。第2の仮説は、「優勢勢力側にとっての『将来の危険』が小さく『現在の犠牲』が大きい場合、戦争終結の形態は『妥協的和平』の極に傾く」です。湾岸戦争の帰結は、このパターンに当てはまります。(同書、18-19ページ)。こうした戦争終結の理論構築と事例研究は、われわれのこの分野の理解をさらに前進させました。

わたしは戦争終結について、以前から、ある1つの疑問を抱いていました。それは第二次世界大戦の初期において、なぜイギリスはドイツと和平を結ばなかったのか、というパズルです。周知の通り、1940年5月に発足したチャーチル戦時内閣は、フランスが降伏寸前まで追い詰められ、アメリカは「孤立主義」を保っており、ソ連はドイツとの不可侵条約により参戦が望めない、孤立した絶望的な状況に追い込まれていました。それもかかわらず、イギリスは圧倒的な優勢を誇っていたナチス・ドイツの和平の呼びかけに応じず、徹底抗戦を決断しました。どうしてなのでしょう。この点について、千々和氏(防衛研究所)は以下のように説明しています。

「ドイツと海峡を隔てるイギリスには、勝算がまったくないわけではなかった。何よりもイギリスは、まだアメリカ参戦の可能性があると信じることができた。イギリスは、自国を守ろうとしている民主主義という価値が『現在の犠牲』に耐えるのに見合うものだと考え、また構造的なパワー・バランスを自国に有利なかたちで変えうる可能性が客観的に存在すると判断することができた…劣勢勢力側が考えなければならないのが、自らの損害受忍度についてである。チャーチルのイギリスは民主主義のため…『現在の犠牲』に耐え、成功した」(同書、71、266ページ)。

ここからは、イギリスがドイツに屈しなかった理由は、主に3つあるように読めます。すなわち、アメリカの参戦への期待とそれによるバランス・オブ・パワーの好ましい変化、民主主義を守る価値の大きさです。ここでは、これらの要因がイギリスに継戦を決断させたのかを検証してみたいと思います。

ライター氏が『いかに戦争は終わるのか』で提示した命題が正しければ、国家は戦況が芳しくなくても、最終的な勝利を収められると期待すれば、妥協したがりません。1940年春におけるイギリスの継戦の決定は、この仮説によって説明できそうです。チャーチル政権と1940年5月の政策決定を詳細に研究したデーヴィッド・レイノルズ氏(ケンブリッジ大学)は、チャーチルが対独戦争の行方について、他の政治指導者より楽観視していたのは、アメリカの参戦の可能性に、根拠に乏しい期待を抱いていたことを指摘しています。同時に、かれはチャーチルがドイツとの和平を拒み、戦争を続けることを1940年5月時点で決断した要因として、ドイツ経済の脆弱性を過大評価していたことを以下のように指摘しています。

「根底にある予測は…ドイツが食料や原材料とりわけ石油不足に陥るというものだった…もし海上封鎖を維持することができれば、その後、1940‐41年冬までに、石油と食品の不十分な供給は、ヨーロッパにおけるドイツの支配を弱めるだろうし、1941年中頃までに『ドイツは軍需品の交換が難しくなるだろう』。チャーチルは、ドイツの経済が過剰拡張にあるという、この予測を共有していたようである…1940年5月、かれは『もしわれわれがもう何か月か踏ん張れることさえできれば、立場は全般的に違ったものになる』と主張していた」(David Reynolds, "Churchill and the British 'Decision' to Fight on in 1940: Right Policy, Wrong Reasons," in Richard Langhorne, ed., Diplomacy and Intelligence during the Second World War: Essays in Honour of F. H. Hinsley, Cambridge University Press, 1985, pp. 157-158) 。



要するに、チャーチルはドイツ経済の弱さに勝機を見出していたということです。もう1つチャーチルを継戦に傾けた要因は、ドイツに対する爆撃の効果への期待でした。レイノルズ氏によれば、「爆撃は…新しい武器に加えられた…かれ(チャーチル)の見解において、ヒトラーを倒せるであろう唯一のことは『この国からの重爆撃機によるナチス本土への破壊的かつ壊滅的な攻撃』であった…9月3日の閣議に関するメモランダムにおいて…かれは…戦闘機はわれわれを救うが、爆撃機だけでも勝利の手段となる」と認識していたのです(前掲論文、156ページ)。しかしながら、これらの予測は、残念ながら、外れてしまいました。ナチス・ドイツはイギリスが考えていたほど経済に弱さを抱えていたわけもなければ、爆撃により弱体化したわけでもなく、士気をくじかれたりしたわけでもありませんでした。

それでは、アメリカの参戦について、イギリスの指導者は、どのように考えていたのでしょうか。再びレイノルズ氏の分析をみてみましょう。「参謀本部が1940年5月時点で明らかにしたことは、アメリカが『全面的な経済および財政援助をわれわれに進んで与えてくれるであろう、それなしでは、われわれは継戦のいかなる成功も考えられない』という主要な予測であった…イギリスの指導者は1940年中頃において、アメリカの早期の宣戦布告を望んでいた…しかし目下の決定的なかれらの考えは、イギリスの士気に与えそうな影響であった。6月15日、チャーチルはルーズベルトに直接こう述べていた。わたしは合衆国が参戦するという場合、もちろん、遠征軍の観点で考えているわけではありません、そんなことが問題外であることは、わたしも分かっています。わたしの心にあるのは、そのようなアメリカの決定が生み出す途方もない精神的効果なのです」(前掲論文、161ページ)。こうした歴史証拠からいえることの1つは、チャーチルをはじめとするイギリスの指導層は、直接、アメリカ軍がヨーロッパに軍隊を派遣することに淡い期待を抱いていた反面、現実的には、アメリカの経済支援とモラルサポートを当てにしていたことが浮き彫りになります。しかしながら、イギリスが最も望んでいたアメリカの対独「参戦」は、日本の真珠湾攻撃を待たなければなりませんでした。

最後に、イギリスが多大な犠牲を払ってでも守ろうとしていた「価値」とは何かを検討してみましょう。チャーチルは1940年5月13日の下院における演説において、「どんな犠牲を払ってでも勝利する…勝利なくして、そこに生き残り(survival)はない」と強気の発言しています。ここでいう「生き残り」には、イギリスの民主主義を守ることも含まれているのかもしれませんが、おそらく独立と主権を守るという意味合いが強いのではないでしょうか。なお、こうした雄弁な発言から、チャーチルは対独講和など全く考えていない強靭な指導者といったイメージでとらえられがちですが、レイノルズ氏によれば、かれは結果としてドイツと和平交渉を行うことも視野に入れていました。「チャーチルは、1940年5月が適当なタイミングではないとしても、最終的な和平交渉を排除していなかった。他の閣僚と同じく、かれの目的は全面的な勝利ではなく…ヒトラーとナチズムの排除ならびにドイツの征服から逃れることだったのだろう」(前掲論文、152-153ページ)というものです。チャーチルがチェンバレンのミュンヘン会談におけるヒトラーへの宥和を、ドイツにおけるヒトラーへの謀反の芽を摘んでしまったことを主な理由に批判していたことを考えれば、かれのこの対独戦略は合点がいきます。

こうしたエビデンスが示す理論的・経験的含意は、『戦争はいかにして終結したのか』のロジックや事例の解釈に深い示唆を与えています。第1に、戦争終結の主要仮説への「損害受忍度」という変数の追加が、方法論的に意味はあるのかということです。簡潔性(parsimony)の観点からすれば、少ない変数で結果を説明できる理論は、複雑な理論より好ましいでしょう。では、1940年5月のイギリスの継戦の決定は、既存の簡潔な仮説で説明できないのでしょうか。おそらく、損害受忍度の変数なくしても、チャーチル政権の対独政策は説明できるでしょう。戦争終結プロセスにおいて、1つのパズルは、圧倒的に戦況が不利に展開しているにもかかわらず、劣勢国が和平に応じないことです。その理由を説明する仮説として、ライター氏は「コミットメントの信ぴょう性は疑われるが、究極的な勝利の望みがあると、ネガティヴな情報(discouraging information)があっても、戦争終結にまつわる要求はより高くなる」と主張しています。この仮説は「損害受忍度」という変数を含んでいませんが、イギリスの1940年の決定をうまく説明できます。要するに、チャーチル戦時内閣は、ヒトラーを信用していませんでしたが、経済封鎖と爆撃さらにはアメリカの支援により、ナチズムを打倒できると期待していたのです。

第2の問題は、戦争終結理論の論理的整合性です。同書では、民主主義国の損害受忍度は低いことがほのめかされています(同書、274ページ)。他方、民主国としてのイギリスが甚大な犠牲を払ってでも、「民主主義」を守ろうとして、実際に、バトル・オブ・ブリテンでドイツの爆撃の被害に耐え抜いたことは、矛盾しているのではないでしょうか。民主主義国は損害受忍度が低いのであれば、イギリスがドイツに屈すると理論的には予測できてしまうのです。それとも、当時のイギリスは損害受忍度において、民主主義国の中で例外的に戦争による損害に耐えられる政治体制だったということでしょうか。民主主義という変数を暗黙に戦争終結の理論に組み込んでしまうと、そのロジックの内的一貫性を損ないかねません。もちろん、このことは国内政治レベルの制度要因の理論化を否定しません。民主主義と損害受忍度の関係は、筋の通ったロジックとして理論化できるのかということです。

第3に、経験的な疑問として、チャーチルをはじめとするイギリスの指導者は、ドイツとの戦争を続ける主要な理由を「民主主義」の擁護に見いだしていたのかということです。一般通念として、チャーチルはナチズムから自由と民主主義を救ったといわれます。歴史の後知恵をつかえば、そのような解釈はできます。ここでの実証的問題は、民主主義の価値がチャーチル戦時内閣にドイツとの和平交渉を思いとどまらせたのか、という因果推論の妥当性です。上記に引用したチャーチル発言の「生き残り」に、民主主義の維持が含意されていた可能性は排除できません。また、チャーチルがイギリスの民主主義を守るために、ヒトラーとの和平を拒んだ「決定的な証拠」をわたしは知らないだけかもしれません。ただ、上記の入手できる証拠は、経済封鎖と爆撃によるドイツ経済の弱体化ならびにアメリカからの支援が、チャーチルに対独戦でのかすかな勝利の期待を抱かせたことを示していると思います。

『戦争はいかにして終結したか』は、ハンディーな新書であると同時に明快なロジックと主要戦争の終結事例をコンパクトにまとめた、読者が手にとって読みやすい良書です。くわえて、同書は、既存の国際関係研究の隙間を埋める学術書であると同時に、これからの日本の安全保障政策の決定にも貢献できる構成になっています。不幸にして戦争が起こってしまった場合、それをいかにして終わらせるかを考えるヒントが、この本につまっているとわたしは思います。




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戦争において勝敗を分けるものは何か?

2022年01月22日 | 研究活動
戦争の勝敗を分ける要因として、「軍事力」が重要な役割を果たすことには誰も異存がないでしょう。さらに、軍事力は国家のパワーを構成する要素の主要なものであり、国際システムにおけるパワー分布が、戦争や平和、同盟の形成、抑止や強制といった国家の行動に強い影響を与えることは広く認められています。このように軍事力は、国際政治を分析する上で不可欠な概念である一方、軍事力とは何を意味するのかについては、実際のところ、研究者も実務者も、体系的に深くつき詰めてきたとはいえません。各国が保有する軍事力を計測するにあたっては、軍事費や兵員数、武器・装備といった観察可能な物質的要因を使うのが通例となっています。他方、戦闘において交戦する各国の戦術や軍事ドクトリン、軍人の技量や士気といった計測が困難な非物質的要因は、その行方を大きく左右します。こうした要因が、明示的で定式化された軍事力の理論に組み込まれることは、ほとんどありませんでした。もちろん、軍事理論家や軍事史家が、戦争における戦術や作戦、精神的要因を無視してきたわけではありません。むしろ、クラウゼヴィッツの『戦争論』をひくまでもなく、こうした要因は、戦争研究や戦略研究、戦史のみならず広く国際関係論において、その重要性がしばしば指摘されています。ただ、既存の研究でほとんど欠落しているのは、軍事力を構成する非物質的変数を組み込んだ検証可能な一般的因果理論です。国際関係論が実証的な社会科学として発達するにしたがい、観察が難しい要因は、分析の対象から外れる傾向にあるようです。

スティーヴン・ビドゥル氏(コロンビア大学)による『軍事力―近代戦における勝利と敗北を説明する―(Military Power: Explaining Victory and Defeat in Modern Battle)』(プリンストン大学出版局、2004年)は、こうした軍事力の理論的研究の隙間を埋める貴重で意義のある研究成果です。同書において、かれは近代戦の勝敗を分ける最も重要な要因は、「戦力運用(force employment)」であると主張します。リアリストは、概して、戦力(物量)の数的優劣や軍事技術の攻撃・防御バランスが戦争の帰趨を決めると論じてきました。ビドゥル氏は、こうした軍事力の物質的要因が戦闘の帰結に深く影響することを認めつつも、非物質的要因である戦力運用に因果関係の重みを置いています。すなわち、戦闘に従事する各国の軍隊が武器や兵士をどのように使うかが、その勝敗をもっとも分けるということです。そしてかれは、第一次世界大戦の末期に登場した戦力運用の方法を「近代システム(modern system)」と名づけて、その理論を第一次世界大戦におけるドイツの「ミヒャエル作戦」(春季攻勢)、第二次世界大戦におけるイギリスの「グッドウッド作戦」、湾岸戦争における多国籍軍の「砂漠の嵐作戦」の事例により検証しています。さらにビドゥル氏は、自らの理論を大標本(large-n)による統計分析で検定するととに、反実仮想実験の方法を用いたシミュレーションでも検証しています。定性的方法と定量的方法に加えてシミュレーションまで使ったかれの分析は、『軍事力』を他に類を見ないような重厚で厳密な研究成果にしています。



ここで軍事力の中核概念とされている「近代システム」とは、敵の火力にさらされる曝露を減少させること、自軍の前進を可能にする一方で、敵軍の前進を遅らせることに焦点を当てた戦術や作戦のことを指します。こうした近代システムを軍事組織が実行できるかできないかが、戦闘の勝敗を左右するということです。なお、ここでの従属変数は、陸上における中劣度から高劣度の紛争と定義されています。したがって、対テロ掃討作戦やゲリラ戦、海戦一般は含まれていません(同書、28ページ)。

なぜ軍事力を定義するのに「近代システム」が重要なのでしょうか。ビドゥル氏によれば、その理由は大きく2つあります。第1に、「国際関係の理論家がほとんど戦力運用を無視している」ことです(同書、18ページ)。第2に、オーソドックスな国力や戦力の優劣理論や攻撃・防御バランス理論では、「戦争」の勝敗を十分に説明できないことです(ここでの従属変数は、作戦レベルの戦闘ではなく、戦争〔1000人以上の戦死者をだした国家同士の武力衝突〕であることに注意してください)。1900年以後の戦争のデータセットにおいて、GNP、人口、軍人数、軍事支出、国家能力の指数で敵国を上回った国家が勝利を収める確率は、直観に反して、それほど高くないのです。GNPでは62%ですが、軍人数では49%と、コイン投げで裏表がでる確率を下回ってしまうのです。攻撃・防御といった軍事技術も戦争の結果をうまく説明できません。防御有利の期間では戦争開始国は負ける確率が高いはずであり、攻撃有利の期間では戦争開始国が勝つ確率が高くなるはずですが、データは、その確率があまり変わらないことを示しているのです。先行研究のレヴューからいえることは、戦争や戦闘の帰結を予測したり説明したりするには、新しい理論が必要であるということです。それが「近代システム」の理論なのです(同書、20-27ページ)。

作戦術としての「近代システム」は、攻撃でも防御でも、遮蔽(cover)、隠避(concealment)、分散(dispersion)、小部隊の機動(small-unit independent maneuver)、制圧(suppression)、武器の統合使用(combined arms integration)から構成されます。遮蔽や隠避は、標的となることを拒否することです。分散や機動は、小隊や分隊単位で地形を利用して行動することです。制圧は敵の火力を沈黙させることです。武器の統合使用は、異なる兵器の弱点を相互に補うことで、それらの脆弱性を減らすことです。たとえば、第一次大戦末期の1918年において、後方から大砲により敵の前線を混乱させ、前方の歩兵がターゲットと交戦する戦術が登場しました。ナポレオン戦争から第一次大戦まで続いた「散兵線」をつくって前進する作戦行動は、このような複雑な「近代システム」へと適用進化したのです(同書、第3章)。

近代システムの理論は、上記書において事例研究により検証されています。最初の事例は、1918年3月21日から4月9日の第2次ソンムの戦いにおけるドイツ軍の「ミヒャエル作戦」(春季攻勢)です。この事例は「戦力優位理論」や「攻撃防御理論」にとって「再適合事例」です。なぜならば、ドイツ軍とイギリス軍の戦力比は1.17:1でほぼ互角であり、軍事技術は機関銃や塹壕などにより防御有利だったので、イギリス軍が勝ってドイツ軍が敗北すると予想するのに十分だからです。にもかかわらず、イギリス軍が負けてドイツ軍が勝ったとすれば、上記の理論の妥当性は疑わしくなります。結論から言えば、春季攻勢において、ドイツ軍は西部戦線における塹壕戦の膠着状態を打破して、開戦以来、最長となる65キロの前進を達成しました。ドイツ軍は長距離砲によりイギリス軍の塹壕を短時間で連続して攻撃しました。そしてドイツ軍の歩兵はその隊形を分散して、地形を広く遮蔽に利用しながら、イギリス軍の塹壕ラインを突撃攻撃して破ったのです。こうしたエビデンスは、近代システムの理論が予測するところと一致しています(同書、第5章)。

次の事例は、1944年7月18日から20日における「グッドウッド作戦」です。これも「戦力優位理」や「攻撃防御理論」にとって「再適合事例」です。なぜならば、イギリス軍はドイツ軍に対して兵力や戦車、航空機において圧倒的な優勢にあり、こうした兵器は攻撃を有利にするものだったからです。にもかかわらず、ドイツの寡兵はイギリスの大敵を食い止めたのです。紙幅の制約により戦闘の経過は省略して勝敗を分けたポイントだけを簡潔に述べれば、ドイツ軍は縦深防御態勢をとるなどして近代システムの戦術を非常に効果的に活用する一方で、イギリス軍は下級将校や下士官の統率や歩兵の技量などの問題もあり、大勢の犠牲者を出してしまいました。要するに、この戦闘の結果も近代システムの理論が代替理論に優る説明を提供するのです(同書、第6章)。最後の事例は、1991年1月17日から2月28日における「砂漠の嵐作戦」です。これは戦力優位理論、攻撃防御理論、近代システムの理論のすべてが当てはまりそうな事例です。すなわち、アメリカを中心とする多国籍軍がイラク軍を戦力で圧倒しており、精密誘導兵器などは攻撃を有利にしていました。そして戦闘の結果は、周知に通り、多国籍軍が近代戦における記録的に少ない戦死者(上記書では47名ですが、後の調査では151名と記録されています)で、イラク軍に圧勝しました。この戦闘がどの理論の予測と一致するかは、過程追跡により見極めなければなりません。この事例を分析したビドゥル氏は、以下の結論に達しています。

「アメリカ軍は下級将校や下士官でさえ、小規模部隊において独立して作戦行動をとるよう訓練されており、問題を解決する戦術的判断を自分自身で下すことにより、前進して攻撃を続けた…テクノロジーは戦力運用の効果を拡大した…イラクが独立した小規模部隊を効果的に運用できなかったため、多国籍軍の航空および地上のテクノロジーの組み合わせ(による攻撃)に脆弱にされてしまい、航空機による攻撃は(イラク軍の火力を)制圧する目的に本質的に役立った。すなわち、これらの攻撃はイラク軍を守勢に立たせ、反撃する能力を減じたのだ」(同書、141、146-147ページ)。

ビドゥル氏は、砂漠の嵐作戦が決定的事例研究ではないことを補強するためでしょう、反実仮想を使ったシミュレーションを続けて行っています。ここでは①「もしイラク軍が十分に近代システムを実行していたらどうなっていたのか」、②「アメリカが進歩したテクノロジーを持っていなかったらどうなっていたのか」という「イフ」を「ローレンス・リバモア国立研究所」の「ヤヌス・システム」を使って検証しています。このシミュレーションの結果は、かれによれば、近代システム理論と一致する一方で、オーソドックスな理論とは不一致だったということです。シミュレーションを行うと、戦力とテクノロジーで優っていても、近代システムの防御に対しては、ごく小さな損害での勝利をあげることはできなかったのです。このことは、攻撃側の軍事テクノロジーの威力は、敵軍が近代システムの戦術をとっているか否かで、大きく変わるということです(同書、第10章)。

こうした研究結果は、物質的要因から構成される軍事力の概念に依拠した国際関係理論が、論理的・経験的に深刻な問題を孕んでいることを示していると、ビドゥル氏は批判しています。「物量的優位の重要性は誇張されており、そうした物量を幅広く使用することの役割が過小評価されている。ひるがえって、このことは(軍事)ドクトリンと戦術が十分に異なれば、軍事的結果に大きな違いをもたらし得ることを示唆しているのだ…ドクトリンすなわち戦力運用は、これまで戦争の説明で有力な物質的要因に比べても、より高い説明力を提供するものなのである」(同書、195-196ページ)。戦闘における戦力運用が勝敗の決定的要因であると主張するビドゥル氏は、「軍事における革命(RMA: Revolution in Military Affairs) 」を過信してはいけないと警告しています。湾岸戦争における多国籍軍の記録的な圧勝は、精密誘導兵器などの最先端の軍事技術がもたらしたという主張は誇張されており、予見しうる将来、戦闘における軍事ドクトリンや作戦術の重要性は変わらないということです。

『軍事力』は、これまでの国際関係研究がややもすれば見過ごしてきた、観察や操作化が難しい軍事力の戦術的要因を概念化して理論を構築するとともに、それを事例研究、統計的検定、シミュレーションという3つの強力な科学的方法で検証しています。本書で示された戦力運用の近代システムと戦闘の勝敗の因果理論は、戦争のメカニズムや安全保障政策、軍事ドクトリンの策定に深い示唆を与えています。軍事力とは何かという国際政治の根本的問題に対して、説得的な回答を導き出した『軍事力』は秀逸な研究書といえるでしょう。軍事研究そのものを忌避する日本の学術界では、こうした戦闘における軍事力の使用方法や役割を正面から民間の学者が研究して、その成果を世に問うことは、なかなかできないかもしれません。本書は、軍事力を研究テーマとして包摂するアメリカの政治学や国際関係論の懐の深さをわれわれに痛感させるものです。それでもビドゥル氏は、アメリカにおける戦争研究の欠陥について、上記書の結論でこんな不満をもらしています。

「戦争の原因は防止方法を見つける望みを託され集中的に研究されてきた。確かに、戦争の防止は死活的な問題であるが、全ての戦争を防止することはできない。戦争を防止できないところでは、勝つことが負けることより、とてつもなく重要である。勝利と敗北の違いは、自由と抑圧あるいは生きるか死ぬかそれ自体の違いを意味し得るのだ…政治学者は戦争それ自体を研究事象外として扱うことが多い。戦争の原因は政治的なものであり、したがって研究の正当な対象とみなされる一方で、戦争の行動と結果は除外されるのが大抵なのである」(同書、207ページ)。

本書に寄せた推薦文で、戦略研究の大御所であるリチャード・ベッツ氏(コロンビア大学)は、「非常に重要な問題に関して非常に驚くべき主張を裏づけており、このことは部分的には論争を呼ぶだろうが、批判者はこれを反駁するのに苦労するだろう」と評しています。その論争になりそうなところについて、わたしが気になった点をいくつか指摘したいと思います。なお、ビドゥル氏が行った統計的検定については、小浜祥子氏(北海道大学)が、批判的な書評を『国家学会雑誌』第122巻第9-10号、2009年に発表していますので、そちらに譲り、わたしは別の側面から批評することにします。

『軍事力』の最大の問題は、戦略レベルと戦術レベルの分析を混同していることにありそうです。ビドゥル氏の近代システムの理論は、独立変数が戦力運用であり、従属変数は戦闘の勝敗です。軍隊が近代システムの諸要因に沿って戦力を運用すれば、戦闘での勝利しやすくなるという因果関係です。他方、リアリズムの国力や戦力の優位理論や攻撃・防御理論は、概して、「戦闘」ではなく「戦争」の発生や帰結を従属変数としています。ビドゥル氏の理論と標準的なリアリズムの理論では、説明する事象である従属変数が異なるのです。にもかかわらず、かれはやや強引に異なる変数を同列に扱おうとしています。こうした理論的な非整合性は、研究から導かれる含意に矛盾をもたらします。ビドゥル氏が選択した「ミヒャエル作戦」と「グッドウッド作戦」は、作戦あるいは戦術レベルの交戦であり、その勝敗と、戦略レベルの戦争の勝敗は別のものだということです。両作戦において、ドイツ軍は勝利を収めていますが、ドイツそのものは戦争で敗北しています。にもかかわらず、戦術レベルの戦闘における勝敗の要因を戦争に当てはめるのは無理があります。これは、ある医者が「手術は成功したが患者は死んだ。だけど、手術は成功したのだから、その術式は別の患者にも行えるはずだ」といっているようなものでしょう。

ビドゥル氏による物量の優位理論や攻撃防御理論の反証も少し強引なところがあります。たとえば、かれの分析によれば、GNPで優る国家は、戦争で6割以上の勝利をおさめています。プロ野球やメジャーリーグでは、勝率が6割近い球団は、優勝争いをする上位に入ります。戦争の帰結には、さまざまな要因が影響することを考慮すれば、勝率6割は決して低い確率ではないでしょう。攻撃・防御バランスは、戦争の独立変数としては因果効果が弱いかもしれませんが、戦争のコストの低下という媒介変数の「拡大条件」として、国家の戦争へのインセンティヴを高める要因として作用するとも推論されます。わたしは自著『パワー・シフトと戦争』(東海大学出版会、2010年)において、こうしたロジックをいくつかの事例研究により検証したところ、その妥当性が確認されたと結論づけました。ビドゥル氏も「砂漠の嵐作戦」の分析で部分的に認めているように、軍事テクノロジーが、国家の軍事行動や戦争の成り行きに少なからぬ影響を与えていることは否定できないのでしょう。

学術書を価値を示す1つの重要な指標は、どれだけ多くの研究者が当該文献を参照したか、です。グーグル・スカラーでビドゥル氏の『軍事力』を検索すると、被引用回数は、なんと1130回と表示されました。この数値は、間違いなく世界トップクラスです。それだけ同書の学術的価値は高いということです。また、本書は、数々の賞を獲得しています。外交問題評議会の「アーサー・ロス賞」ハーバード大学の「ハンチントン賞」「クープマン賞」などです。戦略研究の主要学術誌である Journal of Strategic Studies, Vol. 28, No. 3, June 2005 では、本書に関するラウンドテーブルを設けて、エリオット・コーエン氏(ジョンズ・ホプキンス大学)やローレンス・フリードマン氏(キングス・カレッジ)といった錚々たる学者が、同書の書評を寄せています。『軍事力』の学術的貢献を高く評価してのことでしょう。本書は、中国語と韓国語にも翻訳されています。ビドゥル著『軍事力』が、戦略研究や安全保障研究さらには国際関係理論の研究を進めるうえで、欠かせない価値のある研究書であることは間違いなさそうです。

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「ミュンヘン宥和」の神話?

2022年01月12日 | 研究活動
1938年の「ミュンヘン宥和」の広く信じられている1つの教訓は、ヒトラーが助長して冒険的行動に走ったのは、チェンバレンがヒトラーの現状打破行動をミュンヘン会談で容認したからだというものです。すなわち、ヒトラーはイギリス(そしてフランス)は「弱腰」であり、不当な要求をつきつけても、それを受け入れるだろうと「学習」した結果、チェコスロバキア全土を占領するとともに、ポーランドに侵攻したというストーリーです。このロジックを裏づけるとされる1つの歴史証拠は、ヒトラーの「われわれの敵は虫けらだ。わたしはかれらをミュンヘンで見た」という発言です。はたしてヒトラーは、イギリスやフランスの指導者はあまりに優柔不断で臆病だから、ドイツに対して戦争で対抗することができないだろうと判断して、東欧へと勢力を拡大したのでしょうか。

この重要な難問に挑んだのが、以前のブログ記事で紹介したダリル・プレス氏(ダートマス大学)です。かれは自著『信ぴょう性の計算―どのように指導者は』軍事的威嚇を評価するのか―(コーネル大学出版局、2005年)の第2章「『宥和危機』―1938-39年におけるドイツによるイギリスとフランスの信ぴょう性の評価―」において、この問題を詳しく分析しています。上記の疑問に対するプレス氏の答えは「ノー」です。確かに、ヒトラーは英仏の軍事的威嚇を一貫して低く評価していましたが、その理由は、イギリスやフランスが、ドイツのラインラント進駐やオーストリア併合、ズデーデン地方の割譲において、実力で阻止しようとせず妥協を重ねたことから、英仏が弱腰であると判断してつけあがったわけではなく、バランス・オブ・パワーや利益の観点から、両国の脅しの信ぴょう性を判断して行動したということです。少し長くなりますが、かれの分析を以下に引用してみましょう。

「同盟国(英仏、引用者)の信ぴょう性についてのドイツの議論と行動は、ほとんど常にパワーと利益についてだった…イギリスやフランスの過去の行為やそれが示すところのイギリスとフランスの将来の行動についてではなかった…これらの議論において、ヒトラーは、これまでのイギリスやフランスの優柔不断さの例を指摘することで、かれの侵略的政策を支えることができたはずだが、かれはパワーと利益に議論の焦点を当てたのだ…ズデーデン危機の後でさえ、ヒトラーはイギリスとフランスの信ぴょう性を主にバランス・オブ・パワーに基礎をおいて評価しつづけた。1939年8月14日、ヒトラーは上級軍事顧問に会い、イギリスはポーランドを防衛するために戦うことはないと納得させた…ヒトラーはその理由をこう説明した。『イギリスは、大きくなり過ぎた自身の帝国ゆえに、過剰な重荷を背負っている…フランスは新兵の補充に事欠いており、装備が貧弱で、あまりに多くの植民地の負担がある…フランスとイギリスがとれる軍事的措置は何か。ジークフリート線への突入はあり得ない。ベルギーとオランダを通過する北方への展開は迅速な勝利をもたらさない。このどれもポーランドの助けにはならないだろう…これらすべての要因はイギリスやフランスが戦争を開始することへの反駁なのである』」(同書、69-71ページ)。

ヒトラーは、ドイツ参謀本部の上級将校たちとは異なり、イギリスやフランスの軍事力について、一貫して低く評価していました。たとえば、ミュンヘン危機において、ドイツの将軍たちは、ドイツのチェコスロバキアへの侵略がフランスとイギリスの軍事介入を招き、ドイツを敗北へと追い込むことを深く懸念していました。他方、ヒトラーはこうした見方に反対でした。ドイツはチェコスロバキアを一撃で倒して既成事実化するだろうから、こうした迅速な勝利は戦争の拡大を防ぐことになると、かれは考えていました。こうしたバランス・オブ・パワーの楽観的な計算こそが、ヒトラーを大胆な冒険的拡張行動に走らせたのです。要するに、抑止の威嚇の信ぴょう性は、相手国が過去に対決姿勢で臨んできたのか弱腰だったのかといった行動に対する評価ではなく、バランス・オブ・パワーの認識に左右されるということです。

それでは、ヒトラーの「虫けら」発言は、どのように解釈すればよいのでしょうか。歴史資料は複数の解釈ができるために、「動かぬ証拠」として扱うことは難しいものです。これはヒトラーがイギリスやフランスの指導者を見下していた証拠になるのかもしれませんが、プレス氏は、これは、かれの主張の中のささいな一部分にすぎないとみなしています。ヒトラーの「虫けら」発言は、ソ連の意図と行動を分析する議論の間に挟まれた、1つの文章に過ぎないということです(同書、73-74ページ)。他方、国際関係研究の重鎮であるアレキサンダー・ジョージ氏とドイツ政治外交史の第一人者であったゴードン・クレイグ氏は、『軍事力と現代外交』(有斐閣、1997年)において、イギリスやフランスの宥和政策がヒトラーを大胆にしたことを示唆しながら、「虫けら」発言に触れています(『軍事力と現代外交』84-85ページ)。確かに、イギリスとフランスの宥和的姿勢が、ヒトラーの行動に全く影響しなかったとは言えないでしょうが、因果効果の相対的な重みをつけるとすれば、バランス・オブ・パワーに分があるように、わたしは思います。

最後に、プレス氏の宥和政策に対する評価を紹介して、この記事を締めくくることにします。かれはこんな見解を述べています。

「もし引き下がったことがイギリスやフランスの信ぴょう性を傷つけていなかったとすると、宥和はナチス・ドイツとの取引にとって好ましい政策だったのだろうか。答えはノーである。宥和が同盟側の信ぴょう性を粉砕したわけではないが、それは恐ろしく高くついた。ドイツを宥和することは、国内の反対勢力に対するヒトラーの立場を強め、かれの政策はドイツを破滅的な戦争へと導くと予想した者たちの立場を弱めてしまった…さらに、宥和は、ドイツがパワーの頂点に達するまで戦争を引き延ばしてしまったことにより、高くついた。ズデーデン危機の間、1938年秋までならば、ドイツは連合国により打ち負すことができたであろう」(同書、77ページ)。

プレス氏の1つの目の論点は、ウィンストン・チャーチルがチェンバレン首相の対独宥和を批判した論拠に重なります(冨田浩司『危機の指導者チャーチル』新潮社、2011年、176ページ)。2つ目の論点については、先のブログ記事で紹介したユアン・コーン氏の「ミュンヘン危機」に関する反実仮想分析と部分的に一致するところがありそうです。いずれにしても、国際関係研究の主要ないくつかの分析は、1930年代におけるイギリスやフランスのドイツに対する宥和政策が間違いだったことを示唆しているといえそうです。

追記:ランドール・シュウェラー氏(オハイオ州立だ学)は、「ミュンヘンのアナロジー…は、それを採用する人を揶揄する意味で使われる。ミュンヘン会談と第二次世界大戦に関してナイーブだったというのが、その中心的な主張であるが、ヒトラーほど邪悪で宥和できないような指導者はほとんど存在しないため、過度に使用され不適切な例えになっている。こうして、このアナロジーは指導者をタカ派で過度な競争的政策へと誤導したり、そうした政策を正当化するために意図して使われて、大衆を誤解させるのだ」と注意を促しています。ジェフリー・レコード氏(航空戦大学)は、ヒトラーは歴史に類を見ない戦争に執着する抑止できない「外れ値」のような存在だったので、スターリンや毛沢東、サダム・フセインといった独裁者でさえ比較の対象にならず、国家安全保障の議論において、政策エリートは「ミュンヘンの教訓」を持ち出すのをやめるべきだと主張しています("Retiring Hitler and “Appeasement” from the National Security Debate." The US Army War College Quarterly: Parameters, Vol. 38, No. 2, Summer 2008, pp. 91-101)。

このような「ヒトラー例外説」は、デーヴィッド・ウェルチ氏(ウォータールー大学)もおおむね支持しています。かれは「ヒトラーは戦争を欲し、その見込みにスリルを見出し、リスクを取ることを楽しみ、そして明らかに侵攻と支配から大きな満足感を得ていた」と分析しています(『苦渋の選択―対外政策変更に関する理論』田所昌幸監訳、千倉書房、2016年〔原著2005年〕、97ページ)。歴史家のD.C.ワット氏も「彼(ヒトラー)を抑止できるものは何もなかった」と言っています(『第二次世界大戦はこうして始まった(下)』河出書房新社、1995年〔原著1989年〕427ページ)。このブログで以前に紹介したジョン・ミューラー氏(オハイオ州立大学)も、同じような見方をしています。

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歴史の教訓と反実仮想

2022年01月10日 | 研究活動
国家の指導者は、不確実性の高い国際政治の世界において、情報を取捨選択する基準として、歴史のアナロジーをしばしば用います。権力の座にある政策決定者は、現在に直面している状況と似ている参考になりそうな過去の歴史の出来事を探り当てて、そこから「教訓」となりそうな推論を引き出そうとします。そして、自分自身が類似すると判断した歴史事象から、反実仮想を行い、対外政策を打ち出すということです。現在において、歴史の教訓として、最も言及されるものの1つが「ミュンヘン宥和」でしょう。これは戦間期のヨーロッパにおける個別事象なのですが、「脅威と認識する国家には妥協してはいけない。そうした宥和は、相手に付け入るスキを与え、こうした国家をつけあがらせることにつながり、さらなる要求を助長するだけだ。相手国からの不当な要求は、最初から、断固として拒否しなければならない。対決的な姿勢こそが、戦争を避けるために必要なのだ」という「一般命題」として受け取られているようです。

「ミュンヘン宥和」とは、1938年9月、ナチス・ドイツのヒトラーがチェコスロバキアのズデーデン地方の併合を要求したことに対して、イギリスのチェンバレン首相(とフランスのダラディエ首相、イタリアのムッソリーニ)が、チェコスロバキア政府を説得して、ヒトラーの要求を呑んでしまったことです。この歴史の出来事は、後の指導者や政治コメンテーター、研究者などに、大きな影響を与えました。ここから1つの「歴史の教訓」が生まれました。イギリスがドイツのズデーデン地方の割譲を要求したことに対して、戦争のリスクを冒してでも拒否していれば、ドイツは引き下がらざるを得なかっただろうから、第二次世界大戦は防げたはずであるという推論です。

この仮説は正しいのでしょうか。起こらなかったことを論証するのは難しい作業ですが、歴史から「正しい教訓」を引き出すためには、「歴史のイフ」を問わなければなりません。すなわち、出来事を引き起こした前提が変化すれば、結果がどう変わったかを確定するということです。こうした研究のことを政治学では「反実仮想実験」といいます。反実仮想は、突拍子もない「歴史のイフ」を問うものではありません。反実仮想には、一定のルールがあります。その1つに、歴史の書き換えは最低限にすることがあります。たとえば、太平洋戦争において日本がF-35戦闘機を多数保有していれば、アメリカに勝利できたであろうといった反実仮想は成立しません。なぜならば、75年前に、日本陸海軍がステルス戦闘機を獲得できた可能性はゼロだからです。

それでは、1938年にイギリスがドイツに譲歩しなければ、歴史はどうなっていたのでしょうか。この難問に1つの解答を与えたのが、ユアン・フーン・コーン氏(シンガポール国立大学)です。かれは、今から4半世紀前に行われた「反実仮想研究」のプロジェクト(於カリフォルニア大学バークレー校)に参加して、上記の「歴史のイフ」に挑みました。こうした意欲的な研究を収めた貴重な文献が、フィリップ・テトロック、アーロン・ベルキン編『世界政治おける反実仮想実験(Counterfactual Thought Experiments in World Politics) 』(プリンストン大学出版局、1996年)です。このアンソロジーに、かれは「ヒトラーとの対決とその帰結」を寄稿しました。そこから導かれた結論は、今でもわれわれに大きな示唆を与えてくれます。かれは次のように主張しています。「もしイギリスがヒトラーに立ち向かっていたら、かれは引き下がり、そして第二次世界大戦は避けられただろうか?この問いに対する答えは、より不確かなものだ。対決はおそらくドイツから3つのうちの1つの反応を引き出したであろう。すなわち、ヒトラーが引き下がったこと、反ヒトラーのクーデターが起こったこと、戦争のいずれかだ…1938年におけるヒトラーとの対決は、1つのもっともらしい反実仮想である。ここから起こりそうな結果が示唆することは、宥和の結果と比べれば、これはマシな政策でもあっただろう」(同書、118ページ)。



チェンバレンは、ヒトラーを宥和しました。こうした戦争のリスクを避ける戦略をとった背景には、主に3つの要因がありました。第1に、イギリスの政治家のみならず国民には、第一次世界大戦の恐怖が強く残っていたことです。第2に、イギリスの軍備は、ドイツと対決するのに十分な戦力に達していませんでした。第3に、チェンバレンが外交を選好する強固な信念を持っていたことです。かれは、フランスは頼りなく、アメリカは孤立主義にあり、ソ連は信用できないと思っていました。これらが、イギリスにドイツに対して単独で立ち向かうことを忌避させたのです。そして、チェンバレンは誰よりも、宥和政策の必要性と効果を信じていました。かれはイギリスの権力のトップに君臨する政治家として、ドイツの拡張を抑止することより宥和することを選好したということです(同書、100-105ページ)。

当時、イギリスにはドイツに対して対決姿勢でのぞむべきだと考える政治家もいました。アンソニー・イーデン、ダフ・クーパー、そしてウィンストン・チャーチルです。ここで興味深い反実仮想が浮かびます。ミュンヘン宥和の前提を変えて、もし彼らのうち2人以上が1938年9月時点でチェンバレン政権の閣僚だったならば、ヒトラーに立ち向かった可能性はグンと上がるのです。こうした反実仮想は、最小限の歴史の書き換えという研究の方法論上の手続きに則ったものなので妥当だといえるでしょう。それでは、イギリスがナチスドイツに断固とした姿勢を示して、ズデーデン併合の要求を拒否したならば、どうなっていたでしょうか。通説は、イギリスに加えて、フランスやソ連もドイツに立ちむかったであろうから、ヒトラーは引き下がらざろう得なかったというものです。しかしながら、歴史証拠は別の展開も示唆しています。当時、ドイツは戦争を遂行する準備が十分にできていませんでしたので、軍の将校たちには、ヒトラーの強引な政策に反対する者もいました。ヒトラーが戦争を起こしたとしても、こうした反ヒトラーの勢力が、イギリスの対決姿勢に促され、かれを権力の座から引きずりおろして、和平に向かっただろうとのシナリオも考えられます(同書、105-114ページ)。

もう1つのシナリオは、1938年時点で、戦争は起こっていだろうというものです。チャーチルは、対独抑止が失敗した場合、戦争に突入する心構えでした。ヒトラーが抑止できたかどうかは、意見が分かれるところです。有力な1つの見方は、ヒトラーは交渉よりも戦争を選好していたので、抑止は効かなかったという推論です。ヒトラーは戦争をせずにミュンヘン協定を結んだことは間違いだったと悔いていたというのが、その根拠です。このことは、イギリスが威嚇すればドイツは戦争へと突き進んでいただろうとの結論に結びつきます。要するに、戦争は1938年9月時点で起こっていたということです。それでは実際に起こった1939年の戦争と起こったであろう1938年の戦争では、どちらが望ましい結果といえるでしょうか。前者のケースでは、イギリスがドイツ空軍の攻撃に対する防空能力を築く時間を稼げたぶん、その脆弱性は減少したといえます。他方、後者のケースでは、ドイツはイギリスに加えて、ポーランドより軍備で優るチェコスロバキアと戦うことになります。さらに、独ソ不可侵条約締結前ですので、ドイツはソ連の動向を心配するのみならず、西部方面でフランスと対決しなければなりません(同書、115-117ページ)。いずれにせよ、大規模な戦争になっていたと考えられます。

それでは、対決と宥和の相対的な政策の長所について、総合的には、どのような評価を下せるでしょうか。コーン氏による反実仮想を用いた「ミュンヘン危機」の分析は、以下のような結論に達します。

「最初の2つの結果、すなわちヒトラーが引き下がること、反ヒトラーのクーデターが起こることは、はるかに望ましいだろう…(1938年に起こったであろう戦争は)1939年に実際に宣言された戦争の軌跡とほぼ同じような成り行きになると考えるに十分だろう…われわれは興味深い結論にたどりつく。すなわち、対決は宥和より好ましかったであろうということだ。なぜならば、その最悪の結果は『1939年の成り行きより悪くはない』だろうからだ」(同書、117ページ)。

「ミュンヘン宥和」から歴史の教訓を引き出すということは、1つの事例から推論される因果メカニズムを他の事例に適用するということです。それでは、1938年の「ミュンヘン危機」の教訓は、どこまで一般化できるでしょうか。リアリズムのような構造的な一般理論に懐疑的なリチャード・ルボウ氏(キングス・カレッジ)は、理論的志向の研究者が陥りやすい、傾聴に値する「罠」を以下のように指摘しています。

「国際関係理論において、研究者は第一次世界大戦のような重要な事例をより広範囲で稀ではない出来事の集合を代表する事例だと黙って思い込む。この思い込みは、重要な原因を重要な出来事の属性とする認知バイアスを反映するものといえる」(Forbidden Fruit: Counterfactuals and International Relations, Princeton University Press, 2010, p. 18)

かれが警告していることには、理論家のみならず政策指向の評論家や政治指導者も耳を傾けるべきでしょう。特定の重要な歴史事象から抽出された仮定の原因は、結果を広く説明できるとは限らないということです。社会科学のジャーゴンを使って言い換えれば、戦争回避という従属変数(結果)は、対決という独立変数(原因)が引き起こすとは限らず、これらの変数間の因果関係は条件付きで成立するものにすぎないということでしょう。「ミュンヘン宥和」は重要な歴史の出来事ですが、この事例を使った反実仮想実験は、いくつかの研究スタイルのうちの「個別・具体的(idiographic)」なものに過ぎません(同書、7-8ページ)。この事例から引き出された因果的推論を現在世界における政策決定のガイダンスにするには、科学的方法のいくつかのステップを踏まなければなりません。この推論を反証可能な因果仮説として構築したうえで、その適用範囲を定めたり、仮説の先行条件や拡大条件を明確にするための検証を行なうことが第1歩です。こうした科学的な手続きを経なければ、この歴史の教訓が、どの政策課題にあてはまるのかは分かりません。

ザックリと結論めいたことをいえば、他の条件が等しければ(ceteris paribus)、抑止は「現状打破国」に勢力拡大行動を思いとどまらせる戦略として有効でしょう。しかしながら、現実世界では、こうした条件が整うことは滅多にありません。抑止は宥和より常に望ましい結果をもたらすとは限らないのです。相手国との対決を企図する抑止は国家の安全保障にとって万能な戦略ではなく、条件次第では、避けようとした結果を招く「自己敗北的予言」になったり、相手の武力行使を挑発したりすることもあります。たとえば、抑止の対象国が損失回避の高いインセンティヴを持っている場合、抑止の威嚇はかえって冒険的な行動を引き出しがちです(対日石油禁輸を受けての日本の真珠湾攻撃やキューバ危機におけるソ連の核ミサイル導入、第4次中東戦争におけるエジプトのイスラエルへの奇襲攻撃など)。反実仮想の判断は歴史からのいななる学習にとっても必要条件です。その一方で、個別具体的事例研究の反実仮想による抽象的な因果推論は、そのまま現実世界の事例に適用できないことをわれわれは心に留めるできべきでしょう。

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