野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

なぜ戦争の議論はかみ合わなくなるのか

2023年02月20日 | 研究活動
ロシアとウクライナの戦争は、さまざまな視点から論じられています。この戦争の原因について、リアリストの政治学者は、アメリカを中心とする西側がNATOを東方に拡大してウクライナを「事実上」のパートナー国にしようとしたことが、ロシアを存亡の危機に追いやったことを重視します。他方、中東欧を専門とする歴史学者は、ウクライナ属国化をもくろむプーチン大統領の現状打破的で収奪的な野心と攻撃性に注目します。

戦争の特徴についても意見が割れています。著名な政治学者や戦略研究者は、ロシアがウクライナに「予防戦争」を行ったと分析します。その一方で、歴史学者たちには、この戦争を「帝国主義的な植民地戦争」と位置づける傾向がみられます。このようにロシアのウクライナ侵攻は同一の出来事であるにもかかわらず、論者によって説明の仕方が対称的になり、水と油のように混ざり合えないです。では、何がこのような違いを生み出すのでしょうか。その答えは、国際関係研究における歴史学と政治学では、認識論と方法論が根本的に異なるからだということです。

戦争研究における歴史学と政治学
我が国の「国際政治学」では、政治学と歴史学が同じ学界で共存していますが、実は、両者は厳しい緊張関係にあります。政治学と歴史学は、戦争という同一のカテゴリーの事象を研究しますが、その分析や主張は、それぞれが依拠する方法が異なるので、必然的に対立するものになりがちなのです。とりわけ難しい問題は、戦争の責任追及や道徳的批判と原因の特定は、方法論上、それぞれ独立した作業になることが多く、必ずしも調和しないということです。こうした両学問の特徴を明らかにして架橋することを試みたのが、今から20年以上前にまとめられた『国際関係研究へのアプローチ—歴史学と政治学の対話―』です。


本書では、北米の著名な歴史学者と政治学者が、それぞれの学問的作法を解説するとともに、第二次世界大戦といった本質的に重要な事例について、自分たちの認識論や方法論から分析して、歩み寄れるところと相反するところを明らかにするユニークな試みを行っています。

国際関係研究への政治学と歴史学のアプローチについて、代表的な学者の見解を整理して紹介します。①政治外交史研究者による歴史の道徳的判断の擁護論、②因果推論を重視する政治学者の価値中立的説明の擁護、③ナチス・ドイツの戦争に対する歴史学者と政治学者の異なる議論の順番です

歴史学者による道徳的判断の擁護
国際関係研究において、多くの歴史学者は政治指導者の意図的な行為に注目します。その主な理由は、この分野の研究者が、多かれ少なかれ過去に起こった出来事の責任の所在や政策の道義的な妥当性に関心を抱いているからだと言われています。歴史学者に、ポール・シュローダー氏(イリノイ大学)は、歴史学者が負うべき道徳的義務を以下のように力説します。

「歴史を研究する仕事は…それ自体が本質的に道義を探究する行為なのであ(る)…歴史学が道義的判断を不可避的に下す…そのいかなる本質的部分であれ…価値中立的な言葉で語ることはできない…我々は、よい、わるい…などの形容詞を使わざるを得ない」(同書、286、293頁)。

シュローダー氏によれば、歴史を研究することと過去の出来事や政治行為に道徳的な判断を下すことは一体だということです。歴史学は、対象とする時代が長く、地域も広いので、彼が言う歴史の作法が全ての歴史学に当てはまるわけではないのでしょうが、近代の政治外交史の研究では、こうした道徳的な研究姿勢が顕著にみられます。たとえば、第二次世界大戦を引き起こしたナチス・ドイツの指導者であったアドルフ・ヒトラーの行動を「機会主義的」なものと説明するとともに、全ての戦争責任を彼に押しつけて断罪することを拒否したA. J. P. テイラー氏(オックスフォード大学)は、他の歴史学者から激しく批判されました(『第二次世界大戦の起源』講談社、2011年〔原書1964年〕参照)。ハリー・ヒンズリー氏(ケンブリッジ大学)は、テイラー氏のヒトラーの描き方を「得手勝手でぞんざいな態度」と罵倒に近い言葉を浴びせて、彼に「賛意を表すことに、歴史家は例外なく躊躇せざるを得ない」と強く批判しています(『権力と平和の模索』勁草書房、2015年〔原書1963年〕、500頁)。このように歴史学者は、概して過去を裁くことをよしとしてるのです。

政治学者は、道徳的判断からは一歩引くのがふつうです。すなわち、政治学の研究においては、政治指導者が倫理的に行動したかどうかは問わず、ある出来事を引き起こした原因を客観的かつ価値中立的に突き止めようとします。政治学者は、原因とみられる要因が道徳的であるかどうか、善であるか悪であるかは問題にしないということです。このことを政治学者のデーヴィッド・デスラー氏は以下のように述べています。

「通常(政治学の)一般理論は特定の歴史解釈よりも価値中立である…もしXが起こればYも起こる(という因果推論は)たとえ『X』が社会でどう評価されていようとも、『X』の価値に対しては中立の立場をとる。一般化によって生み出される知識とは、異なった立場の人々にも正当なものとして認識されうるものである」(同書、24頁)。

事象を引き起こす原因は、あくまでも客観的事実として存在するのであり、その責任や善悪を問うたところで、その因果関係は変わらないというのが、標準的な実証政治学者の認識論であり方法論なのです。

ナチス・ドイツと第二次世界大戦
認識論も方法論も異なる歴史学者と政治学者は、第二次大戦の論じ方も必然的に違います。歴史学者は、ナチス・ドイツやヒトラーの「罪」を道徳的に批判する一方で、政治学者はドイツを取り巻く国際構造の機会と制約に戦争を根本的な原因を求めます。ここでは何名かの歴史学者と政治学者の代表的研究を紹介します。歴史学者のガーハード・ワインバーグ氏(ノース・カロライナ大学)は、ナチスの「断罪」なき物語を否定します。

「ナチス・ドイツによるユダヤ人およびその他の望ましからぬ人間の大量虐殺に言及することなく第二次世界大戦の歴史を書くことはできない」(同書、15-16頁) 。

先述したシュローダー氏も、ドイツの戦争行為の価値中立で道徳的判断のない評価は歴史ではないと厳しく糾弾しています。

「客観的で道義がからまない基準を立てて、ドイツによる1939年のポーランド侵攻と1941年の対ソ攻撃を…評価するとしよう…前者が成功、後者が失敗だったということになる…この試みは道義に極めて無頓着であるばかりか非歴史的であり…人間が何を行い、何に苦しんだのかという、物語の核心への理解を阻害してしまう。これと同じ要領でホロコーストを分析してみるとよい。その結果は、全く非人間的で忌々しいものになる」(同書、287頁)。

では、政治学者は道徳的判断を行うことなく、どのようにドイツの侵略を論じるのでしょうか。ここではランドール・シュウェラー氏(オハイオ州立大学)の説明を紹介します。彼は、第二次世界大戦勃発時の国際構造が米ソ独の三極であったことに第二次大戦の「原因」を見るとともに、ヒトラーは戦争の必要条件でも十分条件でもないと分析しています。

「三極システム…は一触即発の危険をはらんで(いる)…ヴェルサイユ講和条約は、ドイツを『作り出された劣勢』の位置に置く危険な勢力不均衡を遺した…ドイツは、同じような客観的状況に置かれたらならばどの国もとったであろう行動をしたにすぎない『普通の』国であった…ヒトラーは…もともとおこる可能性が高い出来事をさらにおこりやすくした要因にすぎない…もしヒトラーがドイツではなくエクアドルの指導者であったなら、彼は第二次世界大戦を始めることはできなかったであろう…ヒトラーは決してこの戦争の十分条件とはなりえなかった…(三極)構造が(戦争を)起こ『り得る』条件をつくりだすと(政治学者は)見るのである」(同書、169- 172頁)。

要するに、第二次世界大戦の生起に関する因果関係は、三極構造→ヒトラーの気質→戦争となります。

1940年前後の世界はアメリカとソ連、そして台頭するドイツのパワーがほぼ等しい三極構造でした。アメリカは孤立主義の政策をとっており、ヨーロッパの国際政治には原則として関与しない方針を貫いていました。ソ連はドイツに対抗する責任をイギリスやフランスに転嫁していました。スターリンは、ドイツが西欧諸国と闘えば国力を消耗するので、ソ連は「漁夫の利」を得られると判断したのです。こうした三極構造に特有の大国の行動が、台頭するドイツにヨーロッパで覇権を得るチャンスを与えたのです。この機会をヒトラーは逃しませんでした。ヒトラーは、アメリカの不介入とソ連の責任転嫁行動が生み出したチャンスを活かして領土拡張戦争を行ったというのが、シュウェラー氏の戦争勃発の説明なのです。ここで原因と位置づけられる三極構造は、道徳や正義とは関係ない価値中立的な事実に過ぎません。

ウクライナ戦争に関する意見の対立
国際関係研究における歴史学と政治学の方法論の違いは、ウクライナ戦争の議論にも影響していると見てよさそうです。歴史学者のティモシー・スナイダー氏(イェール大学)は、ロシア侵攻を植民地獲得戦争とみなして、プーチンを道徳的に批判します。彼によれば、プーチンはウクライナを国家として認めておらず、また、ウクライナ人を実在する市民として認めていないからこそ、ロシア軍は一般市民への暴行や虐殺を行えると解釈されます。過去の植民地獲得戦争と同じように、ウクライナ戦争は、帝国主義的な修正主義国家が侵略を受ける国の存在を否定することが前提なので、ウクライナが生き残るにはロシアに勝利する以外に道はないとの結論になります。

また、スナイダー氏は、ロシア・ウクライナ戦争をプーチンの「悪行」と結びつけながら、マニ教的な「善悪の戦い」であると暗に示唆しています。

「プーチンという一人の指導者を中心としたカルト(訳注、人権侵害などの犯罪を冒す狂信的な反社会的宗教集団)がある。それは第二次世界大戦を中心に組織された死のカルトである。それは過去の帝国の偉大な黄金時代という神話を持っており、ウクライナに対する殺人的な戦争という、癒しの暴力によって回復されようとしている…ファシストの戦場での勝利は、力が正義であり、理性は敗者のものであり、民主主義は失敗しなければならないということを確かなものにしてしまう。ウクライナが抵抗しなければ、世界中の民主主義者にとって暗黒時代の始まりになっていただろう。ウクライナが勝利しなければ、何十年も暗闇が続くことが可能になるのだ」。

他方、政治学者のスティーヴン・ウォルト氏(ハーバード大学)らは、NATO拡大がロシアを存亡の危機に陥れたことに戦争の根本原因を見出します。彼によれば、この戦争はウクライナが西側の軌道に滑り込むのを止めるためにロシアが始めた予防戦争として最も理解できます。プーチンはウクライナを武装・訓練するアメリカ主導の努力により、モスクワがキーウ(キエフ)の地政学的連携を最終的に止められなくなると信じていたのです。プーチンはウクライナの喪失がロシアに与える危険を恐らく過大評価していたのだという結論になります。

ここでのウクライナ戦争の生起に関する因果プロセスは、バランス・オブ・パワーの極端な変化→プーチンのパラノイア→戦争となります。

第二次世界大戦勃発についてのシュウェラー氏の分析と同じく、ウォルト氏のウクライナ戦争発生の説明でも、NATO拡大による物質的パワー配分の変化という戦争原因は、客観的で価値中立的な事実なのです。

こうした戦争観の相違は、その出口についての議論にも深く影響します。歴史学者としてのスナイダー氏はウクライナがロシアに勝たなければならないと強く主張します。なぜならば、これは「帝国の時代」を終わらせる戦争でもあるからです。彼によれば、 ウクライナ戦争は別の国家や民族は存在しないという植民地獲得の論理で行われる最後の戦争になるかもしれないのであり、世界史の転機はロシアが負けて初めて訪れるのです。

興味深いことに、ロシアの侵攻は止まらないという主張は、我が国のコンストラクティヴィスト系の研究者にも見られます。東野篤子氏(筑波大学)は、ウクライナのロシアに対する徹底抗戦を擁護するとともに、こう言っています。「いろいろな方から『この戦争の落としどころは』と聞かれましたが、侵攻された側に対して落としどころを問うのは酷です。仮に、何らかの形でロシアが再び停戦を提案したとしても、それは未来永劫(えいごう)、戦闘をやめるという停戦ではないでしょう。一時的な停戦を利用して態勢を整え、さらに侵攻するための小休止に過ぎません」と、植民地獲得戦争と同じようなロジックと自身の心情を交えて、ウクライナ敗北の阻止を訴えています。

他方、政治学者としてのウォルト氏は、予防戦争の終結の落としどころが、ロシアとウクライナの双方の妥協にあると以下のように主張しています。

「この戦争は、主人公たちが当初の目的をすべて達成することはできず、理想的とはいえない結果を受け入れなければならないことを理解するまで、コストがかさむ膠着状態に陥る可能性が高い。ロシアは、ウクライナを従順な衛星国にすることはできないし、モスクワを中心とした『ユーラシア帝国』も手に入れられないだろう。ウクライナはクリミアを取り戻すことも、NATOに完全加盟をすることもできないだろう。アメリカは、他の国家をNATOに加盟させることをいつかは諦めなければならないだろう」。

政治学者のスティーヴン・ヴァン・エヴェラ氏(MIT)も同じような戦争の終結を主張しています。

「ウクライナはロシアとの戦争において、すでに最も重要な目的を達成した。戦闘を継続しても、ウクライナが得られるものはわずかであり、一方でウクライナとアメリカに高いコストを強いることになる…ウクライナはその成功を強固なものとし、不完全な条件で戦争を解決すべき時だ」。

彼らのような政治学者が、ウクライナとロシアの双方は妥協すべきと主張するのは、両国のパワー・バランスが戦争の終わり方を左右すると推論するからです。ロシアは戦争により相対的パワーを回復したい一方で、ウクライナは独立と主権を守るために抵抗しているのであれば、両者の目的達成の程度は、どちらかがどのくらい力を持っているかで決まらざるを得ない、ロシアもウクライナも決定的な勝利を収めるパワーに欠けているという、物質的なパワーからの客観的な分析です。

このように戦争の論じ方は、それが同じ出来事であっても、歴史学と政治学では異なるのです。言論の多様性は、こうした戦争への複数のアプローチを擁護します。異なる認識や方法から異なる主張が生まれるのは、当然の結果であり、論争が起こるのは健全なことなのです。

民主社会における多様な言論
国際関係研究における歴史学と政治学の認識論と方法論が違うことは、戦争に複数の言説をもたらします。このことをキチンと理解することは、誹謗中傷やレッテル貼りの不毛な議論を避け、建設的な討論を行うためには必須でしょう。私を含めたリアリストの政治学者は、「ロシアのプロパガンダ拡散者」であると誤解されます。これは政治学の因果推論の理解不足から生じています。

プーチンに近い主張をする人の類型としては、①ロシアに買収されてる人、②買収されていないがプーチンに影響された人、③買収も影響もされておらず、別経路の論理から結論に到達した人が考えられます。リアリストは、ほぼ全員が③でしょう。政治学の因果推論に基づく予防戦争の仮説がクレムリンの発信と一致するだけなのです。ですが、政治学の方法論を知らない多くの人たちには、①か②に見えてしまうのでしょう。

ウクライナ政府から「ロシアのプロパガンダ拡散者」と認定された、政治学者のジョン・ミアシャイマー氏(シカゴ大学)は、そうされた理由を以下のように推測しています。

「私は、ロシアがウクライナに侵攻したのは、アメリカとヨーロッパの同盟国が、ウクライナをロシア国境の西側の防波堤にすることを決定し、モスクワがこれを存亡の危機と考えたからであることは、入手した証拠から明らかである、と主張している。ウクライナの人々は、私の主張を否定し、代わりにウラジーミル・プーチンを非難する。プーチンは、ウクライナを征服し、より大きなロシアの一部とすることに固執していたと言われている。しかし、その主張を裏付ける公的な記録はなく、キーウと欧米の双方にとって大きな問題となっている。では、彼らは私にどう対処するのか。その答えはもちろん、そうではないのに、私をロシアのプロパガンダ拡散者とレッテルを貼ることだ」。

こうした不毛な糾弾は、終わりにしようではありませんか。この記事で取り上げた『国際関係研究へのアプローチ』の編集者であるコリン・エルマン氏(シラキュース大学)とミリアム・エルマン氏は夫婦の社会科学者であり、政治学と歴史学のすみ分けと関係をこう指摘しています。

「政治学者は歴史学者ではないし、またそうなるべきでもない。両分野の間には、埋められない認識上のまた方法論上の溝が存在する。しかしそうした違いを認め、お互いの特徴を維持し敬意を払うことは大切である」(同書、32頁)。

私はエルマン夫妻に完全に同意します。戦争の分析において、政治学者と歴史学者の意見が食い違うのは当たり前です。それを知ったうえで、両者がより正確な分析と理にかなった政策提言を競い合うことこそ、国際関係研究の望ましい姿ではないでしょうか。

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武器は戦争を生み出さない

2023年02月07日 | 研究活動
この記事のタイトルは、戦略研究者として高名なコリン・グレイ氏の1冊の著作から借用しました。私たちは、戦争で兵器が使われるので、それらを原因と結果で関連づけがちです。武器があるから戦争が起こる、だから武器をなくせば平和に近づくという論法です。残念ながら、これは間違っています。軍事力は国家の安全保障を強化することもあれば、損なうこともあります。軍備は国家を戦争へと導くこともあれば、戦争から守ることもあります。いずれにせよ、武器は戦争の根本原因ではないということです。

『武器は戦争を生み出さない』において、グレイ氏は、軍事力と政策や戦略、戦争との関係について示唆に富む重要な指摘をしています。第1に、軍備は政策によって形成される戦略により意味が与えられるということです。第2に、武器の調達プロセスには、明確な政策指針で支えられなければなりません。第3に、軍事技術は防衛政策に仕える1つの要因に過ぎないことです。グレイ氏は軍事テクノロジーが戦争を変えるという見方に批判的です。この点について、私は、軍事技術とくに攻撃・防御バランスが、国家の軍備増強の決定や戦争と平和において重要な役割を果たすと考えています。その理由は後ほど説明します。第4に、「軍拡競争」の概念は国際安全保障の研究に混乱をもたらすという少し挑発的な指摘です。これは的を射ていると思います。

政策の手段としての武器
グレイ氏の兵器のとらえ方は、カール・フォン・クラウゼビッツに由来する戦略の伝統的ロジックを基本的に受け継いでいます。クラウゼビッツは、戦争と政治の関係について、以下の有名な定義を披露しました。

「戦争は、政治的行為であるばかりでなく、政治の道具であり、彼我両国のあいだの政治交渉の継続であり、政治におけるとは異なる手段を用いてこの政治的交渉を遂行する行為である」(『戦争論(上)』岩波書店、1968年〔原著1832年〕)。

つまり、戦争で行使される軍事力は、あくまでも政治や政策の手段であるということです。逆ではありません。国家がどのような武器を製造・購入して運用するかは、政治によって決まるのです。グレイは時に「新クラウゼビッツ主義者」と呼ばれます。それは彼が兵器を政策に奉仕するものと位置づけているからでしょう。グレイ氏の戦略論については、彼の愛弟子である地政学者の奥山真司氏が、簡潔で要領を得た解説文を野中郁次郎編著『戦略論の名著』中央公論新社、2013年に寄稿しています。興味にある方は、こちらをお読みください。蛇足ですが、コリン・グレイ氏がお亡くなりになった時に、ロバート・ジャーヴィス氏が追悼文を書いています。グレイ氏とジャーヴィス氏は、核戦略について正反対の考え方を持っていました。グレイ氏は核戦争における勝利の追求を説く一方、ジャーヴィス氏は核兵器を実戦で使用できるものとして位置づけることに批判的でした。にもかかわらず、ジャーヴィス氏はグレイ氏の『武器は戦争を生み出さない』の裏表紙に推薦文を寄せただけでなく、彼の死を悼んでいるのです。大学者の懐の深さを感じます。



閑話休題

日本では、武器や兵器というとネガティヴなイメージで捉えられがちです。「軍備拡張競争」という言葉に、肯定的な印象を持つ人はほとんどいないのでしょう。軍拡を嫌悪した代表的な学者としては坂本義和氏(東京大学)が有名です。彼は軍事力の負の側面をこう強調しています。「世界の多くの国々が『国家の安全』の名に下に軍備増強を続けてきた。しかし、こうした軍備増強がかえって国家の安全を脅かすという、逆効果を生んできたことは明らかである」(『核時代の国際政治』岩波書店、1982年、203ページ)。同じような主張は現在でも繰り返されています。石田淳氏(東京大学)は、日本が反撃能力を保有することで「周辺国との緊張が激化して、さらに軍備競争が加速する『安全保障のジレンマ』から抜け出せなくなる」と発言しています。遠藤乾氏(東京大学)も似たようなことを言っています。日本が「攻撃力を持てば、相手はそれを上回る攻撃力を持つエスカレーション(事態の深刻化)の階段を上り、際限のない軍拡を誘発する。相手を脅して抑止するというのは幻想だ」ということです。ここにクラウゼビッツやグレイ氏のような戦略的着想はほとんどありません。坂本氏や石田氏、遠藤氏の発想は、政治指導者が武器を政策の手段としてコントロールするのではなく、軍備が政治をハイジャックして、国家の安全を脅かすという、伝統的な戦略論とは真逆なものです。どうやら、軍備拡張競争は危ないという主張は、東大の「学者」のお家芸のようです。

こうした軍備を徹頭徹尾否定する議論からは、国家の安全保障のために武力を効率的かつ有効的に用いるための研究や教育などは生まれないでしょう。世界から武器がなくなるのであれば、坂本氏や石田氏、遠藤氏のような主張によって、クラウゼビッツの戦略論を葬り去れるのかもしれませんが、国家に公的な安全を提供できないアナーキー(無政府状態)が世界で続く限り、国家は軍事力を保持して、自分の安全を自分で確保しなければなりません。リアリストのケネス・ウォルツ氏が言うように、「軍事力の脅威によって軍事力の使用を阻止すること、軍事力で軍事力に対抗すること、軍事力の脅威もしくは使用によって国家の政策に影響を与えること、これらが安全保障問題においてこれまでもっとも重要な支配的手段だったのであり、これからもそうあり続ける」ということです(『国際政治の理論』勁草書房、2010年〔原著1979年〕、278ページ)。

国家が安全保障のために軍備を上手く利用するという考えは、「軍事科学(Military Science)」の発展を促しました。戦争や軍事に対して科学的にアプローチすることは、アメリカでは盛んであり、その結果、目覚ましい学術的成果が生み出されています。たとえば、マイケル・オハンロン氏(ブルッキングス研究所)による著書『戦争の科学(The Science of War)』(プリンストン大学出版局、2009年)があります。本書は、大学の学部生や大学院生向けに書かれた教科書です。ここで彼は、巨大で複雑なアメリカの軍事組織をどのように扱えばよいかを解説しています。国防の専門家は、いかに軍事予算を使い、優れた戦術を選び、資源を効率よく軍事組織に投入すれば、アメリカの安全保障を確かなものにできるのかを知らなければならないのです。このような内容の書籍が、日本の大手の大学出版会から刊行されるなど、われわれは全く想像できません。軍事研究における日米の差は太平洋より開いています。

軍備競争と安全保障
複数の国家が安全保障を求めて軍事力を増強すれば、軍備拡張競争が必然的に起こります。軍拡は国家の安全保障ひいては戦争と平和を促進する場合と、阻害する場合があります。それでは、どのような条件の時に、軍備拡張は国家の安全保障に寄与するのでしょうか。どのような条件では、国家の安全保障を損ない、ひいては戦争の可能性を高めてしまうのでしょうか。この難問に挑んで1つの回答を提出したのが、防御的リアリストのチャールズ・グレーザー氏(ジョージ・ワシントン大学)です。

彼の主張は、ザックリ言うと次の通りです。防御が攻撃より優位性を持つ場合、軍拡は危険ではありません。アメリカが核兵器による確証破壊能力を持ったことは、その安全保障を高めると共に、米ソ関係に「長い平和」をもたらしました。逆に、攻撃が防御より優位性を持つ場合、軍拡は危険です。アメリカは核弾頭の複数個別誘導弾(MIRV)化を進めて、ソ連の核兵器庫を攻撃できる対兵力戦略を構築しようとしました。アメリカがこの軍事技術を完全に習得できれば、ソ連の多くの核兵器を先制攻撃で破壊できてしまいます。つまり、アメリカはソ連に対して核攻撃で優位に立てるということです。これは核危機において、ソ連が自らの核兵器をアメリカからの先制攻撃で失う前に使用するインセンティヴを高めることにつながります。その結果、アメリカは避けようとしている核戦争をかえって招いてしまうことになりかねず、そうなると自国の安全保障を決定的に損なうことになります。ですので、攻撃を有利にする軍備拡張は避けるべきなのです。

攻撃優位の安全保障環境では、軍備管理や軍縮が国家安全保障や戦争防止に有効です。例えば、ICBM(大陸間弾道ミサイル)の弾頭のMIRV化を禁止したSTARTⅡ(第二次戦略兵器削減条約)や、相手の核ミサイルを破壊する迎撃ミサイルの配備を原則として禁止して、相互確証破壊 (MAD: Mutual Assured Destruction) の状態を安定化させるABM条約で軍拡を止めることが、アメリカにとってもソ連にとっても最適解となります。なぜならば、米ソともに先制核攻撃から生き残った第二撃能力で、相手に耐え難い損害を与えられるので、報復を招く攻撃のインセンティヴを持たないからです。その結果、米ソは全面戦争を避けるようになり、国家安全保障のみならず平和が達成されるのです。要するに、攻撃・防御バランスといった要因から構成される国際安全保障環境が、国家にとっての軍備拡張競争の危険性を左右するということです。

防御を有利にした核兵器
核兵器は安全保障環境を防御有利にしました。こうした評価は、ジャーヴィス氏といったアメリカの多くの政治学者が共有しています。ところが、我が国では「核兵器がある世界は平和ではない」というフレーズが広く浸透しているので、核兵器が国家を安全にしたり平和に貢献したりするという考えには、にわかに同意できない人が多いでしょう。直感的には、地球全体を破壊できる核兵器は恐ろしいものであり、平和に反する不必要で有害な武器だから廃絶しなければならいと思いがちです。しかしながら、熟慮を働かせれば、違う見方ができるでしょう。核兵器が戦争のコストを極大化したことは、核武装国間での武力による相手への攻撃をあまりに高くつくものにしたのです。この点について、グレーザー氏は以下のように主張しています。

「核兵器は、防御上の優位性を高める革命を起こしたのである。核の文脈では、報復による抑止が防衛の機能的等価物である。冷戦時代、米ソ両国は、大規模な報復的損害を与えることができる核戦力を、それを弱体化させるために必要な戦力のコストよりも大幅に安く構築することができた。したがって、報復能力が有効な抑止力であると仮定すれば、核兵器は防御に大きな利点をもたらす」(Rational Theory of International Politics, p. 258),。



これが国際関係研究で有名な「核革命論」の基本的な概念です。核兵器は防御を有利にした結果、それを保有する国家に究極の安全保障を与えたのです。ところが、軍拡の批判派は、これを拒否します。坂本義和氏は「『核抑止』といった方法を選択することの結果、本来『安全』のためであったはずの政策が、かえって安全を脅かすことになる…この『抑止』の悪循環から激しい核軍拡競争が惹起・加速される」と言うのです(前掲書、212ページ)。他方、核革命論を擁護するグレイザー氏は「防御の明確な優位性を考えれば、核軍拡競争は、超大国が一度強力な確証破壊能力を配備すれば尽き果てるのだ」と述べています (Ibid., p. 259)。はたして、どちらが正しいのでしょうか。


「平和拠点ひろしま」より(https://hiroshimaforpeace.com/nuclearweapon2020/)

引用したグラフは、世界の核兵器数を時系列で示したものです。このデータから分かることは、第1に、核軍拡競争は核武装国間の大規模な戦争を引き起こさなかったということです。戦争の軍拡競争説によれば、複数の国家による軍備の強化は平和や安全を破壊するはずです。しかしながら、米ソは、これだけ激しい核軍拡競争に従事したにもかかわらず、結局、相手を軍事力で攻撃しませんでした。第2に、核軍拡競争は「へばる」ということです。確かに、アメリカとソ連は、より確実な安全保障を求めて核兵器の増強を行いましたが、核革命は第二撃能力(確証報復能力)を維持できれば、それ以上の核戦力が不要であることを核武装国の指導者に教えたのです。その結果、冷戦の終焉を境にして、米ロは大幅な核軍縮を実行しました。国家が一度適切な防御体制を構築できれば軍拡は不要です。それでも軍事力の強化を続けてしまうと、自国が攻撃的であるというシグナルを関係国に送ることになり、不要な対抗措置を招きかねません。その結果、自らの安全保障のためには逆効果になります。

軍拡が必要な時
グレーザー氏の軍備拡張の「戦略的選択理論」が優れているのは、国家が軍備を増強すべき条件を明確にしていることです。こうした発想は、軍拡絶対悪説からはでてきません。

第1の条件は、安全保障環境が攻撃の優位性に傾いている場合です。このような環境では、あらゆる国家が軍備拡張競争に参加せざるを得ません。なぜならば、軍備を強化しない国家は、敵国からの攻撃により脆くなるからです。このことを彼は次のように説明しています。「攻撃と防御のバランスが攻撃に転じると、すべての国が軍備増強に踏み切らざるを得なくなる一方で、攻撃を阻止する能力は低下し、(戦争の)危険な窓ができる確率が高まる。軍拡競争に参加しないことは、競争することより安全保障を低下させ、多くの場合、高い確率で戦争を引き起こすことになる」(Ibid., p. 232)。これは国際政治の最も悲劇的な状況です。

第一次世界大戦が勃発する頃、ヨーロッパ主要国は「攻撃崇拝」でした。フランスとロシアに挟まれたドイツは、陸軍力の強化と攻撃的な「シュリーフェン計画」を採用しました。この計画では、ドイツ軍はフランスを迅速に撃破してロシアを迎え撃つことになっており、かなり無理な軍事戦略でした。グレーザー氏によれば、これはドイツにとって最適の選択ではありませんでした。もしドイツが「防御的ドクトリンをとれば、より大規模な軍隊はフランスの攻撃からの防御には不要であり、ドイツ軍のより多くの割合を東方の防御に回すことができ、ロシア軍の継続的な改善はそれほど危険ではなかったであろう」ということです (Ibid., p. 247) 。ドイツは、第一次大戦の攻撃有利の安全保障環境に軍拡で適応したのですが、肝心な軍事戦略で失敗してしまったということです。

第2の条件は、収奪的な現状打破国が軍備拡張を行いそうな場合です。こうした状況において軍事力の増強を自制することは、国家の安全保障を損ないます。「もし敵国が軍備を増強することが事実上確実であれば、国家は軍拡競争に一歩遅れをとる危険性を受け入れる理由はほとんどない。敵国の動機は重要な変数である。貪欲な国家は軍事的優位に大きな価値を置くため、それを獲得するために大きなリスクを冒すことを厭わないであろう」ということです (Ibid., p. 236) 。1930年代に日本は帝国海軍を大幅に強化しました。アメリカの政策立案者は、日本の目指すところが東アジアの支配という野心的なものであることに気づいていましたが、本格的な海軍力の強化に乗り出したのは1940年になってからでした。これは遅すぎる軍拡でした。日本は、太平洋における圧倒的な海軍力の劣勢に直面する前に、米国を攻撃しなければならないという圧力にさらされて、機会の窓が閉ざされる事態に直面した結果、対米開戦に踏み切ったのです。要するに、アメリカは海軍力の拡張をすべき時にしなかったので、この選択は最適以下の失敗ということです。

政治学者のアレキサンダー・ジョージ氏と外交史家のゴードン・クレイグ氏は、軍事力と外交について、次のように述べています。「歴史を通じてそうであったように、特定の状況下である種の敵に対しては、軍事力は必要な政策手段であり続けている。とりわけ、外交努力が適当でないかうまくいかない時にはそうである」(『軍事力と現代外交(原書第4版)』有斐閣、2009年、319ページ)。その通りでしょう。国家は安全保障環境が軍拡を不必要としているときに軍事力を強化すれば、かえって自らの生存を危険にします。逆に、危険な安全保障環境が国家に軍拡を促しているときに自制してしまうと、生き残りを危うくすると共に、避けられた戦争を招きかねません。軍拡競争は戦争と相関していますが、戦争を引き起こすものではありません。むしろ、国家の行動を方向づける安全保障環境こそが軍拡競争を引き起こし、ひいては戦争を引き起こすのです。

現在の日本は、貪欲的な現状打破国である中国と対峙しています。中国は急激な経済成長で獲得した資源を軍事力に投じて、アメリカと対等な競争ができる大国になりました。中国の国防費は、今や日本の防衛費の約6倍です。日本が、太平洋方面に勢力を拡張しようとしている中国との軍拡競争に一歩遅れをとる危険性を受け入れる理由はありません。東アジアの危険な安全保障環境は、日本に防衛力を強化する選択を求めているのです。武器は戦争を引き起こすから、軍備拡張は絶対悪であるという識者の一面的な偏見は、日本が必要とする軍事力の強化を妨げる結果、その安全保障を低下させるだけでなく、避けられる戦争さえ招きかねません。軍備競争に関する政治研究の成果は、そうした愚かな選択をしないよう、われわれを戒めています。

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軍備拡張は戦争の原因なのか

2023年02月06日 | 研究活動
軍備と戦争は切っても切れない関係にあります。我々は、それらをどう考えたらよいのでしょうか。戦争とは、国家と国家が軍事力を行使して衝突する事象です。国家は戦争では武器を使って勝利を目指します。国家は、その軍事力が強ければ、戦争で勝ちやすくなる反面、弱ければ負けて悲惨な結末を迎えることになりがちです。ですから、政策立案者は戦争の勝利を目指して、競争相手国より強力な軍備で自らの主権や独立を維持する意欲を持ちます。国家が生存する限り、武力と縁を切ることはないでしょう。

カルタゴの悲劇
戦争に敗れて破滅した国家の例として、「カルタゴの悲劇」がよく引かれます。カルタゴは、紀元前に北アフリカのチュニジアあたりで栄えた国家でした。カルタゴはローマと3回にわたり戦いました。この戦争を「ポエニ戦役」と言います。カルタゴは名将ハンニバルに率いられた精強な軍隊でローマ軍を苦しめましたが、第3次ポエニ戦役で敗北した結果、滅ぼされてしまいました。紀元前146年、スキピオ・アエミリアヌスの軍勢に襲撃されたカルタゴは、完全に破壊されたのです。この戦争でカルタゴ住民の10分の9が戦死や病死、餓死しました。生存した女性や子供は奴隷として売られてしまいました(ジョージ・コーン『世界戦争事典』河出書房新社、1998年、465頁)。こうした悲劇から逃れるために、国家はほとんど例外なく軍備を増強しようとするのです。

世界政府が存在しない状況すなわち国際的アナーキーにおいて、主権国家には公的な安全が提供されません。身に危険が及びそうな時に、通報すれば助けてくれる国際110番はありません。アナーキーでは自力救済が国家行動の基本原則になります。ですので、主権国家は自衛のために武力を持つことが正当と認められるのです。

戦争は国家間の利害対立が、平和的に解決できない時に起こります。戦争はコストがかかる行為なので、国家は対立をバーゲニングにより解決した方が得です。国家間に配分されたパワーにしたがい、強い国家はそれに応じて取り分を得る一方で、弱い国家は妥協や譲歩をするということです。しかしながら、戦争は不確実性が高い行為であるために、国家はときに楽観的になって戦争を始めたり、支配される恐怖に駆られてリスクの高い戦争にしばしば及んだりします。国家にとって戦争の危険はリアルなので、政治指導者は、どの国が台頭しているのか、どの国が衰退しているのか、自分はどの立ち位置にあるのか、深く注意を払っています。そして、戦争の脅威にさらされる国家は、攻撃されることを抑止したり、他国からの侵略から防衛したりするために、ライバル国より強力な軍事力を持とうと競い合います。この相互作用こそが、軍備拡張(軍拡)競争に他なりません。

軍拡と戦争
戦争が起こる前には、国家はほとんど必ず軍備を強化します。なぜなら、国家は勝とうとして戦争を始めるからです。こうした軍事力の強化は、戦争と深く結びついているように見えます。人間の脳は、複数の要因を結びつけることは得意ですが、それらを結びつけないことは苦手としています。ノーベル経済学賞受賞者のダニエル・カーネマン氏が言うように、「私たちにはパターンを探そうとする傾向があり、世界には一貫性があると信じている…実際には因果関係が存在しなくても、原因と結果を仕立て上げるのも得意技である」ということです(ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー(上)』早川書房、2014年、194、205頁)。こうした直観的思考は、認知心理学では「システム1」と言います。このシステム1は、我々に軍備拡張が戦争を引き起こしていると告げるのです。

軍拡戦争原因論を唱えた著名な評論家として、加藤周一氏がいます。かれはこう主張しています。

「戦争の準備をすれば、戦争になる確率が大きい。もし平和を望むなら戦争を準備せよじゃない。平和を望むならば、平和を準備した方がいい。戦争を準備しないほうがいいです。準備は容易に本当の戦争の方へ近づいていく。非常に早く強く」。

要するに、加藤氏は、国家が軍備を強化すれば戦争を引き起こす、国家が軍備を備えなければ戦争は起こらないということです。確かに、戦争の前には必ずと言ってよいほど、対立する国家間で軍備拡張競争が発生します。よって、軍拡競争が戦争を招いていると考えても、人間の認知機能の「システム1」から判断するのであれば、決して不思議なことではありません。

ところが、こうしたもっともらしい「俗説」に強い異議を唱える政治学者がいます。ブルース・ブエノ・デ・メスキータ氏(ニューヨーク大学)です。彼は計量アプローチによる政治研究を得意としており、戦争メカニズムの解明や政治指導者の行動分析で世界中の学者から注目されてきました。人間の脳機能には、先に述べた直観による判断の「システム1」の他に、熟慮する「システム2」があります。ブエノ・デ・メスキータ氏は、この「システム2」を使って軍拡と戦争を考えると、「俗説」がおかしいことに気づくはずだと以下のように述べています。少し長い引用になりますが、お付き合いください。

「軍拡競争が戦争を引き起こす、と多くの者が信じている…ある国家が軍備を増強すれば、その敵対国は安全を脅かされたと恐れる。そこで、国防のため、自らを護ろうとする。こうして軍拡競争は最終的に、とてつもなく過剰な殺人、破壊力を生み出すことになる。アメリカとソ連の核兵器で地球を何度、破壊できるか、思い出してほしい!そこで、兵器レベルが国防の域を大きく超えてしまい、手に負えない状態になり、戦争がはじまる」(『ゲーム理論で不幸な未来が変わる!』徳間書店、2010年、74ページ)。



これがよくある軍拡が戦争を引き起こす推論のパターンでしょう。彼は続けて、こう読者に訴えます。

「ちょっとまった、落ち着いて、よく考えてみよう。この論法だと、つまるところ、戦争をした場合の代償がとてつもなく高くなっているときに、戦争が起こりやすくなる、ということになる。これはおかしい。人間はふつう高いものはあまり買わない、というのが常識であり経済学の基本である。その逆ではないのだ。戦争だけ逆ということはないだろう。たしかに、戦争が起こる場合、ほぼ例外なく、その前に軍備の増強がおこなわれる。だが、これはいま話している軍拡競争の問題とは関係ない…わたしたちがいま知りたいのは、戦争の前に兵器が購入されることはよくあるのかということではなく、兵器の大量獲得が戦争の原因となることはよくあるのか、ということである。そして、それへの答えは『めったにない』だ」(同書、74ー75ページ)。

つまり、軍拡と戦争はほとんどのケースで因果関係(軍拡=原因、戦争=結果)にないということです。そうではなく、たいてい両者は相関関係(軍拡⇔戦争)なのです。

戦争と損得勘定
大半の戦略研究者が同意するように、戦争は国家の指導者が合理的に行動した結果として起こると説明できます。ブエノ・デ・メスキータ氏は、戦争研究で頻繁に引用される高著『戦争の罠(The War Trap)』(イェール大学出版局、1981年)において、ウィーン会議以降の58回の国家間戦争では、戦闘を開始した国が42回の勝利を収めていると述べています(同書、21-22ページ)。エヴァン・ルアード氏(オックスフォード大学)は、1400年以後の戦争を社会学の視点から総合的に研究した著作『国際社会における戦争―国際社会学の研究―(War in International Society)』(イェール大学出版局、1986年)において、「開戦国が戦争に負けた、いかなる場合でも、そこには誤算があった。(開戦国は)勝利するだろうと考えたから戦争を始めたのだ」と断言しています(同書、232ページ)。これらのデータは、誤算はあれども、戦争は国家による合理的決定の産物であることを支持しています。

こうした戦争研究は、戦争が起こりやすい条件と起こりにくい条件を明確にしてくれます。すなわち、戦争は、国家にとって、そのコストが高くなればなるほど生起しにくくなる反面、そのコストが低くなればなるほど発生しやすくなるのです。それでは軍備拡張競争は、戦争のコストを上昇させるのでしょうか、それとも減少させるのでしょうか。答えは自明です。軍拡は戦争を高くつくものにするのです。そうであれば、我々の直観に反して、軍拡は戦争を起こしにくくする反面、軍縮は戦争を起こしやすくすると論理的に推論できるのです。このことをブエノ・デ・メスキータ氏は以下のように説明しています。

「これまでの戦争に目をやり、その前に軍拡競争があったのではないかと問うのは、原因と結果を混同しているということになる。予想される破壊があまりにも大きいという、まさにその理由だけで、戦争が回避されることもあるのだ、軍備が戦争を抑止するということである。その例はたくさんあるのに、わたしたちはついそれを無視してしまう。大戦争がまれなのは、戦争があまりにも高くつくとき、わたしたちは妥協する道を探すからである。だから、たとえば、1962年のキューバ・ミサイル危機は平和裏に幕を閉じた。冷戦期間中の米ソ間の大きな危機がことごとく、武力戦にいたらずに終わったのも、同じ理由からだ…したがって、とくに平和時には、因果関係の逆転がよく起こる。政策決定者たちが、世界をより平和にしようと、熱心に軍縮交渉に取り組むというのは、彼らが気づいているよりもずっと大きなリスクを抱え込むことなのである」(同書、75-76ページ)。

我々の認知メカニズムには厄介なものがあります。それは「講釈の誤り」(ニコラス・タレブ氏)や「確証バイアス」と呼ばれる、過去の出来事を解明しようとする際に冒しがちな過ちです。このことをカーネマン氏は、こう指摘しています。「起こらなかった無数の事象よりも、たまたま起きた衝撃的な事象に注意を向ける…目立つ出来事は、因果関係をでっちあげる後講釈の題材になりやすい…人間の脳は、平凡な出来事、目立たない出来事は見落とすようにできている」と(『ファスト&スロー(上)』349、351ページ)。だから、我々は大戦争になった数少ない事象は強烈に認識する一方で、戦争にならなかった数多くの対立や危機は見過ごしてしまうのです。そして軍拡の後に起こった戦争の強い印象から、両者の間に因果関係を作り上げる反面、軍拡があったにもかかわらず戦争にならなかった現象を見逃すのです。

吠えなかった犬
アーサー・コナン・ドイル氏の推理小説に登場するシャーロック・ホームズの「吠えなかった犬の推理」は、ご存じの方も多いでしょう。名馬である白銀号が失踪するという事件の解明を依頼されたホームズは、ある起こらなかったことに着目して、犯人を突き止めます。それは事件があった夜に、番犬が吠えなかったことでした。不審者が忍び込めば番犬は吠えるはずなのに吠えなかったということは、犯人は顔見知りの人間であるということです。これと同じような「推理」は、戦争の原因を推論する際にも役に立ちます。戦争が起こってもおかしくないのに、起こらなかった事例を調べると、その原因が見えてくるのです。

軍備競争が戦争の原因ならば、米ソが激しく争っていた冷戦期に、何度も大きな戦争が発生していたでしょう。しかしながら、近代国際政治において最も激しい軍備拡張競争を行ったアメリカとソ連は、ただの一度も戦火を交えていないのです。冷戦史の大家であるジョン・ルイス・ギャディス氏(イェール大学)は、歴史の反実仮想を用いて、以下のように分析しています。

「1945年以降の超大国の政治家が、それ以前の政治家に比べて、互いに戦争の危険を冒すことにとりわけ慎重であることは認めなければならない、この点を検討するには、1945年以降の米ソ関係における危機のリストを一瞥すればよい。イラン(1946年)、ギリシャ(1947年)、ベルリンとチェコスロバキア(1948年)、朝鮮(1950年)、東ベルリン暴動(1953年)、ハンガリー動乱(1956年)、二度目のベルリン危機(1958~59年)、U-2機撃墜事件(1960年)、三度目のベルリン危機(1961年)、キューバ・ミサイル危機(1962年)、チェコスロバキア(1968年)、ヨム・キプール戦争(1973年)、アフガニスタン(1979年)、ポーランド(1981年)、大韓航空機撃墜事件(1983年)——どれほど多くの危機が米ソ関係に振りかかったことか、これが他の時代、他の敵対国間のことであれば、遅かれ早かれ戦争になっていたであろう」(『ロング・ピース』芦書房、2002年〔原著1987年〕、395-396ページ)。

これらの危機や事件が戦争にならなかったのは、偶然にしては、その数が多すぎます。それでは、冷戦期の米ソの指導者が特別に平和愛好者だったのでしょうか。この仮説を裏づける歴史証拠は1つもありませんし、そのように考えるのはあまりにナイーブでしょう。要するに、米ソは強力な核兵器という軍備を持ってしまったために、それが使用される戦争はあまりに高くつくので、できなくなったということです。この記事を読んで、イランやギリシャといった事例は、ソ連が核実験をする前のことではないかと反論される方がおられるかもしれません。確かに、アメリカは核兵器を独占していた時に、ソ連の核保有を阻止する軍事オプションを検討しました。しかしながら、ワシントンの結論は、ソ連の核施設を攻撃することは、同国と全面戦争することを覚悟しなければならないために、あまりにリスクとコストが高すぎて、実行できないということでした(Alexandre Debs and Nuno P. Monteiro, Nuclear Politics: The Strategic Causes of Proliferation, Cambridge University Press, 2016参照)。国家間の軍備拡張競争は、たいてい戦争の原因ではなく、むしろ戦争を抑制する効果があるのです。なお、軍拡と戦争の関係については、21世紀に入り、政治学者による研究が進んだことにより、軍拡が国家の安全保障にとって最適であるケースとそうでないケースが明らかにされてきました。これについては、あらためて別の機会に解説します。

戦争原因論の古典的著作
を執筆したジェフリー・ブレイニー氏は、国家の指導者に戦争への楽観主義を戒めるものが平和の原因になると喝破しました。敵国が武力を強化していることを見た政治家は、戦争をしても簡単には勝てないだろうと判断するでしょう。このように軍備拡張は現状打破国に戦争を思いとどまらせるよう作用するのです。この記事の最初の方で引用した加藤氏の発言は、他の条件が等しければ、「戦争の準備をすれば、戦争になる確率が低い。もし平和を望むなら戦争を準備せよ」と言い換えなければならないでしょう。ラテン語の格言「汝平和を欲せば、戦争に備えよ」は、政治学の主要な戦争研究に裏づけられるものなのです。

                                                                               

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