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ウクライナ戦争の倫理的判断を問う

2023年09月28日 | 研究活動
政治学者のスティーヴン・ウォルト氏(ハーバード大学)がアメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』に寄稿した記事「ウクライナ戦争をめぐる倫理は、とても陰鬱なものである」は波紋を広げています。彼は、リアリストが伝統的に重視する「結果(責任)倫理」の基準から、今や「通説」として定着しつつある「ウクライナ軍によるロシア軍への反攻は正しい」という言説をこう批判しました。

「もし友人が何か不用心なことや危険だと思うことをしようとする場合、その友人がどんなに強い意志を持っているとしても、あなたには、その努力を助ける道徳的義務はない。それどころか、彼らが望んだとおりに行動するのを手助けし、その結果が悲惨なものである場合、あなたは道徳的にとがめられることになる。

強硬派には、戦争に対する彼らの妥協なきアプローチが、長期的にはウクライナにより甚大な害を及ぼしうることを認めてほしい。それは強硬派が望んでいるからではなく、彼らの政策提言が生み出すものであるかもしれない。プーチンには戦争を始めた責任が…ある一方、この悲劇の責任の一端は、(NATO拡大などの)自分たちの政策がどのような事態を招くかについての以前の警告をすべて拒否した西側諸国の人々にもある。

同じような人々の多くが、戦争を継続し、賭け金を高めて、西側の支援を強化するよう声高に訴えていることを考えれば、彼らの助言がウクライナにとって過去と同じように今日も害を及ぼすかどうか、疑問に思うのは当然だろう」。

ここでウォルト氏が主張したいことのポイントは、次のようになるでしょう。①ウクライナ軍が「反転攻勢」を続けてもロシア軍を占領地から完全に撤退させられる見込はほとんどなく、むしろ、さらに多くの犠牲者を生み出すことになるだろう。こうした結果になることが分かっているにもかかわらず、それを後押しすることは倫理的に正当化できない。②国際法を破ってウクライナを侵略したロシアが悪いのは当然であるが、ロシアの言い分を無視して同国を追い詰めたのみならず、外交による戦争回避のチャンスを活かせなかったアメリカやその同盟国にも道義的責任はある。

私は、ウォルト氏の主張がもっともだと判断したので、彼のX(旧ツイッター)のアカウントに賛同する旨の投稿をしたところ、これに同意する人はほぼ皆無であるどころか、猛烈に罵倒されました。ウォルト氏や私に対する非難のパターンは、おなじみのものです。すなわち、ウクライナのロシアに対する「徹底抗戦」に少しでも疑問をはさむ人間は、恥ずべき「親ロシア派」であるということです。ご参考までに、ウォルト氏のXのアカウントに寄せられた「イイね」の数は約1200件である一方、コメントもほぼ同数です。コメントにざっと目を通したところ、大半が彼に対する批判のようでした。

正義の戦争と不正な戦争
国家間の関係をみるレベルは、4つに分けることができます。すなわち、①国際関係の基本的ロジックの「理解」、②国際関係の現象の一般的原因の「説明」、③国際関係の歴史の「記述」、④国際関係の出来事に対する倫理的「判断」、です(中本義彦「規範理論」吉川直人・野口和彦編『国際関係理論(第2版)』勁草書房、2015年、296頁)。ロシア・ウクライナ戦争の言論空間では、これら4つの次元で、さまざまな議論が展開されています。国際関係論のリアリズムやリベラリズムといった理論的パラダイムは①に関するものです。「なぜロシアがウクライナを侵略したのか」という疑問は、②についてのことです。リアリストは主としてNATO拡大、リベラル派は、民主主義の波及やプーチン大統領の帝国主義的野心とか失地回復主義の野望などに原因があると主張しています。戦争の経緯の報道は、主に③の領域になります。そして、多くの人たちは、ウクライナ戦争について、①~③の議論だけではなく、④の倫理的判断も下そうとしているのです。

われわれは、国際関係の出来事を説明したり理解したりする際に何らかの理論に頼るのと同じように、倫理的判断をする際にも、何らかの基準を必ず用いています。その際、ほとんどの人たちは、その基準を明確に意識していないようです。しかしながら、国際政治の世界にも、倫理に関する「規範理論」があり、多くの研究者が長い時間をかけて、それを発展させてきました。その代表的なものが「正戦論」でしょう。正戦論では、戦争は「正義の戦争」と「不正な戦争」に分類されます。国境を越えて武力で他国の領土に侵攻する行為は、原則として「不正な戦争」、わかりやすく言えば「侵略戦争」になります。したがって、道義的に正当化はできません。ロシアのウクライナ侵略は、もちろん「不正な戦争」として批判されるべき悪い行為です。その一方で、国家の独立や主権を守るために侵略国に武力で立ち向かうことは「正義の戦争」、わかりやすく言えば「自衛戦争」です。したがって、ウクライナがロシアの侵略に対して占領地を取り戻そうとして戦っていることは、「正義の戦争」として擁護されるべき行為ということになります。これにはリアリストもリベラル派も、ほとんど全員が同意するでしょう。もちろん、私もこの判断に異論はありません。

政治の世界における倫理的パラドックス
水戸黄門の時代劇のように、正義に立った者が常に悪者を倒すのであれば、世界の出来事は単純な倫理的規準で判断しても問題ないでしょう。人は正しいと思うことを素直に実行すればよいということになります。しかしながら、政治の世界は、必ずしも、そうなりません。すなわち、善いと思う行為が悪い結果になったり、悪いと思う為が善い結果になったりすることが珍しくないのです。たとえば、人々が平等に暮らせる世界は望ましいものであると、多くの人は考えるでしょう。共産主義国は、こうした平等な社会の建設を目指しました。その結果は、どうだったでしょうか。旧ソ連や中国、カンボジアといった国家では、特権階級あるいはブルジョワジーに属すると判断された人たちが、徹底的に弾圧されたのです。

毛沢東が始めた「大躍進政策」では、ブルジョワ階級の人たちは強制的に農業に従事させられました。だれもが農作業をやれば平等であるというわけです。しかしながら、素人が突然に農業を始めたところで、その生産力は向上しません。むしろ、大躍進は大飢饉を招きました。その結果、中国では約4500万人もの人が非業の死を遂げたのです(フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉』草思社、2011年)。しかも、こうした悲劇は中国だけに限られたものではありません。いわゆる「共産主義国」では、誰もが平等で幸せに暮らせる社会が創られるどころか、国家の官僚機構が国民生活を統制することにより人々の自由が奪われ、共産主義体制を脅かすという理不尽な理由などにより、反体制派に対する徹底した弾圧が断行されたのです。その結果、おびただしい無辜の市民の命が理不尽に奪われました。共産主義政権の圧政下で失われた命は、ソ連では約2000万人、中国では約6500万人、北朝鮮では約200万人、カンボジアでは約200万人といった想像を絶する数に上るのです(ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』恵雅堂出版、2001年、12頁)。

「地獄への道は善意で舗装されている」という格言があります。これは政治の世界を倫理的に考える際には、決して忘れるべきではない言葉です。

逆に、悪いと思われる行為が善い結果をもたらすこともあります。その1つが相互核抑止でしょう。私が居住する周辺地域の自治体は、こんなことを言っています。「私たちは、平和を愛するすべての国の人々とともに、真の永久平和を実現することを決意し、ここに『核兵器廃絶平和都市』を宣言します」。核兵器は、ヒロシマ・ナガサキで20万人以上の市民の命を奪いました。これは文字通りの「悪魔の兵器」でしょう。その一方で、核兵器は第二次世界大戦後の「長い平和」を維持する大きな役割を果たしたと言われています。冷戦史の大家であるジョン・ルイス・ギャディス氏(イェール大学)は以下のように主張しています。

「(冷戦期に)どれほど多くの危機が米ソ関係に振りかかったことか。これが他の時代、他の敵対国間のことであれば、遅かれ早かれ戦争になっていたであろう。戦争にならなかったのは……核抑止の作用から生まれた……戦後国際システムの安定化効果……である。核兵器は、かつてならば戦争になってもおかしくないエスカレーション・プロセスを(米ソの政治指導者に)思いとどまらせた」(ギャディス『長い平和』芦書房、2002年、396-398頁)。

要するに、究極の殺戮道具である核兵器は、それが使用された場合のコストがあまりにも大きいために、核武装した国家の指導者は、相互に戦争になるような行為を避けるようになった、ということです。その結果、冷戦は国際政治史上、最も長い間、大国間戦争が起こらなかったという意味で「平和」だったのです。もちろん、核抑止は「恐怖の均衡」と呼ばれるように、核武装国同士が「絶対兵器」で脅し合うことで戦争を防ぐのですから、これを拒絶したい感情を持つ人は少なくないでしょう。相互核抑止は「過剰殺戮」という手段に訴えるものである以上、人道に反するのだから、倫理的に正当化できないという主張は、正しいように思えます。しかし、よく考えると、そうとも言えないことが分かります。なぜなら、悪である核兵器を廃絶した世界が、今よりも安全であるとは思えないからです。このことについて、ジョセフ・ナイ氏(ハーバード大学)は、核抑止をこう擁護しています。

「核兵器の恐怖につきまとう精神的な苦痛といったものは存在する。それは、いってみれば抑止の利益にたいして課せられたコストなのである……核時代の憤怒は高いものにつくかもしれない……反核十字軍運動が、かえって破局的結果を招くことにもなりかねない……絶対主義の類推にもとづく(核廃絶)政策は、核戦争の危険を小さくするよりもむしろ大きくするであろう……ある国がごまかしをやろうとしたばあい、いったいどうするのか……核廃絶に調印したからといって、そのような行動をなくせるとでもおもっているのだろうか」(ナイ『核戦略と倫理』同文舘、1988年、115、138-141頁)。

核軍縮が極度に進んだ世界は、皮肉なことに、核兵器の政治的価値を吊り上げてしまいます。そして、ある国家が少数の核兵器であれ単独で保有することになれば、それを脅しの手段として利用して、他国を支配しようとするかもしれません。そのような事態になることを恐れる国家は、敵対国の核保有を阻止するために予防戦争に訴えるインセンティブを高めるでしょう。こうして核廃絶に近づく世界は、核抑止が効いている世界より、はるかに不安定で戦争が起きやすくなると容易に予測できるのです。そして、こうした危険を避けること、すなわち、相互核抑止を維持することは、道義的に正しいと判断することができます。

結果倫理と信条倫理
政治の世界における倫理的パラドックスは、われわれに厳しい道義的判断を要求します。すなわち、いかなる政治問題であれ、国家や人間の行為がもたらす結果は、慎重に考慮すべきということです。このことの重要性を100年以上前に厳しく説いたのが、偉大な社会科学者であるマック・ウェーバーでした。かれは社会主義を目指す過激な暴力革命運動に陶酔する学生や知識人たちをこう諭したのです。少し長くなりますが、大切な部分なので引用して紹介します。

「信条倫理的な原則にしたがって行動するか(宗教的に表現すれば、キリスト教徒として正しく行動することだけを考え、その結果は神に委ねるということです)、それとも責任倫理的に行動して、自分の行動に(予測される)結果の責任を負うかどうかは、深淵に隔てらえているほどに対立した姿勢なのです……信条倫理の側は最終的には破綻せずにはいられないと思います……ドイツ軍の将校は、前線に攻撃にでかけるたびに兵士たちに……これで勝利すれば平和が訪れると言い聞かせたものでしたが、それと同じことです。

政治に携わる者……は悪の権力と手を結ぶ者であること、政治家の行動については、『善からは善だけが生まれる』というのは正しくなく、その反対に『善からは悪が生まれる』ことのほうが多いことを熟知していたのです。これを知らない人は、政治の世界では幼児のようなものなのです。

わたしが計り知れないほどの感動をうけるのは、結果にたいする責任を実際に、しかも心の底から感じていて、責任倫理のもとで行動する人が、あるところまで到達して『こうするしかありません、わたしはここに立っています』と語る場合です。これは人間として純粋な姿勢であり……誰もがいつか、このような立場に立たされることもありうるからです」(ウェーバー『職業としての政治/職業としての学問』日経BP、2009年、131-153 頁)。

もしわれわれが、ウクライナ戦争を信条倫理すなわちウクライナは正義の戦争を行っているのだから、倫理的判断はそれだけで済むと考えるのであれば、それで話は終わるでしょう。この戦争の結果がどうなろうと、ウクライナ人にどれだけの犠牲者がでようと、これがエスカレートして第三次世界大戦あるいは核戦争になろうと、正しい戦争を行っているのだから構わないという結論になります。私には、多くの人が、このように考えているように見えます。世の中には「善人」と「悪人」がいて、善人の行為は何でも正当化でき、悪人の行為は何でも不当であるという世界観です。これは信条倫理が支配する世界では、間違いなく正しいでしょう。

結果を見すえた倫理的判断の重要性
もしわれわれがウェーバーの主張を受け入れて、ウクライナ戦争を結果倫理から判断するのであれば、話は全く違ってきます。第1に、ウクライナ軍がロシア軍に勝利できる実行可能な戦略を持たないまま「反転攻勢」を続ける結果は、うまく行ったとしても、ごく狭い範囲の占領地の奪還である一方で、おびただしい戦死者をだすことになると高い確度で予測できるならば、それは必ずしも倫理的に正しい行為であるとは言えないということです。

今年の6月から本格化したウクライナ軍の反攻は、失敗に終わったと言ってよいでしょう。『ワシントン・ポスト』紙(2023年9月8日付)の記事に掲載された下のグラフを見れば分かる通り、この4か月間の「反転攻勢」でウクライナがロシアから奪還した占領地は1%未満に過ぎません。その反面、戦死者は約5万人にも達しました。そして、このような結果になることは、リアリストらが正確に予測すると同時に警鐘を鳴らしていたのです。残念ながら、こうした警告は、ことごとく無視されました。そして、このグラフの線が、今後、突如として下降することなど、「ブラック・スワン」が登場しない限り、そうならないだろうと予測するのが妥当でしょう。



それどころか、ウクライナは今よりも悪くなるかもしれません。戦争の行方は彼我の物質的な軍事バランスに大きく左右されます。ロシアとウクライナの兵力、火力といった要因を比較考量すれば、前者が後者に優位性を持っていることは否定できません。このことについて、これまでもウクライナ戦争について的確な分析を行ってきた、アメリカ陸軍の退役軍人であるダニエル・デーヴィス氏は、こう予測しています。

「主要な戦争の大半は……最も基本的な戦闘力を保持している側が勝利してきた。今回の場合、それはロシアを意味する……ロシアは、ウクライナの戦力より多くの兵力、戦車、大砲を保有している(航空戦力と防空能力における永続的な優位性は言うまでもない)。単刀直入に言えば、ロシアとの消耗戦でウクライナを支援し続けることは、さらに何万人、何十万人ものウクライナ人の命を奪い、さらに多くのウクライナの都市の破壊を招き、最終的にはプーチンに軍事的勝利をもたらす可能性が高い……道義的には、西側諸国はウクライナの勝利という軍事的に達成不可能な目的を達成するための虚しい努力を続けるべきでない。特に、そのような支援は、ウクライナの人命と領土を無意味に失う結果にしかならない可能性が高い場合には妥当ではない」。

この地図は、今年1月からの9か月間で、ウクライナの戦況がどのように推移したのかを示したものです(New York Times, 2023. 9. 28)。オレンジ色はロシアが拡大した占領地であり、水色はウクライナが奪還した領土です。ロシアは全ドンバス地方の掌握に失敗しましたが、占領地をほぼ維持してきました。その一方で、ウクライナの反攻はほとんど成果を挙げていません。ロシアの進軍は、我が国ではほどんど報道されていないようですが、実際には、このように占領地をわずかながら拡大しています。継続する膠着状態は西側のウクライナへの支援を減らすことになりそうなので、そうなるとロシアがウクライナにさらに深く攻め入る事態にもなりかねません。


こうしうた陰鬱な予測は信じたくないという気持ちも理解できますが、現実から目を背けても現実は変わりません。ウクライナは破壊されていくであろうことが分かったうえで、ウクライナ人に戦争の継続を勧めることは、はたして倫理的に正しい行為なのでしょうか。ウォルト氏は、そうではないと批判を恐れずに主張しているのです。

第2に、ウクライナ戦争は、アメリカや同盟国の外交により避けることが可能であった悲劇だということです。世界には善人と悪人が存在している、アメリカや西側諸国は「善人」であり、ロシアは「悪人」であるという「常識」は、われわれが受け入れやすい世界観ですが、そこには落とし穴があります。そもそもロシアをウクライナへの侵略へと駆り立てた1つの有力な原因は、善玉であるアメリカが主導する軍事同盟であるNATO拡大でした。だからこそ、こうした戦争原因論は「悪玉ロシアのプロパガンダに冒された陰謀論」であると広く信じられてきました。しかし、それは違います。ストルテンベルグNATO事務総長は、この戦争とNATO拡大の因果関係を最近になって遠回しに認めました。

「プーチン大統領は2021年秋に宣言して、NATOをこれ以上拡大しないとNATOが約束して署名することを求めた条約案を実際に送ってきた……そして、それがウクライナに侵攻しない前提条件だった。もちろん、私たちはそれに署名しなかった」。

ロシアによるウクライナのNATO非加盟の要求は理不尽である、NATOに入るかどうかはウクライナとその加盟国が決めることであり、ロシアにとやかく言われる筋合いはない、と多くの人は思うかもしれません。これは典型的な信条倫理による判断でしょう。しかし、その結果は、ロシアによるウクライナ侵攻であり、ウクライナの領土の約18%が占領されて、数百万人の国外難民が発生しただけでなく、約7万人のウクライナ人の戦死者をだしたということです。もちろん、これはロシアの悪行ですが、こうした悲惨な結果は、アメリカやその同盟国が、NATO拡大に対するロシアの警告に耳を傾けて、それを外交努力により妥結へともっていけたならば避けられた可能性が大いにあったのです。これは一種の「悪魔の取引」であり、信条的には受け入れがたいでしょう。ですが、これで戦争が回避できたならば、果たして、こうした妥協さえも不要であり不当であったと退けてもよいのでしょうか。ウォルト氏が、この戦争の責任は西側の人たちにもあるというのは、そういうことなのです。

最悪の事態を避ける政治的英知
ウクライナ戦争は核戦争にエスカレートする危険性を孕んでいます。これは決して考えられないことではありません。軍事や安全保障に関する世界屈指のシンクタンクであるランド研究所は、最近、この戦争が核戦争に拡大することを警告する報告書を発表しました。そこにはこう書かれています。

「ウクライナを停戦に追い込むようNATOを強制するために、ロシアは核兵器を使用できる。その目的は、戦況を安定させなければ、全面核戦争に発展するリスクが高まるとのシグナルをウクライナとNATOに送ることだ……ロシアがウクライナ国内で核兵器の使用を決定した場合、その数や種類は制限されないかもしれない。ロシアの指導部は、少数の核兵器や小型の核兵器しか使用しない場合のコストやリスクは、より多くの核兵器や大型の核兵器を使用する場合のコストやリスクと劇的に変わらないと認識する可能性がある」。

我が国には、ロシアの核の威嚇は「ブラフ」であることが分かったとか、それに怯むことは「プーチンの思うつぼ」であると主張する専門家と言われる人がいるのには、私は本当に驚かされます。なぜなら、そうした人たちは、核兵器を用いたバーゲニングやエスカレーションのメカニズムの本質を全く理解していないように思われるからです。核兵器による威嚇は、トーマス・シェリング氏が、60年以上前に「偶然性に委ねられた脅し」として説明しています。すなわち、核兵器で脅す側も脅される側も、それが暴発するかどうか、確実に分からないから威嚇として機能するということなのです(シェリング『紛争の戦略』勁草書房、2008年、第8章)。

ですから、核時代における鉄則は、正義が平和に道を譲ることに他なりません。実際、冷戦期において、米ソの指導者が核武装国への十字軍的な行動を抑制してきたからこそ、大国間戦争を起こさずに済んだのです。アメリカはソ連の勢力圏を尊重して、ハンガリー動乱もチェコスロバキアにおけるプラハの春も黙認して自重しました。ソ連も、アメリカが地域覇権の握る西半球に足を踏み入れたことにより起こったキューバ危機において、最終的には引き下がりました。こうした自制心や警戒心がウクライナ戦争に関与する核武装国の指導者には弱いように見えることは、たいへん心配です。

核戦争へのエスカレーションを避けなければならないという主張には、「ロシアの不当な侵略を許すというのか」という反論や、「ウクライナのことはウクライナ人が決めるべきである」という批判が必ず寄せられます。信条倫理は結果がどうなろうと、侵略国ロシアを罰するべきであり、ウクライナが徹底抗戦することは正しいとわれわれに告げます。しかし、このような判断は、核戦争へのリスク判断が甘いだけではなく、ウクライナが今よりも、さらにロシアに蚕食されて、最悪の場合、「破綻国家」になることを考慮に入れていません。この点について、前出のデーヴィス氏の以下の指摘は、傾聴に値すると思います。

「ウクライナの人々のために、戦争未亡人のために、日々生み出される父親のいない子供たちのために、ウクライナの街全体が無分別に破壊されることを悲しんでいる。もし自分の国が侵略されたら、私は悪魔のように戦うだろう。

しかし、抵抗を続けることが完全な敗北を招くのであれば……。

その時は、別の道を選ぶ英知が必要だ。ウクライナが豊かな未来を手に入れるためには、現在の厳しい試練を乗り越えなければならない。私は、キーウ、ワシントン、ブリュッセルの指導者たちが、ウクライナを存続させるために必要な厳しい選択をする知恵と能力を持つことを祈る」。

要するに、政治の世界では、より少ない悪を選択する高度な判断が、時に必要になるということです。それでも「ウクライナのことはウクライナ人が決めるべきだ!」という主張もあるでしょう。もしウクライナが単独でロシアと戦っているのであれば、これは政治的にも倫理的にも全く正しいといえます。しかしながら、ウクライナは、日本を含めた西側諸国の莫大な支援を得て、ロシアと戦争を行っています。株主が当該会社の経営に対して発言権があるように、ウクライナの要請を受けて税金から財政支援を行っている国家の国民にも発言権が認められるというのは、当然のことではないでしょうか。とりわけ、ウクライナ戦争が万が一、核戦争に発展してしまったら、我が国も無傷ではいられないでしょう。アメリカがウクライナに集中して資源を投入すれば、その分、アジアへの備えはおろそかになります。その結果、中国はより大胆な行動をとるようになり、日本の安全保障を脅かすかもしれません。ですから、そうした予測される悪い結果を避けようとするのは、決して批判されることではありません。われわれには、将来のある我が国の子供たちを守る義務があります。

マックス・アブラハム氏(ノースイースタン大学)は、「(ウクライナ戦争の)エスカレーションを防ぐために全力を尽くすべきだと考える人は、今や裏切り者なのだ。そして、新しいマントラはこうだ。われわれは、核兵器が炸裂した爆風を顔に感じるまでにならなければ、ウクライナでは十分に努力していないということになる」と、この戦争をめぐる異様な言説を皮肉っています。核のホロコーストを防ごうとするリアリストは、なぜ「裏切り者」の烙印を押されなければならないのでしょうか。こうした戦争拡大の危機感がほとんど共有されずに、信条倫理の判断だけが広く受け入れられる世界は、誠に恐ろしいものではないでしょうか。冒頭に紹介したウォルト氏の主張は、ウクライナ戦争をめぐる政治的現実を冷厳に見すえた政治学者による、倫理的に妥当で勇気のある発言であることをわれわれはもっと理解すべきでしょう。

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