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戦争の終結と指導者の決断

2022年01月25日 | 研究活動
国際関係研究において、戦争がどのように終わるのかは、戦争がどのように始まるのかより、注目を集めてきませんでした。このことは戦略研究や安全保障研究の「隙間」であり、今でもそうでしょう。わたしは大学院生の頃、先達たちがあまり取り組まなかった隙間を埋める研究は、学問的・政策的価値があると考えていました。そこで、わたしは、戦争の終結プロセスにおける第三者とりわけ国連の介入が果たす役割について、当時、脚光を浴びていた「国際レジーム論」を援用した理論モデルを作り、拙いものではありますが、1995年に、それを論文にまとめたことがありました。その後、理論を検証するために、国連が介入した、いくつかの戦争の事例を調べたところ、少なくないケースで、国連の平和維持活動が行われたにもかかわらず、戦闘が再発してしまったことが分かりました。

今から考えれば、戦争の終結と戦後の「平和」の継続性は別々に扱える要因であり、これらの帰結に第三者として国連が与える因果効果は異なって当然なのですが、当時は、そうは思えませんでした。その結果、わたしは、この研究課題をあきらめてしまい、2国間関係におけるパワー分布の変化と戦争の生起の因果関係にテーマを変えてしまいました。その後、ヴァージニア・ペイジ・フォトナ氏(コロンビア大学)が、わたしと同じような問題関心から、紛争に対する第三者の介入を含めた停戦合意とその継続性について画期的な研究を行ったことを知りました。彼女は、著書『平和の時間―停戦合意と平和の継続―』(プリンストン大学出版局、2004年)で、国連の平和維持活動と停戦の破棄について、こういっています。「平和維持軍が駐留している場合でも紛争はより再発しやすいのは、平和維持軍が(紛争を)混乱させるからではなく、戦争が最も起こりやすいところに最も展開しやすいからなのである」(同書、32ページ)。わたしは、この1文を確かにそうだと、目から鱗が落ちる思いで読みました。このような発想は、大学院生として国連の紛争介入を調べていた時には、全くでてきませんでした。

戦争終結の研究は、その後、少しづつ進展しました。その成果の1つが、このブログでも紹介したダン・ライター氏のバーゲニング理論を応用した学術書の発表です。そして昨年、このテーマについて、日本でも新しい研究書が上梓されました。千々和泰明『戦争はいかに終結したのか』(中央公論新社、2021年)です。かれは戦争終結の因果関係をいくつかの主要な仮説にまとめています。第1の仮説は、「優勢勢力側にとって『将来の危険』が大きく『現在の犠牲』が小さい場合、戦争終結の形態は『紛争原因の根本的解決』の極に傾く」です。第二次世界大戦の終わり方は、これを裏づけるものです。第2の仮説は、「優勢勢力側にとっての『将来の危険』が小さく『現在の犠牲』が大きい場合、戦争終結の形態は『妥協的和平』の極に傾く」です。湾岸戦争の帰結は、このパターンに当てはまります。(同書、18-19ページ)。こうした戦争終結の理論構築と事例研究は、われわれのこの分野の理解をさらに前進させました。

わたしは戦争終結について、以前から、ある1つの疑問を抱いていました。それは第二次世界大戦の初期において、なぜイギリスはドイツと和平を結ばなかったのか、というパズルです。周知の通り、1940年5月に発足したチャーチル戦時内閣は、フランスが降伏寸前まで追い詰められ、アメリカは「孤立主義」を保っており、ソ連はドイツとの不可侵条約により参戦が望めない、孤立した絶望的な状況に追い込まれていました。それもかかわらず、イギリスは圧倒的な優勢を誇っていたナチス・ドイツの和平の呼びかけに応じず、徹底抗戦を決断しました。どうしてなのでしょう。この点について、千々和氏(防衛研究所)は以下のように説明しています。

「ドイツと海峡を隔てるイギリスには、勝算がまったくないわけではなかった。何よりもイギリスは、まだアメリカ参戦の可能性があると信じることができた。イギリスは、自国を守ろうとしている民主主義という価値が『現在の犠牲』に耐えるのに見合うものだと考え、また構造的なパワー・バランスを自国に有利なかたちで変えうる可能性が客観的に存在すると判断することができた…劣勢勢力側が考えなければならないのが、自らの損害受忍度についてである。チャーチルのイギリスは民主主義のため…『現在の犠牲』に耐え、成功した」(同書、71、266ページ)。

ここからは、イギリスがドイツに屈しなかった理由は、主に3つあるように読めます。すなわち、アメリカの参戦への期待とそれによるバランス・オブ・パワーの好ましい変化、民主主義を守る価値の大きさです。ここでは、これらの要因がイギリスに継戦を決断させたのかを検証してみたいと思います。

ライター氏が『いかに戦争は終わるのか』で提示した命題が正しければ、国家は戦況が芳しくなくても、最終的な勝利を収められると期待すれば、妥協したがりません。1940年春におけるイギリスの継戦の決定は、この仮説によって説明できそうです。チャーチル政権と1940年5月の政策決定を詳細に研究したデーヴィッド・レイノルズ氏(ケンブリッジ大学)は、チャーチルが対独戦争の行方について、他の政治指導者より楽観視していたのは、アメリカの参戦の可能性に、根拠に乏しい期待を抱いていたことを指摘しています。同時に、かれはチャーチルがドイツとの和平を拒み、戦争を続けることを1940年5月時点で決断した要因として、ドイツ経済の脆弱性を過大評価していたことを以下のように指摘しています。

「根底にある予測は…ドイツが食料や原材料とりわけ石油不足に陥るというものだった…もし海上封鎖を維持することができれば、その後、1940‐41年冬までに、石油と食品の不十分な供給は、ヨーロッパにおけるドイツの支配を弱めるだろうし、1941年中頃までに『ドイツは軍需品の交換が難しくなるだろう』。チャーチルは、ドイツの経済が過剰拡張にあるという、この予測を共有していたようである…1940年5月、かれは『もしわれわれがもう何か月か踏ん張れることさえできれば、立場は全般的に違ったものになる』と主張していた」(David Reynolds, "Churchill and the British 'Decision' to Fight on in 1940: Right Policy, Wrong Reasons," in Richard Langhorne, ed., Diplomacy and Intelligence during the Second World War: Essays in Honour of F. H. Hinsley, Cambridge University Press, 1985, pp. 157-158) 。



要するに、チャーチルはドイツ経済の弱さに勝機を見出していたということです。もう1つチャーチルを継戦に傾けた要因は、ドイツに対する爆撃の効果への期待でした。レイノルズ氏によれば、「爆撃は…新しい武器に加えられた…かれ(チャーチル)の見解において、ヒトラーを倒せるであろう唯一のことは『この国からの重爆撃機によるナチス本土への破壊的かつ壊滅的な攻撃』であった…9月3日の閣議に関するメモランダムにおいて…かれは…戦闘機はわれわれを救うが、爆撃機だけでも勝利の手段となる」と認識していたのです(前掲論文、156ページ)。しかしながら、これらの予測は、残念ながら、外れてしまいました。ナチス・ドイツはイギリスが考えていたほど経済に弱さを抱えていたわけもなければ、爆撃により弱体化したわけでもなく、士気をくじかれたりしたわけでもありませんでした。

それでは、アメリカの参戦について、イギリスの指導者は、どのように考えていたのでしょうか。再びレイノルズ氏の分析をみてみましょう。「参謀本部が1940年5月時点で明らかにしたことは、アメリカが『全面的な経済および財政援助をわれわれに進んで与えてくれるであろう、それなしでは、われわれは継戦のいかなる成功も考えられない』という主要な予測であった…イギリスの指導者は1940年中頃において、アメリカの早期の宣戦布告を望んでいた…しかし目下の決定的なかれらの考えは、イギリスの士気に与えそうな影響であった。6月15日、チャーチルはルーズベルトに直接こう述べていた。わたしは合衆国が参戦するという場合、もちろん、遠征軍の観点で考えているわけではありません、そんなことが問題外であることは、わたしも分かっています。わたしの心にあるのは、そのようなアメリカの決定が生み出す途方もない精神的効果なのです」(前掲論文、161ページ)。こうした歴史証拠からいえることの1つは、チャーチルをはじめとするイギリスの指導層は、直接、アメリカ軍がヨーロッパに軍隊を派遣することに淡い期待を抱いていた反面、現実的には、アメリカの経済支援とモラルサポートを当てにしていたことが浮き彫りになります。しかしながら、イギリスが最も望んでいたアメリカの対独「参戦」は、日本の真珠湾攻撃を待たなければなりませんでした。

最後に、イギリスが多大な犠牲を払ってでも守ろうとしていた「価値」とは何かを検討してみましょう。チャーチルは1940年5月13日の下院における演説において、「どんな犠牲を払ってでも勝利する…勝利なくして、そこに生き残り(survival)はない」と強気の発言しています。ここでいう「生き残り」には、イギリスの民主主義を守ることも含まれているのかもしれませんが、おそらく独立と主権を守るという意味合いが強いのではないでしょうか。なお、こうした雄弁な発言から、チャーチルは対独講和など全く考えていない強靭な指導者といったイメージでとらえられがちですが、レイノルズ氏によれば、かれは結果としてドイツと和平交渉を行うことも視野に入れていました。「チャーチルは、1940年5月が適当なタイミングではないとしても、最終的な和平交渉を排除していなかった。他の閣僚と同じく、かれの目的は全面的な勝利ではなく…ヒトラーとナチズムの排除ならびにドイツの征服から逃れることだったのだろう」(前掲論文、152-153ページ)というものです。チャーチルがチェンバレンのミュンヘン会談におけるヒトラーへの宥和を、ドイツにおけるヒトラーへの謀反の芽を摘んでしまったことを主な理由に批判していたことを考えれば、かれのこの対独戦略は合点がいきます。

こうしたエビデンスが示す理論的・経験的含意は、『戦争はいかにして終結したのか』のロジックや事例の解釈に深い示唆を与えています。第1に、戦争終結の主要仮説への「損害受忍度」という変数の追加が、方法論的に意味はあるのかということです。簡潔性(parsimony)の観点からすれば、少ない変数で結果を説明できる理論は、複雑な理論より好ましいでしょう。では、1940年5月のイギリスの継戦の決定は、既存の簡潔な仮説で説明できないのでしょうか。おそらく、損害受忍度の変数なくしても、チャーチル政権の対独政策は説明できるでしょう。戦争終結プロセスにおいて、1つのパズルは、圧倒的に戦況が不利に展開しているにもかかわらず、劣勢国が和平に応じないことです。その理由を説明する仮説として、ライター氏は「コミットメントの信ぴょう性は疑われるが、究極的な勝利の望みがあると、ネガティヴな情報(discouraging information)があっても、戦争終結にまつわる要求はより高くなる」と主張しています。この仮説は「損害受忍度」という変数を含んでいませんが、イギリスの1940年の決定をうまく説明できます。要するに、チャーチル戦時内閣は、ヒトラーを信用していませんでしたが、経済封鎖と爆撃さらにはアメリカの支援により、ナチズムを打倒できると期待していたのです。

第2の問題は、戦争終結理論の論理的整合性です。同書では、民主主義国の損害受忍度は低いことがほのめかされています(同書、274ページ)。他方、民主国としてのイギリスが甚大な犠牲を払ってでも、「民主主義」を守ろうとして、実際に、バトル・オブ・ブリテンでドイツの爆撃の被害に耐え抜いたことは、矛盾しているのではないでしょうか。民主主義国は損害受忍度が低いのであれば、イギリスがドイツに屈すると理論的には予測できてしまうのです。それとも、当時のイギリスは損害受忍度において、民主主義国の中で例外的に戦争による損害に耐えられる政治体制だったということでしょうか。民主主義という変数を暗黙に戦争終結の理論に組み込んでしまうと、そのロジックの内的一貫性を損ないかねません。もちろん、このことは国内政治レベルの制度要因の理論化を否定しません。民主主義と損害受忍度の関係は、筋の通ったロジックとして理論化できるのかということです。

第3に、経験的な疑問として、チャーチルをはじめとするイギリスの指導者は、ドイツとの戦争を続ける主要な理由を「民主主義」の擁護に見いだしていたのかということです。一般通念として、チャーチルはナチズムから自由と民主主義を救ったといわれます。歴史の後知恵をつかえば、そのような解釈はできます。ここでの実証的問題は、民主主義の価値がチャーチル戦時内閣にドイツとの和平交渉を思いとどまらせたのか、という因果推論の妥当性です。上記に引用したチャーチル発言の「生き残り」に、民主主義の維持が含意されていた可能性は排除できません。また、チャーチルがイギリスの民主主義を守るために、ヒトラーとの和平を拒んだ「決定的な証拠」をわたしは知らないだけかもしれません。ただ、上記の入手できる証拠は、経済封鎖と爆撃によるドイツ経済の弱体化ならびにアメリカからの支援が、チャーチルに対独戦でのかすかな勝利の期待を抱かせたことを示していると思います。

『戦争はいかにして終結したか』は、ハンディーな新書であると同時に明快なロジックと主要戦争の終結事例をコンパクトにまとめた、読者が手にとって読みやすい良書です。くわえて、同書は、既存の国際関係研究の隙間を埋める学術書であると同時に、これからの日本の安全保障政策の決定にも貢献できる構成になっています。不幸にして戦争が起こってしまった場合、それをいかにして終わらせるかを考えるヒントが、この本につまっているとわたしは思います。



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