国際関係研究は、今、さまざまな意味で行き詰まっているようです。「イズム」論争の衰退は、その1つの兆候と言えるかもしれません。このような国際関係研究の現状をメタ理論で分析して、将来展望を示そうとする大胆でスケールの大きな論文が発表されました。芝崎厚士著「国際関係研究の将来―国際関係の研究からグローバル関係の研究へ―(『年報政治学』2015年-Ⅰ)です。
この論文で私が注目した彼の主張は、国際関係論に理論は1つしかなかったというものです。
「国家学的・平和学的動機にもとづきそれ以外は継ぎ足しで処理し、主権国家と主権国家間関係に領域を限定してそれ以外は建て増しで処理し、主権・アナーキー・権力政治を原則としそれ以外は例外として処理するという理論である」(157ページ)。
これは鋭い指摘です。国家をアクターとする権力政治のパラダイムは、それを批判するリベラリズムもコンストラクティヴィズムも、結局は、国家中心主義に代わるパラダイムを確立できずにいます。その意味で、メタレベルにおいて、これらは1つの「理論」に包摂されるといえるかもしれません。
では、こうした閉塞を打破するには、どうしたらよいのでしょうか。現在の国際関係理論の研究では、「仮説の厳密な検証」が1つの知的流行になっていると言われています。そして、このことは「『仮説と検証のループ』をタコツボ状に増殖させること」(159ページ)につながりかねません。そうなるとディシプリン(学問体系)としての国際関係論は、確かに、その統一性を保ちにくくなりますが、通常の科学の手続きからすれば、進歩といえなくもありません。
ただし、ここで注意すべきは、「仮説と検証のループ」モデルそのものが、学問領域を問わず、果たしてうまく働くかどうかということです。既存の研究が示すところによれば、残念ながら、そうもいかないようです。科学ジャーナリストのウィリアム・ブロードとニコラス・ウェイドによれば、「伝統的な科学観が大きく道を踏みはずすのは、科学の過程に焦点を置くあまり、科学者の動機や欲求といったものを考慮しないためである」(『背信の科学者たち』29ページ)と喝破しています。「反証」という行為は、自然科学においてさえ、たとえ、その証拠があったとしても、簡単ではありません。
「事実に基づく証拠がその唯一の道標となるならば、より大きな証拠が十分な説得力をもって示されたとき、科学者は即座に新しい考えを受け入れ、古い考えを捨て去ることができよう。しかし、現実には科学者は古い考えが無効とされた後でも、それに固執することが少なくない」(201ページ)
産褥熱の悲劇は、当時の医者が古い医療の常識に固執したことにより生じ、本来なら助かった多くの命が失われました。それ以外にも、ヤング(光の波動)、パスツール(発酵)、メンデル(遺伝の法則)、ヴェーゲナー(大陸移動説)らが、科学の先達たちから、いかに頑迷な抵抗に受けたかも想起されます。
ひるがえって、社会科学としての国際関係研究ではどうなのでしょうか。学問がタコツボ化して「針の穴から世界をみるような状況」(芝崎:157ページ)になることの問題もさることながら、そもそも国際関係研究は、科学手続きに内在する「反証を頑迷に拒否する性向」と無縁なのでしょうか。以前、研究仲間たちと「反証されたことにより、自らの理論を破棄した国際関係学者はいるのか」という話をした時に、「そのような学者は思いつかない」との結論になったことを思い出します(私がその存在を知らないだけかもしれませんが…)。
閑話休題。
芝崎氏の指摘でもう1つ重要だと思うのは、他の学問のと交流による国際関係論の「科学革命」(トマス・クーン)の可能性に言及していることです(芝崎:163-165ページ)。「学問を進歩させる独創的な考えに貢献するのは、たいていその学問領域における確立された教義に洗脳されていない部外者か、もしくは他の学問領域から来た新参者である」(ブロード、ウェード:204ページ)。国際関係論自体がそうでした。法律学をドイツで学んだハンス・モーゲンソーが、米国でリアリズムを体系化したことにより、国際関係論は飛躍的に発展したのです。
では、これからの国際関係論は何が進歩させるのでしょうか。芝崎氏も示唆しているように、その1つの候補は「心理学」かもしれません。認知科学者で進化心理学者のスティーヴン・ピンカー氏は、戦争などの暴力が減少していることについて、多くの国際関係研究者が軽視していた個人レベル(第1イメージ)に焦点を当てながら、雄弁にこう主張しました。
「平和化…長い平和…。これらは捕食や支配、復讐、サディズム、イデオロギーが自制や共感、道徳、理性を凌駕してきたことの表れのはずだ」(Pinker:671-672、邦訳『暴力の人類史(下)』青土社、2015年、537ページ)。
つまり、人間がより理知的になってきたからこそ、世界は平和にむかっているのだということです。
もちろん、これまでも人間本性と戦争について分析した研究書はありましたが、本書が類書と決定的に違うのは、神経科学や認知心理学、生物学などの知見をフルに動員して、豊富なデータで自説の妥当性を裏づけようとしていることです。くわえてて、国際関係論の「相互核抑止論」や「民主的平和論」などの代替仮説は、ここで徹底的に棄却されています。
ピンカーは慎重にも、自分の研究が統一されたグランドセオリーにまとまることに期待すべきではないと、一言、くぎを刺していますが、それでも彼の研究が停滞する国際関係論が進むべき1つの道を示しているように私は感じました。