野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

国際関係研究における理論と歴史の統合(アップデート)

2015年09月25日 | 研究活動
日本の国際政治学界において、近年、理論研究と歴史研究を組み合わせて、より質の高い社会科学を目指す試みが活発化しているようです。このような学術的動向において、注目すべき研究書が上梓されました。川剛『社会科学としての日本外交研究―理論と歴史の統合をめざして―』ミネルヴァ書房、2015年です。



著者の川氏(サイモンフレーザー大学)は、海外で活躍する数少ない日本人の政治学者の1人です。本書における、彼の問題意識の1つは、「世界レベルで展開する国際政治学に対していかにして日本外交研究を密に連関させていけばいいのか」(1ページ)ということです。そして、その方向性をこう語っています。

「国際政治理論は、ヨーロッパの外交経験に基づいていることが多い。そこでそういった国際政治理論がどこまで一般的なのか…次の世代の日本人研究者たちが世界レベルで日夜発展しつつある国際政治学界に貢献していくには『日本外交の理論的研究』の体系的理解か欠かせない」(7-8ページ)。

こうした問題意識のもと、川崎氏は『社会科学としての日本外交研究』において、日本のARF外交、吉田路線の形成、同盟形成、防衛計画の大綱の策定を事例に取り上げ、国際政治理論と日本外交史研究の「統合」を実践しています。なお、付言しますが、もちろん、川崎氏は国際政治理論がいかにして日本外交史研究に貢献できるかについても、議論を展開しています。両方のディシプリンが相互に貢献することで、両者は統合されるというのが、彼のスタンスです。詳しくは、同書をお読みください。

実は、私も川崎氏と同じ問題意識はずっと持っていました。研究仲間と一緒に、コリン・エルマン、ミリアム・フェンディアス・エルマン編『国際関係研究へのアプローチ―歴史学と政治学の対話―』東京大学出版会、2001年という訳書を出版したのも、国際政治学と国際関係史の接点を求める作業の1つでした。拙著『パワー・シフトと戦争―東アジアの国際関係―』東海大学出版会、2010年は、北米で構築され西欧の事例研究などで洗練された戦争原因の理論の妥当性を東アジアの事例で検証するものでした。

なお、川崎氏とはやや異なる角度から理論と歴史の統合方法を論じるものとしては、保城広至『歴史から理論を創造する方法―社会科学と歴史学を統合する―』勁草書房、2015年があり、広く読まれているようです。

マーク・トラクテンバーグ氏(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)は、自著『冷戦とその後―歴史・理論と国際政治の論理―』において、もう一歩踏み込んで、「歴史、政策、理論は深いところで相互につながっている」と主張しています(もっとも、彼は、これら3つを統合する明示的な方法を提示しているわけではありません)。



余談ですが、彼は、リアリズムは「紛争の理論」というより、実は「平和の理論」であると、メタレベルでリアリズム理論の「公理(根本命題)」を覆しています。これは、歴史学者のリアリスト理論研究者に対する強烈な一撃でしょう。また、イラク戦争に関する研究者の言説にも、反論を加えています。詳しくは、同書の第1章および最終章をお読みください。

日米の国際関係学界で、理論と歴史の関係が同時期に見直されているのは、興味深いことだと思います。

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スタンレー・ホフマンを偲ぶ

2015年09月18日 | 研究活動
国際関係研究に大きな足跡を残された、スタンレー・ホフマン氏(ハーバード大学)がお亡くなりになったことを研究仲間から知らされました。

永井陽之助先生が、ホフマン教授を高く評価されていたことから、私は、大学院生時代、ホフマンの論文をよく読みました(ホフマン氏の来歴や学問的スタンスなどは、P. グルビッチ氏の追悼文が参考になります)。しかし、ケネス・ウォルツ氏のホフマン批判が、私にとって、あまりに強烈で説得的だったため、それ以降は、ホフマンをあまり読まなくなりました。

ホフマン氏の訃報に触れ、彼が最も気に入っていたエッセーの1つである「響きと怒り―歴史における社会科学者対戦争」を読み返えそうと思い立ちました。本棚から、このエッセーが収録されている、S. Hoffmann, Janus and Minerva: Essays in the Theory and Practice of International Politics (Westview Press, 1987)を取り出すと、アレキサンダー・ジョージ氏の本書に対する賛辞を裏表紙に見つけました。少し意外に思いました。

本をペラペラめくっていると、ホフマン氏のただでさえ深い思索を英語の学術エッセーを通して理解しようとして、苦しんだ当時の記憶が蘇ってきます。しかし、誠にありがたいことに、今では、ホフマン氏の主要論文やエッセーが、中本義彦氏(静岡大学)のご尽力により日本語で読めます。



そこで、今回は中本氏の名訳に頼ることにします。

「響きと怒り」は、奇しくも私が生まれた年に書かれたものです。内容は、歴史における人間の自由と必然の哲学的な考察です。この論考の基底には、当時の時代背景、すなわち冷戦真っただ中の核戦争に対する危機意識があります。このエッセーは、戦争研究の方法論にも言及しており、戦争原因を理論的・実証的に明らかにしようとする、無謀な試みをしている私の胸をグサッと刺すような、ホフマン氏の鋭い指摘も散見されます。

このエッセーを再読して、ホフマン氏が言わんとしていることは、何となく理解できるのですが、その核心を正確にとらえている自信は全くありません。思慮の深さが、そこにはあります。ただ、一読者として、彼の以下の主張は強く印象に残りました。

「平和主義者やブレヒト主義者のシニシズムに共感するのはたやすい。(中略)平和主義者(とブレヒト主義者)の『明快さ』は彼らが局外者の立場に身を置いている(ことによる)。…局外に立って非難する者は皆、曖昧な立場に身を置くことになる。局外者は、自分自身が所属する共同体の上に絶対的な道徳基準―たとえば人命の尊重―を位置づけることになる。…なるほど、人間を戦争に導く連帯の主張には、ある種の道徳的盲目さがつきまとうものである。しかし、平和や人命を語って連帯を否定すれば、ある種の道徳的傲慢さが生じてしまう」(『スタンレー・ホフマン国際政治論集』437-439ページ)。

鋭い指摘です。ホフマンは、こうも言っています。「いわばつま先たちになって政治家よりも少し遠くを見る権利と義務が批評家にはある」(17ページ)と。もちろん、学者と批評家は同義ではありませんが、ここで彼は、社会科学者が政治家そのものや国家の政策を論評するときの道徳的スタンスのことを言っているでしょう。果たして、それが妥当なのかどうか。「何とも言えない」としか、今の私には答えられないのが、もどかしいところです。



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女性が輝くための県女イベント

2015年09月08日 | 教育活動
勤務先の群馬県立女子大学国際コミュニケーション学部は、外務省主催「女性が輝く社会に向けた国際シンポジウム」公式サイドイベントにかかわっています。

8月下旬には、「女性活躍推進ワークショップ―日本政策金融職員と群馬県立女子大学生による意見交換会―」に、本学部のゼミナールが参加しました。

10月6日(火)には、「国際理解と平和―大使リレー講座:外交分野における女性の活躍」において、駐日トンガ王国特命全権大使による講演が予定されています。

その他、県女生の活躍や活動は、FaceBook でも随時更新で紹介されていますので、ぜひ、ご覧ください。

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