大学のセンセイは、どんな人で何をしているのか、大学の外からは見えにくいとことでしょう。松野弘著『大学教授の資格』(NTT出版、2010年)は、現在における大学教授の資格や仕事について、アカデミズムの歴史や国際比較から読み解き、グローバル化時代における大学教授像を論じた、読みごたえのある書物です。
本書は、冒頭の以下の記述から始まります。
「大学教授になるための資格や免許が存在しないという事実は、世間一般ではあまり知られていない。…大学教授になるための法的な資格要件(国家資格)は何も存在しない」(2ページ)。
「エッ~」と驚いた方も多いことでしょう。しかし、だからといって、誰でも大学教授になれるわけではありません。法律で大学の専任教授・准教授・講師の資格要件(任用資格)は明記されています。その1つの項目として、「博士の学位を有し、研究上の業績を有する者」という規定があります(その他、「芸術、体育等については、特殊な技能に秀でていると認められる者」や「専攻分野について、特に優れた知識及び経験を有すると認めれある者」など、五つ条項があります)。
「博士の学位」は、大学外の人も理解しやすいでしょう。「○○博士」や「博士(○○)」(○○は主に専攻分野)がそれにあたります。外国の大学の場合、主としてPh.D という称号が与えられます。ただし、博士号やPh.D は日本の大学教授の必要条件ではありません。松野氏の推定によれば、「文系では…(博士号取得者は)全体の教員数のうちの二、三割程度」(87ページ)だそうです。このあたりがややこしいのですが、詳しくは、同書の第3章を読んで下さい。
「研究上の業績」は、分かりにくいでしょう。一般的には、「学術書」や「学術論文」が、これに相当します。では、大学教授になるのは、どのくらいの学術書や論文が必要なのでしょうか?これに関する絶対の基準はありませんが、松野氏によれば、「文系では、学問分野にもよるが、基本的には教授クラス(五〇歳)では、単著三冊、編著五冊、論文数四〇本以上をこれまでの研究成果として出しているかどうか、がすぐれた学問的評価の基準」(53-54ページ)とのことです。ここで注意していただきたいのは、この数的ハードルは、松野氏が考える、「すぐれた」教授に求められる「すぐれた」学問的評価の基準だということです。現在、私は四十代ですが、五〇歳までに、「単著三冊」の基準を超えられそうにありません(苦笑)。
同書を読んで、考えさせられるところも多かったのですが、とりわけ、大学教育とキャリア支援については、大学の存在意義にかかわる難しい問題をはらんでいることを再認識させられました。松野氏は、こう指摘します。
「学生を大学が手取り足取り指導することにより、『就職に強い大学』をPRして、受験生を集めるというものである。しかし、大学は本来、就職のための準備の場ではない」(114ページ)。
「そもそも論」から言えば、その通りでしょう。同時に、大学を取り巻く環境の変化が、大学の教育的役割や大学教授の仕事に与える影響を考えると、ことは複雑です。現在、日本では大学進学率が50%を超えています。他方、大学新卒者の就職内定率は厳しい状況です。2011年末時点で70%程度という情報もあります。大学を卒業しても仕事に就けない人が多くなれば、大学の教育内容の見直しが求められ、大学にキャリア教育を求める声が大きくなるのは、自然なことだといえるでしょう。
大学が「就職のための準備の場」になればなるほど、「学問のプロ」としての大学教授の存在意義は薄れてしまう恐れがあります。逆に、大学が「キャリア教育」に直結しない「純粋な」学問に特化すればするほど、上記のような社会の「声」に応えにくくなります。これは深遠なジレンマです。では、このジレンマには、どのような「解」があるのでしょうか?「人生の先輩アドバイザー」としての大学教授、「古典教養教育の場としての大学」という答えもあるようですが…。いずれにしても、このジレンマは、「大学」という組織に生来する難題であるのは間違いなさそうです。
本書は、冒頭の以下の記述から始まります。
「大学教授になるための資格や免許が存在しないという事実は、世間一般ではあまり知られていない。…大学教授になるための法的な資格要件(国家資格)は何も存在しない」(2ページ)。
「エッ~」と驚いた方も多いことでしょう。しかし、だからといって、誰でも大学教授になれるわけではありません。法律で大学の専任教授・准教授・講師の資格要件(任用資格)は明記されています。その1つの項目として、「博士の学位を有し、研究上の業績を有する者」という規定があります(その他、「芸術、体育等については、特殊な技能に秀でていると認められる者」や「専攻分野について、特に優れた知識及び経験を有すると認めれある者」など、五つ条項があります)。
「博士の学位」は、大学外の人も理解しやすいでしょう。「○○博士」や「博士(○○)」(○○は主に専攻分野)がそれにあたります。外国の大学の場合、主としてPh.D という称号が与えられます。ただし、博士号やPh.D は日本の大学教授の必要条件ではありません。松野氏の推定によれば、「文系では…(博士号取得者は)全体の教員数のうちの二、三割程度」(87ページ)だそうです。このあたりがややこしいのですが、詳しくは、同書の第3章を読んで下さい。
「研究上の業績」は、分かりにくいでしょう。一般的には、「学術書」や「学術論文」が、これに相当します。では、大学教授になるのは、どのくらいの学術書や論文が必要なのでしょうか?これに関する絶対の基準はありませんが、松野氏によれば、「文系では、学問分野にもよるが、基本的には教授クラス(五〇歳)では、単著三冊、編著五冊、論文数四〇本以上をこれまでの研究成果として出しているかどうか、がすぐれた学問的評価の基準」(53-54ページ)とのことです。ここで注意していただきたいのは、この数的ハードルは、松野氏が考える、「すぐれた」教授に求められる「すぐれた」学問的評価の基準だということです。現在、私は四十代ですが、五〇歳までに、「単著三冊」の基準を超えられそうにありません(苦笑)。
同書を読んで、考えさせられるところも多かったのですが、とりわけ、大学教育とキャリア支援については、大学の存在意義にかかわる難しい問題をはらんでいることを再認識させられました。松野氏は、こう指摘します。
「学生を大学が手取り足取り指導することにより、『就職に強い大学』をPRして、受験生を集めるというものである。しかし、大学は本来、就職のための準備の場ではない」(114ページ)。
「そもそも論」から言えば、その通りでしょう。同時に、大学を取り巻く環境の変化が、大学の教育的役割や大学教授の仕事に与える影響を考えると、ことは複雑です。現在、日本では大学進学率が50%を超えています。他方、大学新卒者の就職内定率は厳しい状況です。2011年末時点で70%程度という情報もあります。大学を卒業しても仕事に就けない人が多くなれば、大学の教育内容の見直しが求められ、大学にキャリア教育を求める声が大きくなるのは、自然なことだといえるでしょう。
大学が「就職のための準備の場」になればなるほど、「学問のプロ」としての大学教授の存在意義は薄れてしまう恐れがあります。逆に、大学が「キャリア教育」に直結しない「純粋な」学問に特化すればするほど、上記のような社会の「声」に応えにくくなります。これは深遠なジレンマです。では、このジレンマには、どのような「解」があるのでしょうか?「人生の先輩アドバイザー」としての大学教授、「古典教養教育の場としての大学」という答えもあるようですが…。いずれにしても、このジレンマは、「大学」という組織に生来する難題であるのは間違いなさそうです。