野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

スキーの復活?

2012年01月31日 | スポーツ
スキー人口は、バブル崩壊後、急激に減少しているそうです。1990年代前半のピーク時に比べ、今のスキー人口は約3分の1まで減少しているとのことです。その結果、バブルの時のように、駐車場に入る車がズラリと並んだり、リフトに乗るのに1時間もかかったりすることは、よほどのことがない限り、なくなったようです。今は、週末でもリフト乗車の待ち時間がないスキー場は、珍しくありません。その反面、スキー人口激減の影響を受けて、営業停止や廃業に追い込まれたスキー場もあります。

2011年は、日本へのスキー伝来100年目だそうです。この記念すべきシーズンは、スキーの復活を予感させるものがあります。これはあくまでも個人的な印象ですが、バブル期にスキーを楽しんだ人たちが、少しずつスキーに戻りつつあるように感じます。私は、スキーヤー専用の「ブランシュたかやまスキー場」や「白樺高原国際スキー場」をよく利用するのですが、ここ数年で、バブル期によく見たウェアーを着て、カービングスキー以前の「細長い」スキーをはき、家族でスキーを楽しんでいる姿をポツリポツリと見かけるようになりました。バブル世代に若者だったスキーヤーが、子どもの成長とともに「家族でスキーに行こうか」と、ゲレンデに足を運ぶようになったのかもしれません。

そして、これに関連する興味深いデータを見つけました。http://ksoutdoor.net/index.html これによれば、実は、ここ数年でスキー人口は微増しているそうです。しかも、スキー人口にスノーボード人口を加えた人数で計算すると、2009年時点では約1100万人になり、これはバブル以前のスキー人口にほぼ等しいそうです。このデータが正しいとすれば、ピーク時の1860万人というスキー人口は、バブルの影響により、異常に突出しただけだとの見方もできます。バブルの時は、「猫も杓子もスキー」をしたといったところでしょうか。しかし、今は、スキーやスノーボードを楽しんでいるのは、これらが純粋に好きな人が大半なのかもしれません。そうだとすれば、日本のスキー・スノーボードは、成熟期に入ったといえます。

スキー復活の兆しが見えてきたのは、関係者の努力もあってのことでしょう。「信州スノーキッズ倶楽部」は、子どもを持つスキーヤーの財布を少し軽くしてくれます。リピータ割引のような制度を採用するスキー場も増えてきました。若者をスキー場に呼ぼうとする試み「雪マジ19」には、思い切ったことをやるものだと感心しました。

さまざまな世代や年齢層のスキーヤーがゲレンデで楽しそうに滑っていスキー場は、明るく活気に満ちています。もちろん、技術を純粋に追及するスキーもよいのですが、「レジャーとしてのスキー」を再評価することこそ、スキー復活のカギだと私は思います。一昔前、「スキー・ナウ」というTV番組がありました。軽快なロックミュージックをBGMにデモが軽快に滑るシーンは、多くの人をスキーに惹きつけたことでしょう。

私は現在、スキー技術を探究することに楽しみを感じますが、そういう人ばかりではありません。雪山の自然と滑りが生み出す「爽快感」こそが、スキーの最大の「だいご味」であり、初心者、中級者、上級者に関係なく、全てのスキーヤーを魅了する力ではないでしょうか。競技としてのスキーは別でしょうが、「横ずれの少ないターン」だの「谷回り理論」だの、あまり技術的なことを強調しすぎると、スキーに堅苦しいイメージを与えてしまいます。そういう理屈を超えて、本来、スキーはもっと純粋に楽しいものです。これはカナダ滞在中のスキー経験で強く感じたことですが、オリンピック会場にもなったウィスラーでもサイプレスでも、スキーはもっともっと自由でした。

最後に、私のスキーですが、上達の手ごたえを感じたと思って、自分の滑りをビデオに撮ってチェックすると…。イメージと現実のギャップに幻滅します(苦笑)。練習しても、思ったほど上手くならないものですね。

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中国の戦略行動に関する最新論文

2012年01月21日 | 研究活動
拙稿"Bringing Realism Back In: Explaining China's Strategic Bahavior in the Asia-Pacific," Asia-Pacific Review, Vol. 18, No. 2 (December 2011) が刊行されました。同論文の草稿をお読みいただき、コメントを寄せて下さった先生方、レフェリーの方、編集担当の方に、この場を借りて、改めて御礼申し上げます。



同論文は、アジア太平洋地域における中国の戦略行動を攻撃的リアリズム理論から説明するものです。中国の対外行動の理論的研究の動向を概観してみると、冷戦直後はリアリズムによるものが目立ちましたが、その後、コンストラクティヴィズムが台頭してきました。

中国安全保障研究の代表的「コンストラクティヴィスト」としては、アラステア I. ジョンストン氏(ハーバード大学)やデーヴィッド C. カン氏(南カリフォルニア大学)がいます。ジョンストン氏は、International Security誌において、いまではこの分野における必読論文となった、有名な論文「中国は現状維持勢力か」を発表して、台頭する中国の行動様式は、かつての新興大国のような「現状打破」ではないと主張しました。カン氏は、自著『台頭する中国(China Rising)』において、中国は「平和的に」台頭しており、こうした規範は東アジアに伝播して、その安定に貢献していると喝破しました。

私は、このようなコンストラクティヴィストの中国研究に、強い違和感を覚えました。なぜなら、こうした分析は、中国の地域覇権に対する衝動をあまりにも軽視しているように感じたからです。私が見るところ、冷戦後、中国は戦略的に「低姿勢の」対外政策を遂行していました。そして、このことを論証するには、やはりリアリズムに戻るしかないと思いました。そこで、ジョン・ミアシャイマー氏(シカゴ大学)が提唱した「攻撃的リアリズム」を多少修正した上で、中国のアジア太平洋地域における戦略行動に適用し、さまざまな証拠を提示して、その本質を明らかにしようとしました。

同論文の元原稿は、私が3年前に、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学に研究滞在した時に執筆されました。そのため、中国の個別の具体的行動に関する分析は、やや古くなってしまったかもしれません。しかしながら、「中国の戦略行動は地域覇権(中国の利益がより反映された、中国主導の新しい東アジア秩序やガバナンス)の確立を目指したものである」という論文の中心命題は、ここ数年のさまざまな関連データ(たとえば、中国人民解放軍の海洋進出など)が裏づけているようにも思います。

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2011年度の野口ゼミ卒業論文

2012年01月19日 | ゼミナール
本年度の4年次ゼミ生たちの卒業論文がようやく出そろいましたので、それらを紹介したいと思います。執筆者とタイトルは以下の通りです。

高林貴将「地雷問題とNGO―カンボジアを事例にして―」
大瀧惇子「万人に共通する正義とは何か―キリスト教とイスラム教の対立を事例にして―」
尾崎未希「環境破壊防止からなる平和への道」
曽根春寿「自衛隊の海外派遣に関する恒久法制定についての考察」
平野翔子「スポーツの経済効果と発展途上国の援助」
長谷川順也「自動車産業の転換と環境保全―環境意識によって転換を迫られた自動車産業の今後―」
日佑亮「日韓文化交流と政府政策」
金澤俊介「竹島問題と日韓の教育、領土政策」
渡邉もえみ「ジェンダー問題緩和に向けて―雇用の視点から―」
中村沙南「子ども兵増加の複合原因―地域からのアプローチ―」
松野沙貴「平和な社会構築の為の文化交流の役割」
永易実紗「人道的介入は真の紛争解決方法なのか」

学生たちは、自らの関心に基づき、さまざまなテーマで卒業論文を執筆しました。ゼミ生たちは、不慣れな論文を執筆するのに四苦八苦したことでしょうが、それなりの達成感も味わったはずです。他方、指導する私はといえば、学生との知的格闘でヘトヘトになりました(苦笑)。12人のゼミ生に対して、提出された草稿を読んで朱を入れて(あるいは、ワードの校閲機能をつかってコメントして)返却することを何度も繰り返えすと、さすがに疲れます。とはいえ、私も学部・大学院時代に、恩師の先生に同じように添削を通じて鍛えてもらったのですから、今度は、それを大学教師として学生に行うのは、当然のことでしょう。

ここでは12本の卒業論文の中から、高林論文と大瀧論文を簡単に紹介することにします。

高林論文は、「悪魔の兵器」地雷が引き起こす問題を解決する上で、いかにNGOが重要な役割を果たしているかを論証した力作です。同論文は、「地雷の博物館」と呼ばわるカンボジアを事例にして、NGOが地雷被害者に対する包括的ケアを実行していることを豊富なデータを使って明らかにしています。

大瀧論文は、国際社会における正義とは何か、という難解な哲学的問題に正面から取り組んだものです。同論文は、日本でブレイクしたマイケル・サンデルの正義論を批判的に検討した上で、人権こそが人類の共有の正義であると主張しています。そして、国際社会に共通する正義としての人権概念の構築は、ユルゲン・ハーバーマスのコミュニケーション行為を通じて実現可能であるという結論を、キリスト教徒とイスラム教徒の対話の事例から導き出しています。

両論文は、それぞれ異なるテーマに取り組んでいますが、共通して優れたところがあります。それは、先行研究を吟味した上で、新しいアイディアをだそうとしていることです。もちろん、学部生の書いた論文ですので、先行研究の調査は「あまい」です。しかしながら、先行研究にきちんとあたり、その問題点を明らかにして、それを克服しようとした姿勢は評価できると思います。学部の卒論で、こうした社会科学の基礎的な手続きを行うことは、意外とできないものです。

そのほかの卒業論文も、キチンとリサーチクエスチョンを立て、各種資料を調べて、それに対する答えを実証的に導いています。ゼミナールの指導教員としては、卒業論文の執筆による「批判的思考」のトレーニングが、ゼミ生の将来に活きてくれることを願うばかりです。

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スキー技術とマテリアル

2012年01月15日 | スポーツ
2011-2012スキーシーズンは、雪不足が心配されましたが、このところの寒波で各スキー場の積雪量は軒並み増えています。ただ、私がよく利用する長野県の白樺湖近辺のスキー場の積雪量はなかなか増えないようです。この地方にも、今後、まとまった雪が降ってほしいと願っています。

ところで、昨シーズンにスキー板、今シーズンはブーツを替えたことは、以前にブログで報告しましたが、ようやくその成果が出始めたことを(勝手に)実感しています。私の滑りも最も悪いところは、腰が折れてお尻が落ちてしまうことでした。その結果、荷重(圧)がスキーの板に適切に伝わらないため、スキーが「たわみ」ません(しなりません)。そうなると、現在のカービングスキーの特性を活かせなくなり、きれいなターン弧を描けないばかりか、滑走性(スピード感や安定性)も損なってしまいます。

ここ数年、この欠点を是正するために、さまざまな練習を試みてきたのですが、根本的な改善にはいたりませんでした。そこで、昨シーズンが終わった直後、思い切って旧知のスキープロショップの知り合いに相談したとことろ、ブーツを替えることを勧められました。自分としては、自分の滑りの悪さを道具のせいにしたくなったこともあり、また、それまで使っていたブーツもまだ十分に使えることもあり、買い替えに躊躇したのですが、ブーツを新しくすれば「滑りは絶対によくなりますよ」との知人の進言を信じて、アトミックの新しいブーツを購入した次第です。

結果は、プロの知人の言うとおりでした!もちろん、まだまだ滑りに改善すべきところは多いのですが、「腰が折れて尻が落ちる」悪い癖は、改善しつつあります。これは多分に新しいブーツのおかげだと思っています。なぜなら、一昔前と違い今のブーツは甲高ではないため、ターン中に荷重ポイントをつま先からかかとに移動することが、割とスムーズにできるからです(逆に、甲高ブーツの場合、荷重ポイントをかかとに移そうとすると、自然に尻が落ちてしまいます)。今シーズンは、滑れば滑るほど、マテリアル(道具)の大切さを実感しています。

よく考えれば、下手であればあるほど、マテリアルが滑りに与える影響は大きいのでしょうね。エキスパートであれば、道具の弱点を技術でカバーできるのでしょうが、下手であればあるほど、それが難しくなります。だったら、下手な分、道具に助けてもらわないとうまく滑れないということでしょう。

そうそう、最後に、身内の話で恐縮ですが、小4の息子がSAJジュニア1級(+後日、SIAジュニアゴールド)に合格しました。これも一部にはマテリアルが影響していると思います。息子が昨シーズン終わりに、海和俊宏さんのレーシングキャンプに入った際、コーチから「板が短すぎて、先に走らない。もう少し長いのに買い替えたほうがよい」とアドバイスされました(私は、このことに気付かなかったのですが、指摘された後、息子の滑りを見てみると、全くその通りでした。さすがは一流のコーチだと感心しました)。そこで、私にブーツの買い替えを勧めてくれたプロショップの知人に相談した上で、ATOMIC Race10 (150cm)に買い換えました。前の板より20㎝も長くなったので、息子は当初、扱いに苦労していましたが、滑るごとに慣れて行き、念願のジュニア1級+ジュニアゴールドを取得することができました。

今回得た教訓は、「下手だからこそマテリアルは大切」ということです。もっとも、スキーの板やブーツは決して安くはありませんので、頻繁には買い替えられません。だからこそ、プロのアドバイスが有用なのでしょうね(私の親友は、スキー板を買い替える際、ガーラ湯沢スキー場のエキスパートレンタルで13台を試し履きして、新しい板を選びました。ここまでやれば、自分にピッタリの板を選択できるでしょうね)。

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猪口孝著『実証政治学構築への道』を読んで

2012年01月13日 | 研究活動
私が専門とする政治学/国際関係論の学界では、猪口孝氏は、まさに「知の巨人」です。猪口氏は、これまで数え切れないほどの著作や論文など日本語のみならず英語や各国語で発表しており、私にとっては雲の上の存在です。

『実証政治学構築への道』は、その猪口氏が、御自身の来歴と学問を振り返った「自叙伝」です。同じ学問分野を専攻する私としては、猪口氏がかくも膨大な業績をどうやって作ってきたのか、かねてからたいへん興味がありました。ですので、本書は一気に読んでしまいました。



同書には、刺激に満ちた様々な記述があるのですが、その中でも、私が興味深く感じた部分を独断的にピックアップしたいと思います。

「私をその後も悩まし続けるジレンマ…つまり、英語でいいところに刊行できないと日本語の刊行が増え続け、日本列島のなかでだけ回り続ける。英語でいいところに刊行しようとし始めると、だいたいすぐには刊行できず、改定や拒否が続きやすい。同じ論文の原稿を二年も三年も弄り続けることになりかねない」(30ページ)。

こんなのは朝飯前のごとく、画期的で厖大な研究論文や学術図書を英語で量産している猪口氏でさえ、このようなジレンマに悩まれていたことを知って、少し驚いた次第です。

「日本社会では学術研究で文科系と理科系を分け、血液型と関連させたりする愚かな考えもあるが、実証主義でいく限り、文科も理科もない。すべて真実を究明することを目的としている。…それが元気良く恒常的になされる仕組みのない社会では、怪しげな迷信や偏見が幅をきかせたりする」(62-63ページ)。

まったくその通りです!文学などの人文学系は別として、日本における文系・理系という学問の分け方は、私も常におかしいと思っていました。社会科学であれ自然科学であれ、科学は科学であるはずです。にもかかわらず、こうした当たり前の考えは、日本では非常に弱く、科学=理科系という等式が一般的な通念となっているようです。そうであれば、社会科学とは、一体、何なのでしょうか?

私が奉職している国際学科は、「国際学」を専門に掲げる研究教育組織であり、「国際学」は社会科学に分類されると言ってよいでしょう。ところが、国際学科に入学してくる学生のほぼ全員が、「国際学」は社会科学であるという認識を全く持っていません。国際学=国際問題の「時事評論」だと勘違いしているのです。もっとも、若い学生たちが、そう勘違いするのも仕方ないかもしれません。なぜなら、日本社会において、文系は科学ではないといった観念が幅を利かしているのですから…。

「国家の違いを超えて説明できるような理論的枠組は、ほとんど米国にしか生まれなかった。…米国以外で国際政治学をやろうとすると、非米国の様式を意識せざるを得ないが、母国で評価されても様式の違う米国ではあまり流布しない。逆も逆で米国流でやっても母国では評価されにくい。そこで私のアドバイスは両方を身につけることである。具体的には、分析的な実証主義的な方法を身につけることと歴史地域的な経路依存的説明も身につけることである」(142ページ)。

これは非常に重要な方法論上の指摘だと思います。未熟ながらも、私も同じようなことを考えながら、拙著『パワー・シフトと戦争』を執筆しました。もちろん、上記の両方の方法を身につけるまでには至っていませんが、理論と歴史・地域の両方を意識して研究したことは確かです。

最後に、以下を引用して締めくくります。
「私は…シラバスの充実や講義方法の改善などを図った。だが、その帰結は学生が極端に少なくなることだった」(151ページ)。

笑うに笑えない話です。同じような経験をした大学教員も多いのではないでしょうか?私もその一人です。私は、いくつかの大学で「国際政治学」に類する科目を長年にわたり担当しています。「グローバル・スタンダードの国際政治学」の授業をしようと意気込んで、同科目の授業を組み立てる際、国際政治学で高い評価を受けている、北米の著名な大学の「スター教授」のシラバスを入手して、それを真似た授業を行ったこともありましたが、結果は、受講生の激減でした(苦笑)。もっとも、その最大の原因は、「平凡教授」の私が、愚かにも「スター教授」をまねたことにあったのでしょう。くわえて、読書課題やレポート・論文などの課題の出し方にも問題があったと反省しています。

本書『実証政治学構築への道』は、「執筆を職業、趣味、習慣の三位一体としている」猪口氏の知的バイタリティとタフネスが表れ、学問上のエピソードがちりばめられた、とりわけ政治学徒にとっては、刺激的な自伝だと思います。

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