野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

『海洋国家日本の構想』(高坂正堯著)から考える日本のグランド・ストラテジー

2011年08月30日 | 研究活動
高坂正堯氏の『海洋国家日本の構想』(中央公論社、1965年)は、日本のグランド・ストラテジー(大戦略)を示した戦略論の古典ともいえる著作です。本書は約半世紀前の1965年(私が生まれた年!)に書かれたものですが、現在でも通用すると思われる重要な主張がいくつも展開されています。本書が現代の古典たるゆえんは、ここにあります。

現在、日本の立場は「日米同盟」と「東アジア共同体」の間で、揺れ動いているようです。単純化して言えば、アメリカにつくか、それとも中国につくか、ということです。もちろん、実際の外交はそう単純ではありません。日米同盟と東アジア共同体は必ずしも相互に排他的ではありません。ですから、日米同盟の深化と東アジアの制度化を同時に追求することは、日本の国益にとって必ずしもマイナスではないでしょう。その反面、古典的な戦略論は、戦略目標のあいまいさを戒めています。こうした戦略の教訓に従えば、日本は自国の立場を明確にしなくてはなりません。

戦後日本の立ち位置は明確でした。すなわち、アメリカ側についたということです。この点に関する高坂氏の説明は、簡潔で説得力があります。

「太平洋戦争は…日本とアメリカの間の太平洋の争覇戦を終了させ、日本をアメリカの勢力圏のなかに入れた。一方、中国が共産化し、アメリカがこれに対して不承認政策をとるようになった結果として、日本と中国のつながりは絶たれた。…かくて、日本にとって残された道はひとつしかなかった。それは『脱亜』を徹底させ、『極西』の国としてその発展に全力をあげることであった」(中公クラッシック版、193ページ)。

すなわち、日本は「太平洋の海洋国家(極西の国)」として、太平洋の「覇権国」アメリカと同盟を維持することにより、国家を運営してきたということです。これが日本のグランド・ストラテジーの根幹でした。ところが、近年、こうした戦略を揺るがすような変化が、東アジアで起こっています。それは言うまでもなく中国の台頭です。中国の軍事力や経済力の急速な強化は、日米中のバランス・オブ・パワーを変動させています。この国際構造の変化を抜きにして、日本外交の迷走はもちろんのこと、東アジア共同体構想の浮上や沖縄米軍基地の普天間移設問題の本質は見えてこないでしょう。

驚くことに、高坂氏は、現在の日本が直面している、こうした戦略上のジレンマを約半世紀も前に明確に論じていました。

「中国の台頭によって、防衛・外交をアメリカに依存するという戦後日本の政策の前提が崩れ始めている…中国の台頭は、日本にふたたび『極東』の国としての性格を与え始め、それによって、東洋と西洋の間のアンビバレンス(両面性)という悩みを復活させた」(213ページ)。

卓見と言うほかはありません。この悩みこそが、今の日本外交を漂流させているわけです。では、こうした漂流から抜け出すには、どうすればよいのでしょうか?再度、高坂先生の議論の核心部分に耳を傾けてみましょう。

「日本の安全保障を支えるもっとも基本的なものは海洋の支配であり、そして今日、世界の海はアメリカの支配下にある。そのアメリカ海軍に逆らって、日本は安全保障を獲得することはできない」(242ページ)。

ただし、高坂氏の主張は「対米追従」ではありません(米軍の本土撤退にも言及しています)。地政学上の与件から、日本の戦略を組み立てているのです。国際環境は日本の選択肢を制約します。こうした制約の下、日本は巧みに行動せざるを得ません。この前提にたって、高坂氏は、個別の日本の対米・対中関係について、かなり洗練された議論を展開しています。それゆえ政策提言はややあいまいです。詳しくは、『海洋国家日本の構想』の第四部「海洋国のための施策」を読んでほしいのですが、それでも「海洋勢力」としての日本の立場は、こと安全保障に関しては、あくまでも日米同盟に軸足を置くということのようです。

高坂氏の『海洋国家日本の構想』は論争的な著作かもしれません。彼が主張する「グランド・ストラテジー」には賛否両論あることでしょう。それでもなお、本書が戦略論の優れた著作であることに、多くの人は異論を唱えないでしょう。海外で活躍する数少ない日本の国際政治学者の1人である川剛氏は、日本の戦略論の根本問題をこう指摘しています。日本人が「世界政治のグローバル・パースペクティブ」の素養を蓄えようにも、「世界規模での権力政治の性質を解説した日本語の著作が少ない」(川剛「国際権力政治の論理と日本」原貴美恵編『「在外」日本人研究者がみた日本外交』藤原書房、2009年、246ページ)。本書は、そのための貴重な1冊と言えるのではないでしょうか。

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ジョージ・オーウェル『1984』の今日的意義

2011年08月27日 | 日記
ジョージ・オーウェルの名著『1984』高橋和久訳(早川書房、2009年)は、「ビッグ・ブラザー」なる独裁者率いる「党」が個々の人間の内面まで支配する全体主義世界を描いた小説です。同書は「新訳版」が数年前に出版され、それ以来気になっていたのですが、ようやく新訳で『1984』を読み返すことができました。

『1984』は、大学生の時、永井陽之助先生が授業で言及されたのをきっかけに興味を持ち、旧訳で読みました。同書の映画も見ました。偶然ですが、私が大学に入学した年は、同書のタイトルの1984年です。当時は「バブル」にわく世の中だったこともあり、本書が批判の対象としたソ連も脱社会主義と崩壊の過程にあり、したがってオーウェルの主張にあまりリアリティを感じることがありませんでした。したがって、彼の主張や価値もよく理解できませんでした。

『1984』は論争的な小説であり、今でも、その理解が不十分なのは言うまでもありませんが、今回、改めて読み直したところ、本書の重みに圧倒されました。人間の内面の深い描写、社会構造の闇を深層をえぐりだす洞察、どれをとっても圧巻というほかありません。



本書については、たくさんの書評や論評があります。それらを概観することさえ私の能力を越えていますが、その中には、イデオロギーとしての社会主義・共産主義が崩壊した「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)を迎えた現在、本書は一定の役割を終えたとの評価もあるようです。確かに、現在と本書が書かれた1949年は違います。しかしながら、人間本性や文明がたった数十年で見違えるように「進歩」するものでしょうか?

『1984』は、究極の全体主義国家の恐ろしさを描いたフィクションです。しかし、本書が単に時代遅れの全体主義への警告だとか、架空の物語と簡単に片付けられないのは、そこに人間の変わらぬ真実の1面が不気味にえぐりだされているからではないでしょうか?本書を貫くキーワードの1つが「二重思考」です。「戦争」と「平和」は、その端的な例です。自由民主主義のための「戦争」や千年王国を樹立させるための「暴力革命」は、まさに「二重思考」の産物でしょう。そして、これらを過去の遺物と片付けるわけにはいきません。なぜならば、それは古今東西、普遍的に存在するからです。こうした欺瞞や矛盾から人間は逃げられない、オーウェルはそう警鐘を鳴らしているように思います(マックス・ウェーバーもそうでしょう)。

『1984』において、私が印象に残ったのは以下の1節です。

「人類は自由と幸福という二つの選択肢を持っているが、その大多数にとっては幸福の方が望ましい」(406ページ)。

全体主義国家の支配者はもちろん、「独裁者」はこうした人間の「性向」に付け込んできます。確かに、楽しく豊かに生活できることを望まない人はいないでしょう。しかしながら、こうした「幸福」の陰には、全体主義の萌芽が潜んでいるのです。ヒトラーは公共事業拡大による失業者の救済をファシズム構築に利用しました。「開発独裁」や現在の「北京コンセンサス」なるものなど、決してオーウェルの上記の指摘と無関係ではありません。

オーウェルのメッセージは普遍的であり、今も、われわれに重い課題を突き付けているように思います。


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柴山太『日本再軍備への道』読後感

2011年08月22日 | 研究活動
日本の再軍備研究の最新成果である、柴山太『日本再軍備への道:1945~1954』ミネルヴァ書房、2010年(¥9000)を読了しました。本書は、日本が敗戦から再軍備に至る過程を英米の世界戦略の観点から明らかにしています。実証史学の手法を用いた一次史料による綿密な論証は圧巻です。ボリュームは2段組みの約800ページです。文字通り、重厚な学術書です。

私は、『日本再軍備への道』を最初から最後まで読むのに、約1週間ほどかかりました。それもそもはずです。「あとがき」に「本書の完成には四半世紀以上を要した」(765ページ)とあるように、それだけの大変な労力と時間をかけた大著ですので、読むのに時間がかかるのも当然でしょう。歴史家の圧倒的な底力と研究への執念を見せつけられた感じがしました。

本書については、吉田信吾氏(日本学術振興会特別研究員)が、日本財団のウェッブ・ページに丁寧な書評を発表しています。http://www.tkfd.or.jp/research/project/news.php?id=785 本書の要約や学術的な位置づけ、評価については、吉田氏の書評に譲ることにして、ここでは、以下に私なりの読後感を述べてみたいと思います。

『日本再軍備への道』を読んで、はじめに思ったことは、日本の軍事・安全保障政策に関する本格的な国際関係史研究の嚆矢ではないか、ということです。これまで戦後日本の安全保障政策については、いくつもの素晴らしい研究が発表されています。ただし、多くの先行研究は、日本政治外交史や日米関係史に基づくものでした。本書がこうした先行研究と一線を画しているのは、より広い文脈、すなわちアメリカやイギリス連邦の大戦略の視点から、日本の再軍備を問い直しているところではないでしょうか?極論すれば、戦後の日本の命運は、米英が握っていたということを圧倒的な一次資料を駆使して論証しているのです。もちろん、その中で、日本も「弱者の恐喝」戦略を巧みに用いながら、自らの政策を実現しようとするのですが、それも米国のさまざまな制約下でのことにすぎません。こうした本書の底流にある発想は、国際構造(パワー配分)の国家への影響力を重視するネオリアリズムに近いと言えるでしょう。

本書では、米英の対ソ脅威認識と対ソ戦略の変遷が克明に描かれ、その中に日本の再軍備プロセスが位置づけられています。そこで私の頭に浮かんだ疑問は、ソ連は米英日の動向をどのように認識しており、どのような対抗策を講じようとしたのか、ということです。たとえば、本書では、日本の再軍備には対ソ抑止の役割が米英から与えられていたと論じられています。

「1950年末から、米軍部がソ連による対日侵攻の可能性を認識すると、日本の陸上兵力にはソ連の対日侵攻を抑止する役割が期待された。すなわち、第三次世界大戦勃発を防止する重大な任務である」(568ページ)。「(日本の軍事力は)ソ連の対日侵攻を抑止することで、世界戦争が勃発することを未然に防(いだ)」(762ページ)。

このことは非常に重要な指摘です。そこで、実際、ソ連は日本再軍備をどう認識し、それにどう対応しようとしたのか、興味がそそられます。そもそも、ソ連は実現性のある対日侵攻計画を持っていたのか?持っていたとすれば、それはどのようなものだったのか?柴山先生の指摘通り、日本の再軍備はソ連の日本への攻勢(のみなず西側全体への攻勢)のインセンティヴをはたして低下させたのか?これらの諸点が旧ソ連の一次資料により明らかになれば、そのことは国際関係史のみならず抑止理論や予防戦争理論などの国際関係理論に大きな示唆を与えることになるかもしれません。

最後に、これは欲張りなことかもしれませんが、本書の研究と先行研究の違いを明示して頂ければ、本書の学問的価値や貢献がより鮮明になり、より後学のためにもなると思いました。吉田氏の書評にもありますが、『日本再軍備への道』は、いくつもの重要な学問的貢献、すなわち先行研究とは異なる「新解釈」を提示しています。ただし、それはかなり埋め込まれた形で書かれていますので、とりわけ初学者や日本再軍備あるいは戦後直後の国内冷戦を直接の専門にしない研究者には、やや分かりにくいように読めました。

いずれにせよ、本書は戦後日本の安全保障の起源をより広い文脈で叙述する大作であることに間違いはありません。日本の安全保障研究の必読書になることでしょう。さらには、本書の出版をきっかけにして、戦後国際関係史のさらなる発展に期待せずにはいられません(参考までに、第二次世界大戦までの国際関係史については、有賀貞『国際関係史――16世紀から1945年まで』東京大学出版会、2010年という、素晴らしいテキストがあります)。


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パワーシフト研究および米中関係に関する最新論文

2011年08月08日 | 研究活動
安全保障研究の英文専門誌『インターナショナル・セキュリティ(International Security)』は、この分野の最高峰の学術雑誌です。その『インターナショナル・セキュリティ』誌の最新号(2011年夏号)に興味深い論文が掲載されました。「単極後の国際関係――米国衰退期における中国の国際秩序構想("After Unipolarity: China's Visions of International Order in an Era of U.S. Decline")」という論文で、著者はランドール・シュウェラー氏とXiaoyu Pu氏です。

同論文の主張を一言で要約すれば、「台頭する中国は、不満を持つ挑戦国(現状打破国)にはならない。中国は『怠け者(shirker)』として、グローバル・ガバナンスに貢献することなくパワーの拡大にまい進するが、米中のパワー・トランジッションは平和的に進んでいく」という仮説です。

論文の前半は、中国が現行秩序に「ただ乗り」したり抵抗したりしながらながら、国益を増進しているプロセスが説得的に論じられています。私は「なるほど」と納得しながら読んだのですが、後半には疑問を感じました。これから、そのことを論じたいと思います。

同論文は、従来のパワー・トランジッション理論に代わって、新しいは「パワー拡散理論(power diffusion theory)」を提唱し、それに基づいて米中関係を論じています。標準的なパワー・トランジッション理論は挑戦国が覇権国に追いつき追い越す過程で、戦争を起こしやすいとしていました。しかし、両氏はこの理論を棄却します。そして、代替理論として、「パワー拡散理論」を打ち出しています。この理論」は、以下の仮説から構成されています。

「パワー拡散理論によれば、台頭国は不満を持つ挑戦国にならない。台頭国は国際秩序を戦争で転覆しようとしない。その代わりに、台頭国は現存する秩序にただ乗りする一方で、そのコストを衰退する覇権国に支払わせようとする。…台頭国はコストの高い覇権戦争など選択しない。したがって、(覇権交代や多極化などにつながる)パワーの拡散は平和的に進行する」(pp. 65-66)。

このように同理論は、戦争の可能性を正面から捉えるパワー・シフト理論やパワー・トランジッション理論とは違います。同理論は、パワー配分の変化がもたらす楽観的帰結を予測しています。では、その理論的根拠すなわちロジックは、どのようなものでしょうか?この理論は、シュウェラーらによれば、以下の前提条件に基づいています(p. 66)。

1.安全保障はふんだんに存在すること(すなわち、安全保障は「希少」ではないこと)。
2.領土の価値は低いこと。
3.強力な自由主義のコンセンサスが存在すること。

こうした条件下は、台頭国が覇権国と領土を争ったりせず、ひたすら自国のパワーや利益を内向きに追求することを可能にするということです。言うまでもなく、同論文では、台頭国は中国、覇権国は米国を指しています。そしてシュウェラーらは、「パワー拡散理論」に基づき、米国による単極構造は台頭国である中国を巻き込む戦争などを引き起こすことなく、他のシステムに「平和裏に」移行していくことになる、と結論づけています。

私は、この立論と結論はおかしいと思います。そして、その根源は論文の実証部分にありそうです。この論文は、中国の軍事・安全保障の動向にほとんど触れていません。つまり、「パワー拡散理論」の予測に反するような事例を避けているということです。確かに、米中が覇権交替の戦争へ突入しそうな兆候はありません。中国は「責任あるステーク・ホルダー」になることを忌避していますし、G2構想にきわめて消極的です。こうした「逸脱事象」は、この理論で上手く説明できそうです。しかし、論文「覇権後の国際関係」には、この理論では必ずしも説明できそうにない、重要な事象が欠落しています。たとえば、中国の異常な軍事費の増加や軍事力の近代化、南シナ海をめぐる海洋進出、第1列島線・第2列島線にみる領土的野心などです。

もし安全保障がふんだんに存在するのであれば、中国はなぜ軍事力の強化にひた走るのでしょうか?第5世代ステルス戦闘機の開発、旧ウクライナ空母の改修および空母建造計画、(増強とはいえないまでも)核戦力の強化、海軍の海洋進出、サイバーウォーへの対応、宇宙の「軍事」利用などの証拠は、米中関係に安全保障がふんだんに存在しているという前提条件に疑問を投げかけます。中国は十分な安全保障を享受しておらず、むしろ米国を「脅威」視しているからこそ、こうした行動をとっているのではないでしょうか?さらに、中国はスプラトリー諸島の主権に固執しており、第1列島線や第2列島線のビジョンも示唆しています。これらの証拠は、中国が少なくとも「領海」に高い価値を認めていることを示しています。最後に、米国と中国は、民主主義や人権など、国際秩序の革新的理念に対して価値観を異にしています。中国はいまだに「共産党一党独裁」国家です。こうした政治的価値の根本的相違があっても、米中間に「強力な自由主義のコンセンサス」は成立するのでしょうか?

現在の米中関係は、シュウェラーらとは違う説明もできます。私が拙著『パワー・シフトと戦争』で主張したように、米中関係は「防御の優勢」に影響されているかもしれません。すなわち核兵器と広大な太平洋が戦争のコストを高めているために、一定の戦略的安定を保っているという可能性です。中国は米国に挑戦しようして、熾烈な安全保障上の競争を行っているように、私には見えます。ただ、このことが米中の敵対関係のスパイラルを上昇させないのは、米中関係が防御有利に支配されているからだとも説明できるのです。言うまでもなく、中国の「低姿勢」行動と中国が現状の秩序に不満を持つ挑戦国にならないことと同義ではありません。

論文「覇権後の国際関係」は、既存の国際関係理論や米中関係の現在と展望に一石を投じる野心的な研究でしょう。ただし、同論文は軍事・安全保障面での米中関係を十分視野に入れていないために、やや偏りのある分析になっているようです。こうした研究は、率直に言って、米中関係の「本質」を見誤ってしまう恐れがあると思います。

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拙著『パワー・シフトと戦争』の書評について

2011年08月01日 | 研究活動
日本国際政治学会の学会誌『国際政治』第165号(2011年7月)において、拙著『パワー・シフトと戦争――東アジアの安全保障』の書評が掲載されました。評者は、芝井清久氏(統計数理研究所)です。芝井氏および学会関係者には、この場を借りて、拙著を書評して頂きましたことに心より御礼申し上げます。言うまでもなく、学問は批判を通して進歩します。したがって、既存の研究に対する批判は、非常に大切なことです。

拙著に関する芝井氏の問題提起は、2点に集約されるように思います。1つは、パワー・シフト理論が反証不可能な万能理論であること、もう1つは、説明能力におけるパワー・シフト理論と競合理論の優劣です。

1つ目の問題について、芝井氏は拙著の中心命題を次のように批判しています。「本書の定めるパワーの四つの要因(軍事力・経済力・同盟関係・地理)は、事例ごとに戦争の根源であったり補助的な要因であったりと、従来、その重要性は事例ごとに変化するものである。それにもかかわらず、全てをパワー・シフトという1変数に還元してしまえば、パワー・シフトは常に(戦争の)『原因』として成り立ちうる」(187ページ)。実は、このことは他の研究者からも、違った方向から指摘されていました。すなわち、パワー・シフトが戦争を引き起こさなかった事例はないのか、ということです。

こうした批判に対する私の回答は、パワーシフトが戦争を引き起こすか否かは、先行条件、たとえば「攻撃・防御バランス」に大きく左右されるということです。したがって、パワー・シフトが起こっても、台頭国が攻撃において相手国に優越していなければ、戦争を起こすことはないというのが、私の基本的な仮説です。そして、この仮説を裏づける事例、すなわち攻撃の優越という条件が整わないために、戦争を誘発することなくパワー・シフトが起こることは、よくあることだと思います。拙著でも少し言及しましたが、スプラトリー諸島をめぐる中国と東南アジア諸国の関係も、その1つの事例ではないでしょうか?

逆に、相手国に対して攻撃能力で優っていなかったにもかかわらず、台頭国が戦争を始めた事例があれば、これは有力な反証事例になります。そして、このような事例は、私の理論に深刻なダメージを与えることになります。

2つ目の問題について、芝井氏は、こう問題点を指摘しています。「この(パワー・シフト)理論は万能理論の傾向があるため…他の分析手法よりも説得力があるとは必ずしも言い切れない」(187ページ)。これは要するに、パワー・シフト理論と競合理論の説明能力の優劣の問題だと思います。私としては、可能な限り、競合理論からパワー・シフト理論を守ったつもりですが、それでも確かに、拙著では、全ての競合理論を棄却できませんでした。したがって、パワー・シフト理論が、あらゆる戦争原因理論において、最も説明能力が高いと言い切れません。ただ、欲を言えば、後学のためにも、どの競合理論がパワー・シフト理論より説明能力に優れるのか、明らかにしていただければと思いました。そうすれば、もっと建設的な議論ができることでしょう。この点が少し残念です。

また、この芝井氏の2つ目の批判は、私の理論が、国家の衰退を変数として十分に操作化しきれていないことと関係しています。その結果、パワー・シフト理論は、衰退の速度が早く、パワー回復の手段が少なければ、衰退国が戦争に訴える危険性は増すという、「精緻さや土台の堅固さに欠ける」(187ページ)仮説にとどまっています。今後の研究課題です。

戦争原因研究の大家である山本吉宣先生は、パワー・シフト理論といった国際政治理論の役割について、青山学院大学の退任最終講義で次のように述べています。「国際政治の理論(パラダイム)は…国際政治の変化を大づかみにすることを可能にします」(山本吉宣「国際政治の理論」『青山国際政経論集』第84号、2011年5月、52ページ)。パワー・シフト理論のようなシステム理論の「よしあし」は、国際関係の変化やパターン、大きな傾向をどれだけ説明できるかにかかっています。はたして、拙著の理論は、国家間関係における戦争発生プロセスを「大づかみにすることを可能」にしていると言えるでしょうか?その答えの探究は、ライフ・ワークになりそうです。

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