野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

地味だが重要なインソール

2016年04月17日 | スポーツ
スキーヤーがマテリアルを考える際、一般的には、板とブーツに注目することでしょう。「◯◯のニューモデルは、・・・」といった評価はよく目にします。他方、板とブーツの接点となるインソールについては、どうでしょうか。一般スキーヤーにおいて、板やブーツよりも、インソールを気にする人は少ないと思います。しかし、インソールは、スキーにおいて、極めて重要な役割を果たしています。なぜなら、インソールが板とブーツと脚をつなぎ合わせるからです。板を操作するのも、板からの圧を感じるのも、インソールを経由してのことです。ですので、インソール次第で、板の操作も足裏感覚も左右されることになります。

私はスキーシーズン終盤になって、このことを不覚ながら痛感させられました。今シーズン、私なりにスキー技術の向上に努めましたが、満足できる結果に至りませんでした。それを道具のせいにしたくなかったのですが、娘がシーズン初めにインソールを変えた直後に内倒のクセが劇的に改善されたこと(それもあり、今シーズン、SAJ1級合格)を思い出し、シーズン終盤になってですが、思い切って、プロショップ「オーレ」さんに、ブーツの相談に行きました。

結論は、「もっと早くプロに相談して、調整してもらえばよかった」と言うことです。インソールの調整により、少なくとも、足裏感覚とスキー操作が劇的に変わりました。雪面の変化が足の裏でよりダイレクトに感じられるようになり、スキー板をずらしたり切ったり、板の前後を使う操作が、格段に楽になったのです(とりわけ、小回り)。プロの力量には、恐れいります。

オーレのH店長は、私のブーツのインソールを見るなり、「トップが使えていませんね」「左右でかなりの違いがありますね」と、一瞬で判断されました。そして、いくつかの「診断」を受けた結果、Hさんは私の体軸の「歪み」を見抜き、それをインソールの調整で直してくれました。すなわち、私は自然に立つと左足に重心が傾いてしまうのです(その証拠に、普段履きの靴を見ると、左靴の内側の外かかとがすり減っている反面、右の靴の内側はきれいなままでした)。ですから、左外足はカカトで荷重してターンできる反面、右外足の際には板に圧をかけにくいのです。道理で、右外足のターンを苦手にしていたわけです(+スキーのトップもうまく使えない)。これは私にとって、盲点でした。なぜなら、右足は利き足だからです。利き足のほうが、いろいろと動かしやすいと考えていたのです。

私のスキーの悪い「クセ」は、右外足(左ターン)時に、山回りを長く取ってしまい、その結果、山側に重心が残り、クロスオーバー(切り替え)がうまく行かず、次のターンに入るのが遅れることでした。もちろん、この欠点は自覚していましたので、それを直そうとして、いろいろと練習したのですが、なかなか修正できませんでした。それはそうでしょう。身体の構造上、右外足にうまく乗れないからこそ、谷回りで右外足に圧をかけるのが遅れ、山回りで右外足に乗る時間を長く取ってしまうのです。つまり、私の滑りは、身体の構造に対して合理的に反応して滑っていた結果だったということです。左右のバランスが崩れており、それを土台=インソールで修正してないのですから、そうなるのが自然です。逆に、スキーの土台、すなわち両足の「土台」を安定させれば、滑りも改善に向かうということでしょう。

スキーシーズンも残り少なくなりましたが、これでもっと春スキーが楽しめそうです。H店長に感謝!


単極世界の国際政治理論

2016年04月12日 | 研究活動
書評論文「単極世界の国際政治理論―リアリズム、英国学派、複雑系―」が、日本国際政治学会の学術雑誌『国際政治』第184号(2016年3月)に掲載されました。拙稿の執筆にあたっては、編集委員の先生方には、お世話になりました。とりわけ勝間田弘氏(東北大学)には、論文の構成について、的確なご助言をいただき、感謝しております。泉川泰博氏(中央大学)も草稿に目を通していただき、アドバイスを与えて下さいました。学会誌の規則上、謝辞は書けませんので、この場を借りて御礼申し上げます。言うまでもないことですが、文責はすべて私にあります。



この書評論文では、単極システムの理論に関する日英米それぞれの研究者が上梓した学術書を1冊ずつ取り上げ、それらの意義や問題と今後の展望などを論じました。日本の研究からは、草野大希氏(埼玉大学)の『アメリカの介入政策と米州秩序』、イギリスの研究からは、イアン・クラーク氏(アベリストウィス大学)の『国際社会における覇権(Hegemony in International Society)』、アメリカの研究からは、ヌノ・モンテーロ氏(イェール大学)の『単極政治の理論(Theory of Unipolar Politics)』です。

詳しくは、拙稿をご笑覧いただければ幸いです。


レッド・テープ

2016年04月07日 | 教育活動
「レッドテープ」は、「杓子定規ぶり」とか「わずらわしい煩雑なルールや規制」を意味する言葉です。このレッド・テープにイライラされた経験をお持ちの方は、さぞ多いことでしょう。

私が「レッド・テープ」から、真っ先に思い起こすエピソードは、真珠湾攻撃の際、日本海軍の航空機による攻撃に対して、P40戦闘機で果敢に反撃したウェルチ大尉の処遇です。この勇敢な行動が、軍からほめたたられるかと思いきや、彼を待っていたのは、「命令ナシの無断離陸」の罪状に関する取り調べだったそうです!(佐々淳行『危機管理のノウハウ(2)』PHP研究所、1980年、32-42ページ参照)。

この強烈な逸話は、私にとって、「レッド・テープ」を嫌悪させるに十分でした。佐々氏の同書を読んで、私と同じような感想を持った方も少なくないでしょう。他方、にもかかわらず「レッド・テープ」は、今も昔も、どの組織にも存在します。なぜなのでしょうか。

『官僚はなぜ規制したがるのか―レッド・テープの理由と実態―』(ハーバート・カウフマン、今村都南雄訳、勁草書房、2015年)は、この疑問に応える現代の古典です。本書に序文を寄せたフィリップ・ハワード氏の言葉を借りれば、多様性と不信と民主主義が存在する国家において、「レッド・テープ」は、「政府(行政)における最低水準の一貫性、公正性を確保する方途」であるということです。その副産物こそが、「レッド・テープ」に付随する煩雑さや非効率性、高コストということなのでしょう。「研究に費やした時間より研究費の申請書と報告書を作成するのに、多くの時間がかかった」という類のエピソードは、われわれの「業界」における「レッド・テープ」の典型例です。



では、私たちは、「レッド・テープ」とどう付き合っていけばよいのか。私は本書を読んで、以下の一文にハッとさせられました。

「私たちは裁量と制約の間の適切なトレード・オフについて相反する感情を有し、誰もが自分自身に対しては前者を、隣人に対しては後者を欲する。こうした条件下において、それとともに生きることを学ぶこと、そのことしか(レッド・テープに対処するすべは)ないのである」(99ページ)。

こうした心理的属性を持っていることを自覚するだけでも、組織や社会における個人の行動は、より忍耐強いものになっていくでしょう。

他方、危機管理の際には、話は変わってきます。前出のハワード氏は「安全性にかかわる業務に対する政府監督となれば、おそらくはレッド・テープによってではなく、責任ある判断行使によってこそ果たすのが最善である」(序文、viiiページ)と指摘しています。佐々氏も「健全な『常識』と≪法三章≫の精神(肝賢な大綱のみを簡潔に定め、あとはそれを運用すること)によって、規則などの解釈による弾力的運用を図ることが大切である」(42ページ)と主張しています。



皆さんは、どう考えますか。



『図書新聞』に書評が掲載されました。

2016年04月05日 | 研究活動
拙いものですが、私の書評「『太平洋戦争史観』に真っ向から挑戦する力作―戦争終結過程におけるソ連の役割を再評価する―」が、『図書新聞』2016年4月9日に掲載されました。

今回、書評した図書は、小代有希子『1945 予定された敗戦―ソ連進攻と冷戦の到来―』人文書院、2015年です。とにかく刺激的な研究書でした(細かな用語のミスは散見されますが)。次々と日本の降伏プロセスの通念を覆していく、著者の文章のみならず行間から迫る主張には、圧倒されました。本書の詳しい内容については、書評をご覧いただければ幸いです。



私は現在、歴史学と政治学を融合させるプロジェクトに、政治学者として参加しておりますが、以下をはじめとする日本の政治外交史の素晴らしい研究成果に感嘆させられています。



本書は、近代日本のインテリジェンスを明らかにする画期的な研究です。ミネルヴァ書房の国際政治や外交史の叢書には、質の高いものが多いですね。学術出版に逆風が吹く中、人文書院はもちろんのこと、ミネルヴァ書房の健闘ぶりにエールを送ります。