野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

最近の戦争原因研究の展開

2012年07月28日 | 研究活動
戦争原因研究は、国際政治学や安全保障論の中心を構成する1つの分野です。近年の戦争原因研究は、主に国家の政治体制に着目した定量的アプローチが興隆する一方で、個人レベルに依拠したアプローチに回帰するものもあります。以前のブログで、後者の1つとして神経科学から戦争原因を究明しようとした研究を紹介しましたが、今日、ここで取り上げる、Richard Ned Lebow, Why Nations Fight: Past and Future Motives for War (Cambridge: Cambridge University Press, 2010) は、国際政治学の新しいアプローチに基づきつつも、伝統的な政治学や社会学の知見を援用したものと言えるでしょう。

リチャード・ルボウ氏(キングス・カレッジ)は、本書において、戦争原因のコンストラクティヴィスト分析を展開しています。すなわち、戦争とは文化的・社会的に構成されるものだ、ということです。ルボウは、戦争の原因として、政策決定者の「動機」に着目します。そして、国家の指導者を戦争へと動機づける複数の要因の中でも、彼が強調するのが「地位や名声(standing)」(と復讐)です。同書によれば、近代以降の戦争の58%は、国家の「地位や名声」を求める争いということです(p. 171-172)。戦争に勝利することこそが国家に名誉ある地位をもたらすと考え、国家は戦争へと動機づけられたということになります。



私がみるところ、ルボウ氏の著作は、戦争原因研究にいくつかの重要な貢献を行っています。第1に、コンストラクティヴィズムから戦争原因に接近したことです。その結果、既存の主要な国際関係理論が見過ごしてきた、「名声」「名誉」「精神」「欲望」「自尊心」といった非物質的要因の国際的出来事に対する影響を見直すことになりました。これは、戦争原因研究の「政治思想的アプローチ」への回帰と呼べるものかもしれません。第2に、これまでの安全保障を重視した戦争原因理論に対抗する有力な理論を提供したことです。合理的な戦争原因理論は、一般的に、国家(そして政治指導者の)「生き残り」に関連づけて、戦争の発生を説明してきました。しかし、ルボウ氏は、国家が安全保障を求めて戦争を起こすことは、一般に考えられているよりも少なく、近代以降の戦争の内の18%に過ぎないと主張しています(p. 156)そうであれば、多くの既存の戦争原因研究は、安全保障を過度に重視するバイアスがかかっているため、間違っているということになります。これに代替するのが、ルボウ氏の戦争原因の「動機理論」ということでしょう。

このルボウ氏の刺激的な主張については、安全保障研究の専門誌 Security Studies の最新号(第21巻第2号、2012年4・6月)が、特集を組んでいます。シンポジウム形式で、国際政治学の重鎮ロバート・ジャービス氏(コロンビア大学)やリチャード・ベッツ氏(コロンビア大学)らが、書評エッセーを寄稿し、それらにルボウ氏が答えています。私が印象的だったのは、両者ともに、動機のコーディングやカテゴリーの分類に問題を見出していたことです(「コーディング」=「符号化」。光の長い波長は「赤」、短い波長は「青」といったように変換すること。戦争原因の動機理論でいえば、Xは名声、Yは安全保障などと、アクターの行為を動機に変換すること)。実は、私も同書を読んだ時に、全く同じような疑問を持ちました。たとえば、政治指導者が、開戦の際に「国家の栄光や名誉」に言及するには、よくあることです。しかし、こうした発言は、戦争を起こした真の動機を必ずしも表していないでしょう。本当の理由をオブラートに包み込んで隠すのは、人間の営為では、よくあることだからです。

もちろん、こうした批判にルボウ氏も反論していますので、詳しくは、上記の専門雑誌に掲載されている、彼の応答を読んで下さい。私がルボウ氏の応答エッセーを読んで、あらためて考えさせられたことは、「合理性(rationality)」についてです。ルボウ氏は、以下のように主張します。

「合理的行動を多かれ少なかれ所与とする合理主義者とは対照的に、私は数多くの事例研究において、政策決定の非(不)合理性を立証した。…普遍的合理性など存在しない。合理的と考えられるものは、動機と文化価値で変わる関数なのだ」(Richard Ned Lebow, "The Causes of War: A Reply to My Critics," Security Studies, Vol. 21, No. 2, 2012, p. 365)。

こうしたロジックから、ルボウ氏は、将来の平和について、楽観的な見通しを立てています。イラク戦争に象徴されるように、現在の国際社会では、戦争を始めることは、国家の地位や名誉を高めるというよりは、むしろ、国家に「悪評」を与えることになるため、国家間戦争はますます時代遅れの「非合理的」行為になり、消えていくことになるだろう、ということです。確かに、ルボウ氏の言うことには一理あるようにも思いますが、こうした議論は、かつてジャック・スナイダー氏(コロンビア大学)が、コンストラクティヴィズムを「理想主義のバージョンアップ版」と批判したことに重なります(Jack Snyder, "One World, Rival Theories," Foreign Policy, No. 145, 2004, pp. 53-62)。安全保障ではなく、ランクや名誉こそが、国家を戦争へと導く、もっと強力な原動力なのでしょうか?残念ながら、ルボウ氏の研究が示した証拠は、ベッツ氏も指摘したように、弱いと言わざるを得ないでしょう。ですので、こうした結論に飛びつくのには、より慎重になるべきではないかと私は思っています。




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イランの核開発をめぐる政策論議

2012年07月20日 | 研究活動
イランの核開発問題は、深刻さを増しています。イランはアメリカの制裁措置の発動やEUの原油全面禁輸といった行為に、強く反発することでしょう。最悪のシナリオとしては、イランがホルムズ海峡を封鎖することやイスラエルによるイラン核施設への外科手術的攻撃も想定されます。イランの核開発は、まさに危機の様相を呈しています。

イランの不透明な核開発に対する対応について、日本人の標準的な考えは、おそらく「核拡散につながる(イランの核兵器の保有という)行為は何としても阻止しなければならない」といったものでしょう(『神戸新聞』7月2日)。ところが、大方の日本人には、とても考えつかないような論考が、世界的な外交雑誌『フォーリン・アフェアーズ(Foreign Affairs)』2012年7/8月号に発表されました。それが、ケネス・ウォルツ「なぜイランは核兵器を保有すべきか―核の均衡と戦略環境の安定("Why Iran Should Get the Bomb: Nuclear Balancing Would Mean Stability")」です(邦訳は『フォーリン・アフェアーズ・リポート』2012年7月号に掲載)。

ウォルツ氏(カリフォルニア大学・コロンビア大学)は、驚くことに、イランに核兵器を持たせた方がよいと主張しています。

「ほとんどの評論家や政策決定者は…最悪の結末は、イランが核武装に成功することだと考えている。だが、実施には、イランの核武装化こそが最善の結末だろう」(邦訳、67ページ)。

「え…。この人は、いったい何を言い出すのだ!」というのが、大方の反応でしょう。では、なぜウォルツ氏は、日本人がビックリ仰天するような論文を書いたのでしょうか?彼の説明を聞いてみましょう。

「現在の危機の多くは、イランが核開発を試みているからではなく、イスラエルが核を保有していることに派生している。…現在の緊張の高まりは、(イランの核兵器保有により)軍事バランスが回復されることによってのみ決着する…」(邦訳、69ページ)。つまり、イランが核兵器を保有することにより、イスラエルのみが核を保有することによる戦略的不均衡が是正される結果、この危機は終息すると言っているのです。

さらに、ウォルツ氏は、イランの核保有が核拡散の引き金になることも否定します。

「(イランが)大きな投資をし、重荷を引き受けてまで開発した核を、信頼することも管理することもできない(テロ)集団に与える道理はない。…イスラエルによる核保有が核拡散を引き起こさなかったのに、イランの核武装化がそのきっかけを作りだすと考える理由はない」(70-71ページ)。

このように、ウォルツ氏は、イランに核兵器を持たせることこそが、中東に戦略的安定をもたらすと主張しています。そもそもウォルツ氏は、「核兵器に関して言えば、今も昔も、より多くの国家が核兵器を保有するのは、よいことであろう(more may be better)」(p. 5)を持論とする学者としても有名でした。ですから、今回のイラン核保有肯定論は、彼の従来の主張の延長線上にあるということです。



このウォルツ氏の主張に、いち早く反論したのが、興味深いことに、彼の「弟子」である、スティーヴン・ウォルト氏(ハーバード大学)でした(ウォルツ氏は、ウォルト氏の大学院時代の博士論文の指導教官)。ウォルト氏は、自身のブログ("Should We Give Iran the Bomb?" Foreign Policy, June 26, 2012)において、こう「師匠」を批判して、イラン核武装化にともなう戦争の危険性を指摘しています。

「私は、アメリカにとっても中東地域にとっても、イランが核爆弾を持たないほうがよいと思う。…イランの核保有への一歩は…イスラエルの軍事行動を誘発するかもしれない。…一方が核を持ち他方が核保有に近づく移行期は、ほぼ不可避的に予防戦争を考慮させることになる」。

皆さんは、イラン核開発問題に関する、この師弟対決をどう思われたでしょうか?ウォルト氏に軍配を上げた割合が、圧倒的に高いのではないでしょうか。それはそうとして、私は、この政策論争から一つ思ったことがあります。それは、このやり取りは、良くも悪くも、アメリカの政治学者らしい「対話」だということです。アメリカの社会科学の一つの特徴は、「親(=師匠)殺し」をすることだと言われています(菅原琢「『アメリカ化』する日本の政治学」東浩紀・北田暁大編『思想地図』NHK出版、2010年、402ページ)。そうした学問的風土は、この両者の「議論」にも反映しているようです。






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地球外生命体「エイリアン」とグローバル安全保障

2012年07月17日 | 日記
私が学部生の頃、ある授業で先生が、「宇宙人が地球を襲ってきた場合、諸国家は対立を克服して協力し合えるのではないか?」と言っていました。それを聞いて、当時、私は「なるほど」と思ったのを覚えています。確かに、国際政治の世界でも、いがみあっていた複数の国家が、発生した脅威に対して共同で対処することはよくありますし、外部の脅威が国家を結束させることもよく知られています。同じようなことは、地球外からの宇宙人の「脅威」に対する「人類」にも当てはまるかもしれません。

こうした架空のシナリオは、映画「インディペンデンス・デイ」で描かれています。映画の最後では、世界各国の軍隊が結束してエイリアンと戦います。ただし、そうした事態に各国が円滑に協力できるかどうかと問われれば、国際関係論は、映画ほど簡単ではないことを教えてくれるでしょう。すなわち、各国がエイリアンの侵略に対して共同行動をとることを阻害する要因がいくつもあるということです。リーダーシップの問題、集合行為の問題(とりわけ、フリーライド)、責任転嫁、相対利得問題など、さまざまです。実際の共同軍事オペレーションをとる段階になると、インターオペラビリティなどの問題が深刻化することでしょう。

閑話休題

さて、肝心のエイリアンは宇宙に存在しており、地球にやってくることや地球を攻めてくることなど、本当にあるのでしょうか?この問いは、だれもが一度は考えたポピュラーな疑問です。そして、これは単にお茶飲み話にとどまらず、科学の問題でもあります。これまで惑星科学者や数学者、統計学者たちが、この問題の解決に挑んでいますので、ここでは彼らの答えを紹介したいと思います。

数学者のジョン・アレン・パウロス氏(テンプル大学)は、UFOの目撃は、宇宙人が来訪したことではないと主張しています。

「(仮に生命のいる惑星があるとしても、第一に)私たちの銀河が非常に大き(く)、生命を持つ星から、もっとも近い別の生命を持つ星までの平均距離が、五〇〇光年ということになる。これは地球と月の距離の一〇〇億倍にあたる。…そこまでの距離は、おしゃべりをするためにちょっと立ち寄るには遠すぎる。…(第二に)進んだ生命形態が、平均して一億年間存続するとしても、これらの生命形態は、百二十億年から百五十億年といわれる銀河の歴史の中に一様に分散している。そこで、同時に(文明が)進んだ生命を持っている銀河内の星は、一万個以下になってしまうだろう。そして、隣人同士の平均距離は、二〇〇〇光年以上にも広がってしまう。第三(に、生命体が)私たちに興味を持つ可能性は低い」(パウロス『数で考える頭になる!』草思社、2007年、86-87ページ)。

別の分析も見てみましょう。肝心のエイリアンの存在については、惑星科学者として地球外知的生命との交信計画に携わったカール・セーガン氏が「現在のところ、地球以外の場所に生命が存在するという説得力のある証拠はまだない」(セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか(上)』新潮社、1997年、147ページ。同書は、カール・セーガン、青木薫訳『悪霊にさいなまれる世界』早川書店、2009年として再販)と断言しています。証拠がないものを信じるわけにはいきませんね。



統計学者のジェフリー・ローゼンタール氏(トロント大学)は、エイリアンの存在確率について、セーガンと同じような結論に達しています。

「四〇年にわたって高性能の電波望遠鏡で徹底的に系統的な探索を行ってきたというのに、宇宙のどこかに生命が存在する証拠は一つも見つかっていないというのが厳しい現実だ」(ローゼンタール『運は数学にまかせなさい』早川書店、2010年、206ページ)。ただし、彼は同時に「かつて火星に生命が存在したというのが事実なら、宇宙のどこかに知的生命体が存在する確率が劇的に高まる」(207ページ)とも言っています。これに関連するニュースが昨日、発表されました。アメリカのNASAは、火星における過去の生命存在の可能性を探るために、過去最大の火星探査機「キュリオシティー」を来月早々にも火星に着陸させるとのことです(NHK Newsweb)。調査結果が楽しみですね。

エイリアンの脅威が存在するとすれば、それは「グローバル安全保障」の問題であり、安全保障研究を専攻する私としても、無視することはできません。しかし、セーガン氏の以下の主張は、私が研究領域をこの「グローバル安全保障」まで広げる必要性を否定しています。

「宇宙人が本当に何百人もの人を誘拐しているのなら、事態は一国の安全保障どころか、地球の全住民の安全にかかわる問題だ。それに対して、知識もあり証拠も握っている人たちが、誰一人として声を上げず、宇宙人ではなく人間の側に立とうとしないなどどいうことがあるのだろうか?それもアメリカだけでなく、二百ほどある世界各国のすべてで?」(『人はなぜエセ科学に騙されるのか(上)』179-180ページ)。

近年、安全保障研究は、その対象領域をやたらと広げていますが、そこに「地球外知的生命体(エイリアン)の脅威」からの安全保障という新たな項目を追加する必要は、今のところ、どうやらないようです。

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社会科学における「科学」や「合理性」とは何か?

2012年07月08日 | 研究活動
私の所属先の看板「国際学」を構成する1つのアプローチが、「地域研究」(中国研究、アメリカ研究、中東研究など)です。私は最近、地域研究のある大家が、「中国研究」と社会科学について、次のように述べているのを目にしました。

「科学的分析とは予測能力を高めることにつながる。しかし、残念ながら社会科学は『科学』であるにもかかわらず『科学』でない部分が大きい。なぜなら人間やその集合体である社会の行動は非合理性に満ち溢れているからである。…中国の予測分析は…完全に外れた部分も多い」(国分良成編『中国は、いま』岩波書店、2011年、225ページ)。

この短い主張には、いろいろと興味深い問題が凝縮されています。今日は、そのことを少し考えてみましょう。

第1に、社会科学における合理性についてです。これまで社会科学の多くの分野が依拠してきた「合理性」概念には、確かに疑問が生じています。たとえば、戦争原因研究の分野では、ジェームズ・フィアロン氏(スタンフォード大学)の画期的な研究(James D. Fearon, "Rationalist Explanations for War," International Organization, Vol. 49, No. 3, June 1995)以来、戦争は国家が合理的であれば起こらないはずなのに、なぜ起こるのか、という疑問(パズル)から、国家の「非合理性」に戦争の原因を求めるアプローチが、盛んになってきました。経済学の分野でも、合理的選択理論から距離を起き、心理学から経済現象に迫る「行動経済学」が興隆しています。その背景には、河野勝氏(早稲田大学)が指摘するように、社会科学の多くの分野が「母体とした合理的選択がさまざまな方面で行き詰まった」ことがあります(河野勝・西條辰義編『社会科学の実験アプローチ』勁草書房、2007年、7ページ)。



ただし、ここで注意しなければならないことは、これらの研究アプローチは、科学としての社会科学を否定しているわけでもなければ、合理的アプローチを葬り去ろうとしているわけでもないということです。パズルへの接近ルートが変わってきたということです。たとえば、戦争はなぜ起こるのかというパズルについて言えば、合理的国家は、コストのかかる戦争をしないで、弱い方が強い方に、パワーの格差分の妥協をすれば、平和的解決に行く着くはずです。にもかかわらず、戦争が起こるということは、合理的な平和的解決を阻害する要因が、国家の政策決定に働いているからだ、ということになるでしょう。

要するに、国家の合理的行動を妨げる要因は何か、その候補となる要因は、どのように国家の合理的意思決定を歪めるのか、といった研究課題を科学的な手続きにしたがい解いていくということです。その際、「想像力」や「発想」力、「着想」力は、仮説を導出する初期の段階で重要な役割を果たすことでしょう。しかし、それは、社会科学の一連の気の遠くなるような研究プロセスを構成する、はじめの方の作業であり、全体のほんの一部分にしか過ぎません。このことについては、最後に説明します。

くわえて、非合理的に見える行動は、確かに「最適(optimal)」行動ではないのでしょうが、それは単に「最適以下(suboptimal)」の行動にすぎないかもしれません。さまざまな理由により、国家が最適行動をとれなくても、不思議ではありません。そうだとすれば、合理的理論を破棄するには時期尚早です。チャールズ・グレーザー氏(ジョージ・ワシントン大学)がいうように、「理論と国家行動がガッチリと合わなくても、それは、合理的理論の欠陥のせいではなく、(国家の)最適以下の決定を反映しているのかもしれません」(Charles L. Glaser, Rational Theory of International Politics, Princeton University Press, 2010, p. 19)。

第2に、社会科学における「科学」とは何か、ということです。この点は、ある程度、ハッキリさせたほうがよいでしょう。社会科学の方法を解説した、最も信頼のおける学術書として、Gary King, Robert O. Keohane, Sidney Verba, Designing Social Inquiry: Scientific Inference in Qualitative Research, Princeton: Princeton University Press, 1994. (邦訳『社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論』勁草書房、2004年) がありますので(略称KKV)、同書の定義を以下に引用します(原著、7-9ページ・邦訳、6-9ページ)。

1.目的は推論である。事実を集積しただけでは不十分である。科学研究の特徴は、事実を超えた推論を行う目的にある。
2.手続きが公開されている。これにより研究プロジェクト成果は追試され、研究者は学ぶことができる。
3.結論は不確実である。推論とは、不完全な過程である。
4.科学とは方法である。科学的研究とは、一連の推論のルールを厳守した研究である。

つまり、社会科学は、推論を目的としており、しかも推論には不確実性を伴うということなのです。このことは、以下の警告につながっていきます。

「研究者あるいは研究チームは、知識にも洞察にも限界があるなかで努力しており、間違いは避けられない。しかし、間違いは他の研究者によって指摘される。科学は社会的なものであることを理解すれば、批判されないような研究をしなければならないという拘束から研究者は解放される…批判されることのないような研究をする必要はない」(原著、9ページ・邦訳、9ページ)。

ですから、「予測」が外れたとしても、科学の手続きの厳守している限り、それは決して恥ずべきことではないということでしょう。ただし、ここで大切なことは、適切な推論の手続きを行っているかどうか、です。このことについて、再度、KKVから引いて、このブログを終わりにしたいと思います。

「仮説は着想のなかから生まれることを認めないとすれば…それは馬鹿げている。しかし、ひとたび仮説が立てられたら、その仮説の正しさを検証するためには、適切な科学的推論が必要である。…厳密さを欠いた解釈によって得られた結論は、未検証の仮説の状態を超えることはないし、そのような解釈は科学的推論というよりは個人的解釈にすぎなくなってしまう」(原著、38ページ・邦訳、46ページ、下線強調は引用者)。



このことは、社会科学における「科学」とそうでないものを分ける、1つの重要なメルクマール(目印)ではないでしょうか。もっとも、科学は「万能」ではありませんので、「社会科学」の看板さえ外してしまえば、このような、ややこしい議論に拘泥される必要はないでしょう。


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特別授業のお知らせ

2012年07月05日 | 教育活動
2012年度春学期「国際政治学」の7月12日(木)4時限目の授業は、外国から講師をお招きした特別授業を行います。講師は、サウジアラビア・外交問題研究所のイブラヒム・アルファギー氏です。アルファギー氏は、キング・サウド大学で博士号(地理学)を取得しています。ご専攻は政治地理学です。

今回、アルファギー氏には、「エネルギー安全保障」の特別授業を行っていただきます。周知の通り、日本は石油資源を中東からの輸入に依存しており、サウジアラビアは日本への最大の原油提供国です。日本は原油の約3割をサウジアラビアから調達しているのです。また、サウジアラビアは国際石油市場において指導的立場にあります。こうしたことから、日本の「エネルギー安全保障」にとって、サウジアラビアはたいへん重要な国家と言えるでしょう。そのサウジアラビアのエネルギー資源問題の専門家から、直接、お話を聞けるのは、とても貴重な機会だと思います。

東日本大震災や3.11福島原発事故は、日本人にエネルギー安全保障の重要性を再確認させることになりました。学生諸君には、この特別講義から、エネルギー安全保障について、多くを学んでほしいと思います。

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