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研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

畏友・宮下明聡氏の死を悼む

2024年02月07日 | 日記
私にとって、良き研究仲間であり、優しい友人であり、教師のような存在でもあった、政治学者の宮下明聡氏(東京国際大学)が急逝された。世界の政治学界/国際関係学界は、偉大な学者を失った。これは決して誇張ではない。彼はトップクラスの学者として日本国内にかぎらず海外でも活躍していたからである。宮下氏は、コロンビア大学政治学部博士課程を修了して、Ph.D.の学位を取得しており、同じ時期に大学院生だったポール・ミッドフォード氏(明治学院大学)が、Facebookに寄せた追悼メッセージには、世界中の政治学者から彼を悼む「コメント」が続々と寄せられている。これは宮下氏が、いかに世界中で評価されていたのかを示す、何よりの証拠であろう。

私が宮下氏と最初に会ったのは、今から30年以上も前のことである。当時、私は大学院生であり、海外から日本に留学していた博士候補生や若手の研究者と勉強会を持っていた。彼は博士論文の資料を収集するために日本に一時帰国した際に、この勉強会に顔を見せたのであった。この勉強会のメンバーは、2週間から1月に1回のペースで原宿や神楽坂のカフェに集まり、注目度の高い政治学や国際関係論の研究書や論文について意見交換するというものであった。勉強会は、資料を選んだメンバーが、その要約と評価を行い、その後で意見を交換するという流れで進められた。使用する言語はもちろん英語だ。私は、ここでどれほど学問的に鍛えられたか分からない。

宮下氏に対する私の最初の印象は、物静かな大学院生というものであった。世界中から俊英が集まり切磋琢磨しているであろう、コロンビア大学大学院の博士候補生にしては、おとなしい人という印象であった。しかし、彼が思慮深く、鋭い批判的思考の持ち主であることは、すぐに分かった。宮下氏は舌鋒鋭く批判を述べるタイプではなく、静かな口調で誰もが考えさせられるような問題提起や論理矛盾を淡々と述べる、高度に知的な人物だったのだ。

その後、宮下氏はコロンビア大学に戻り、博士論文を完成させた。彼の論文テーマは、当時、世界の政治学者が盛んに議論していた「外圧反応型国家」論争に関連づけられており、日本が国益を損なう時でさえ同盟国であるアメリカの圧力を受けて、その海外援助政策を変更してきたパズルを説明することであった。そして、この研究成果は、Limits To Power: Asymmetric Dependence and Japanese Foreign Aid Policy, Lexington Books, 2003として出版された。本書には、そうそうたる学者が賛辞を寄せている。T. J. ペンペル氏(カリフォルニア大学バークレー校)、渡邊昭夫氏(東京大学)、そして、彼の指導教授であったジェラルド・カーティス氏(コロンビア大学)である。

宮下氏は、その後も「外圧反応型国家」論争に関心を持ち続けて研究を進めた。圧巻なのは、この政治学の難問について、国際チームを結成して共同研究を行い、一定の答えを導き出したことだろう。彼は、佐藤洋一郎氏(立命館アジア太平洋大学)と編んだ高著『現代日本のアジア外交―対米協調と自主外交のはざまで―』ミネルヴァ書房、2004年(英語版は、Japanese Foreign Policy in Asia and the Pacific: Domestic Interests, American Pressure, and Regional Integration, Palgrave, 2001)において、「日本はアメリカと利害の一致する場合には協力を続けることもあろうが、そうでない場合にはより独立した外交政策を展開するであろう」(270頁)という結論を下している。なお、この研究には、国内外のトップクラスの学者が参加しており、それをまとめ上げた宮下氏の手腕がひときわ光ってる。

日本に帰国して母校の東京国際大学に職を得た宮下氏は、私に研究会を持とうと声をかけてくれた。もちろん、私が喜んで賛成したのはいうまでもない。そして私たちは、数名の知り合いを集めて定期的な研究会を開催することにした。そこで最初に資料として選んだのが、Colin Elman and Miriam Fendius Elman, eds., Bridges and Boundaries: Historians, Political Scientists, and the Study of International Relations, The MIT Press, 2001だった。本書は、国際関係を研究する歴史学者と政治学者が、両者の共通点や相違点などを探究する内容である。ここでは方法論的な多様性を擁護しつつも、著名な歴史学者と政治学者が、相互に激しく批判し合っていた。我が国の「国際政治学」は、歴史的アプローチと理論的アプローチが「共生」していると肯定的に評価されることがよくあるが、私は、それが「馴れ合い」のようにも感じられて、もやもやとした感情を抱いていた。エルマン夫妻が編集した本書は、国際関係研究における歴史学と政治学の相違点を明確に示していたので、私の頭の中にあった「わだかまり」を吹き飛ばしてくれた。これに衝撃を受けた私は、宮下氏に「本書を翻訳して、日本の読者に紹介しましょう」と提案した。彼は二つ返事で同意してくれた。こうして上記書の訳出が始まったのであるが、その後で、私は自分の翻訳の提案に半分後悔することになる。



宮下氏は「職業としての学問」(マックス・ウェーバー)において、仕事の「鬼」であった。私は、第9章「冷戦史研究における資料と方法」(デボラ・ウェルチ・ラーソン氏)、第10章「コメントー歴史科学と冷戦研究―」(ウィリアム・ウォールフォース氏)、第11章「国際関係史と国際政治学」(ロバート・ジャーヴィス氏)、第12章「国際関係史」(ポール・W.シュローダー氏)を担当した。どの論考も力作であり、それらを訳出することで、私の国際関係研究における歴史学と政治学への理解は深まった。しかしながら、訳文は簡単には訳書にはならなかった。宮下氏は私が訳出した日本語に、それこそ何十回も手を入れたのである。私が訳文を見せるたびに、それに彼は真っ赤になるほど修正の筆を入れたのであった。そうしたやり取りが延々と続いた。私は半分うんざりしてしまい、「完璧は無理です。ある程度で妥協しましょう」と申し出たが、彼はこれを断固拒否した。私が彼による代替訳文を受け入れなかった際には、「なぜそうしないのですか、納得のいくように説明してください」と、静かながら厳しい口調で言ってくるのである。彼を説得できる反論を持ち合わせていなかった私は、彼の示唆にしたがわざるを得なかった。というより、彼の指導に従うべきだったのだ。私が宮下氏を教師のような存在であったというのは、こうした理由からである。

この翻訳プロジェクトは、コリン・エルマン/ミリアム・フェンディアス・エルマン編『国際関係研究へのアプローチ—歴史学と政治学の対話—』東京大学出版会、2003年として公刊された。私は、この仕事に誇りを持っている。自画自賛といわれるかもしれないが、これはよい翻訳書になったと確信している。これも宮下氏のリーダーシップの賜物である。この仕事を彼と共同で行ったことにより、私がどれだけ「職業としての学問」を学んだことだろうか。彼には感謝してもしきれない。

宮下氏とは、その後も知的交流は続いた。防衛省海上自衛隊幹部学校の指揮幕僚課程が「政策と戦略」を全面改訂する際、私と宮下氏そして田中康友氏(北陸大学)で、新しいプログラムを作ったことが懐かしく思い出される。「一人で研究していても息苦しくなってしまい、生産性もあがらないでしょうから、勉強会を持ちませんか」と誘われて立ち上げた「国際関係理論研究会」は、今でも続いている。そこには、我が国の国際政治学界は社会科学の方法論や理論をより重視すべきであるという問題意識を共有する研究仲間が集い、数か月に1回のペースで、国際的に注目されている研究動向や自分の研究をまとめて発表して討論したり、トップ・ジャーナルに掲載された意欲的な学術論文を取り上げて議論したりしている。それまで必ず研究会に出席してきた宮下氏が、1月下旬の会合に無断で欠席したので、仲間と「どうしたのでしょうね」と話していた矢先に、彼の愛弟子の西舘崇氏(共愛学園前橋国際大学)から、彼が急逝したとの訃報を知らされたのである。その時、私は宮下氏の死をどうしても信じられなかった。私の頭に浮かぶのは、彼の温和な笑顔しかなかったからだ。

宮下氏には、私が最近に共同研究の成果として出版した『インド太平洋をめぐる国際関係』芙蓉書房出版、2024年を献本したばかりであった。刊行する前に、本書に寄稿した拙論「構造的リアリズムと米中安全保障競争」の草稿を宮下氏に見せてコメントを依頼した際、彼らしい鋭いコメントが寄せられた。もし拙論が読むに耐えるものになっているとすれば、それは宮下氏の指導のおかげである。私は、研究論文を執筆した際には、そのほとんどすべての草稿を宮下氏に読んでもらいアドバイスを仰いできた。そのたびに、彼は貴重な時間を割いて読んで下さり、質の高いコメントや批判を戻してくれた。このような素晴らしい研究仲間を持てた私は、なんて幸運だったのだろうと、あらためて思わずにはいられない。それだけに、彼がこの世を去ってしまった喪失感はとてつもなく大きい。

私は宮下氏とは、国際関係研究における社会科学方法論と理論の大切さと有用性の意識を共有し続けた。そして、私たちは、我が国の国際政治学界に社会科学方法論に関する優れた学術書を紹介する努力を行ってきた。私は、渡邊紫乃氏(上智大学)とスティーヴン・ヴァン・エヴェラ『政治学のリサーチ・メソッド』勁草書房、2009年を翻訳した。宮下氏は泉川泰博氏(青山学院大学)とヘンリー・ブレイディ/デイヴィッド・コリアー『社会科学の方法論争(第2版)』勁草書房、2014年を翻訳した。とりわけ後者の巻末にある用語解説は、主要な社会科学のキーワードや概念を理解するには、きわめて便利で役に立つものである。これだけでも同書には高い価値がある。ここでも彼は素晴らしい仕事を成し遂げている。

国際関係研究を志す若い人は、宮下氏の遺志を継いでほしいと願わずにはいられない。この分野を目指す人たちには、少なくとも社会科学の方法論に立脚した研究を目指していただきたい。我が国の「国際政治学」は数理的・定量的研究は別にして、事例研究を用いる定性的研究では、歴史的アプローチや記述的アプローチなどが混然一体としており、はたして厳格な社会科学方法論にどれだけもとづいているだろうか。とりわけ、日本外交研究では、社会科学の方法論が置き去りにされがちではないだろうか。だからこそ、宮下氏は『現代日本のアジア外交』の結論において、「日本外交政策の研究に方法論上の厳格性を取り入れるという目的は、それなりに達成された」(273頁)と同書のオリジナリティと学術的意義を宣言したのである。もし、若手や大学院生が手本となりそうな宮下氏の方法論や理論に厳密な論文を示してほしいと言われたら、"Where Do Norms Come From? Foundations of Japan's Postwar Pacifism," International Relations of the Asia-Pacific, Vol. 7, No. 1, 2007を上げたい。これは、日本の「反軍主義」や「平和主義」は規範で説明されることが多かったところ、構造的・物質的要因に影響されていることを見事に論証した論文である。この論文の被引用回数は112件であり、とても高く評価されている。ご一読を強くお勧めしたい。

この場を借りて、宮下明聡氏のご冥福を心よりお祈りする次第である。

成功するのは才能のおかげ、それとも努力のたまもの?

2019年10月29日 | 日記
このブログ記事のタイトルの問いは、誰もが一度は考えたでしょう。この難問に正面から取り組んだの研究が、アンダース・エリクソン、ロバート・プール(土方奈美訳)『超一流になるのは才能か努力か?』文藝春秋、2016年です。この質問に対する筆者たちの答えは、「努力」です。より正確に言えば「正しい練習」です。「えっ」と思う人も少なくないでしょうが、本書は、この主張を裏づける根拠や証拠をたくさん示して、この古典的ともいえる問いに対する自らの回答の妥当性を裏づけています。



ただし、この本は「努力と根性」を礼賛しているものではありません。ひたすら「努力」をすれば、誰でも「超一流」になれるか?たくさん「練習」をすれば、皆が成功を収められるのか?著者たちの答えは、NO(ノー)です。「『努力しつづけなさい。そうすれば目標を達成できるよ』と。これは間違っている」(22ページ)とハッキリ言っています。正しい「限界的練習」が優れたパフォーマンスを生み出すのです。「限界的練習」について、詳しくは同書に譲りますが、人は「居心地の良い領域(コンフォート・ゾーン)」、すなわち「勝手がわかる」範囲で練習を積んでみたところで、必ずしも上達しないそうです。そこから外に踏み出し、「できないこと」の練習、つまり、自分の限界を少し超えた負荷をかける練習をするとともに、できなかったことからフィードバックを得て、それを直す練習を重ねるのが、著者たちによれば効果的なのです。

ところで、私が直観的にはそうだろうなと感じつつも意外に思ったのは、練習時間についてです。確かに、練習に莫大な時間をかけなければ、成功はおぼつきません。エリクソン氏らは、こう言います。「練習に膨大な時間を費やさずに並外れた能力を身に付けられる者は一人もいない」(141ページ)と。他方、彼らは、こうも言います。「新しい技能をもっと早く修得するのに一番良いのは毎回明確な目標を設定して練習時間を短くすることだ」(208ページ、下線引用者)。なぜなら、100%の力で短い練習をするほうが、集中せず長く練習するよりマシだということです。そして、練習に精力を傾けるためには、十分な休憩をとることが大切になります。「休むことも練習」とは、まさしく、この意味だったのですね。

ここまで読んで、「でも、同じことをやって、すぐできる人とそうでない人がいるでしょう。それって才能の差では?」と疑問を持つ方はおられるでしょう。こうした疑問にエリクソン氏らは、こう答えています。「(チェスなど)IQが高い子ほど上達も速い。だがそれは物語の始まりに過ぎない。本当に必要なのは終わり方だ」」(298ページ)と。たとえば、いくつかの研究は、チェスや囲碁の技量とIQには相関が見られないことを示しています。結局、「長期的に勝利するのは、知能など何らかの才能に恵まれて有意なスタートを切った者ではなく、より多く練習したもの」(305ページ)なのです。

このエリクソン氏らの研究が正しいとするならば、我々は、もはやガラパゴス化した「学歴」神話に惑わされて、どれだけ潜在的なエキスパートを失ってきたのでしょうか。私たちは、「やればできる」との一般通念を無批判に信じて、効率の悪い練習(あるいは、かえって能力を損なう練習)をしてこなかったでしょうか(あるいは、それを他人に勧めなかったでしょうか)。本書は、「頑張れ!」「頑張る!」という精神論が幅を利かせる我が国において、より広く読まれたい良書だと思います。

「痛勤」の莫大な損失と地方創生

2018年06月27日 | 日記
日本における長い「通勤時間」が、生産性を大きく損なっているそうです。ある教育社会学者の試算によれば、平日1日あたりの平均損失額は、なんと1424億円だとか。くわえて、満員電車による通勤地獄が、ビジネスパーソンから知力や体力を奪っています(『ニューズウィーク』日本版ウェブサイトより)。主要な原因は、もちろん「東京一極集中」に象徴される都会への過度なオフィス等の偏重です。

「痛勤」が生み出す損失は、私が前々から持っていた、東京に政治や経済の拠点が集中しないほうがよいのではないか、むしろ分散すべきではないかとの漠然とした考えの妥当性を裏づけています。首都機能を地方に分散すれば、おそらく、大手企業も地方にオフィスを移転したり広げたりするでしょう。そして、地方により多くの職場が生まる結果、東京に存在する大学も少しずつ地方に移ることでしょう。

そもそも、なぜ大学や学生が東京に集中しているのか。その1つの答えは、大学の最も主要な出口である就職先が、都心に集中しているからです。青山学院大学学長の三木義一氏は、次のように述べています。

「なぜ地方の大学に学生が進学しないのか。逆に、なぜ東京の大学に学生が集中するのかというと、東京に大学があるからではなく、東京に就職先があるからです。地方の雇用の問題こそ本来問うべきなのです」(『中央公論』2018年7月号、140-141ページ)。

そうだとすれば、国家が地方分権や首都機能の地方への移転を断行し、企業の地方分散を促せば、学生たちは、もっと地方の大学に進学するようになるはずです。もちろん、これが「地方創生」に寄与するのは、いうまでもありません(大分県の立命館アジア太平洋大学の経済波及効果は、年間200億円、同大学出口治明学長インタビュー、『中央公論』2018年7月号、124ページ)。さらに、「痛勤」が解消されることにより、生産性低下も回復できるでしょう。日本の経済力の向上に一役買いそうです。

安全保障や危機管理の観点からも、政治や経済の機能は分散しておいた方が好ましいです。東京に国家の中心的価値が集中していることは、必然的に、そこが「戦略的重心」を形成します。軍事戦略は、相手を打倒するためには、敵の重心を叩くことが重要であると説いています。日本の場合、東京が極端な重心になっているので、万が一、ここに深刻な打撃を与えられたら、決定的なダメージを受けることになってしまいます(日本では防衛省でさえ、東京のど真ん中の市ヶ谷にあります。他方、アメリカの国防省はワシントンから離れたバージニア州にあります)。さらに、首都直下型地震などの自然災害が東京を襲ったら、国家機能がほぼマヒ状態になるでしょう。つまり、日本は安全保障の「ポートフォリオ」ができていないのです。

首都機能の地方への分散、地方分権、地方創生などの一連の政策は、政治、経済、安全保障上の国益になります。もちろん、それによるコストや弊害もあるでしょうが、私見では、便益の方がはるかに上回ると思います。








「学問の府のアパルトヘイト」

2018年06月04日 | 日記
過激なタイトルだと思った人が多いのではないでしょうか。これは私が考えたものではありません。今から20年前、アイヴァン・ホール氏が著した『知の鎖国―外国人を排除する日本の知識人産業』(毎日新聞社、1998年)の第3章のタイトルを拝借しました。



さらに、ホール氏が、かつて雑誌『諸君』(1998年7月)で受けたインタビュー記事の副題は、もっと過激です。「『象牙の塔』から『木鐸』まで、すべてが国際規格外。既得権益にむらがる島国根性につける薬はない」です。

日本の知識人産業に対して、こうした激しい怒りをぶつけるホール氏とは、何者でしょうか。実は、『森有礼』研究で知られる学者です。プリンストン大学を卒業後、外交研究で知られるフレッチャー・スクールで修士号(国際関係論)をおさめ、ハーバード大学で博士号(東洋学日本史)を取得しています。日本では、学習院大学などで教鞭をとっていました。

ホール氏の主張は、以下の通りです。

「日本の知的産業における『排外的な障壁』が、解消される糸口さえ見いだせない状況では、日本が国際的にリーダーシップをとることなど、到底無理だろう」(前掲『諸君』142ページ)。そして、当時の日本の大学の状況をこう皮肉っています。「(日本の大学を例えると)アメリカの大学が中国人の天才を雇って物理学を教えさせず、サンタヤナのようなスペイン人に哲学の講義をさせたりもせず…(し)ているかのようだ」(『知の鎖国』136ページ)。

『知の鎖国』が世に問われてから20年が過ぎました。今では、日本の大学も外国人の研究者に門戸を開くようになりました。ただし、日本の大学が十分に知のグローバル・スタンダードに適合しているかと問われれば、そうだとは言えないでしょう。制度面での象徴的なことは、海外の多くの大学が採用している9月の学年開始制度に日本のほとんどの大学が移行できていないことです。これが大学の国際化にとって、1つの大きな障壁になっているのは、大学関係者の誰もが知ることです。

そして、日本の大学の「鎖国」は、大きなツケを払わされているようです。『日本経済新聞』記事「日本の大学 痩せる『知』」(2018年6月4日)によれば、「欧米の有力大学との差も開いたままだ。先端研究で海外との人的ネットワークが細り、イノベーションの土壌が痩せてきて…国際的な知のネットワークから取り残されつつあ」ります。端的に言えば、この20年間で日本のアカデミズムは、「知の鎖国」から「知の孤立」になったのです(他方、世界のトップクラスの英語ジャーナルに論文をどんどん発表している、立派な学者がいることも十分承知しています)。何という皮肉でしょうか。

いうまでもなく、日本の大学が9月学年開始に制度改革しても、こうした問題の根本解決にはならないでしょう。問題の深層にあるのは、ホール氏に言わせれば、「日本人の他者に対する知的、感情的、文化的な態度の中にみられる偏狭さ」(前掲『諸君』)だということです。私は、この仮説が正しいかどうかを判断するエビデンスをもっていませんが、もしホール氏の主張が正しければ、「つける薬」を開発するのは、かなり困難だと思われます。

私は、当時、『知の鎖国』の原著 Cartels of the Mind を日本に来ていた米国の博士候補の留学生たちと読み、意見を交わしました。彼らとは、幸いになことに、今でも知的交流は続いています。残念なことは、誰一人、日本には残らなかったことです。










博士と教授の実態

2018年02月04日 | 日記
ある調査によると、小学生男子がなりたい職業の第1位は、「学者・博士」のようです。確かに、メディアには、学者を肩書にする人物がしばしば登場して、さまざまな社会問題にコメントをよせたり、意見を発したりしています。優れた研究成果を残した学者は、社会から高い尊敬を集めます。こうしたことから、小学生が「学者・博士」に憧れても、不思議ではありません。

私は小学生の「夢」を壊したいと思いませんが、「学者・博士」の実態が、どれだけ世間で理解されているのか、とても気になっています。おそらく、ほとんど理解されてないのでしょう。

第1に、博士号を取得しても、大学で学問を生業にできる研究者は、ごく一部です。ある教育社会学者によれば、大学教員のポストは、今や博士14人に1人です。とても狭き門をくぐらないと、大学教授にはなれません。一生涯「フリーター」の博士は珍しくないといったら、多くの人達は驚くでしょう。しかし、これが実態なのです。

第2に、大学教員の最高位である教授は、世の中の多くの人がイメージするほど、給与が高くありません。大学教授(60歳)の平均年収は、大手企業の課長クラスと指摘されています。しかも、大学教員の就職は、一般企業や公務員より、はるかに遅い。博士号を取得するまでに時間がかかり、さらに、専任教員や研究員のポストを得るための「就活期間」も決して短くありません。30歳代半ばから40歳前後といったところでしょう。20歳代で正職がみつかる学者は、そうとうな幸運に恵まれいます。したがって、生涯賃金は、大手企業のビジネスパーソンに比べると、さらに下がります。さらに、多くの「学者」は、大学院時代に受けていた奨学金を返済しなければなりません。

運良く大学教員のポストを得たとしても、その仕事の実際はどうでしょうか。興味のある人は、櫻田大造『大学教員採用・人事のカラクリ』中公新書、2011年を読んで下さい。

キャリア教育は、今では子どもの時からから行われています。果たして、「職業としての学問」は、どのくらい小学生に教えられているのでしょうか。