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野口和彦(県女)のブログへようこそ

研究や教育等の記事を書いています。掲載内容は個人的見解であり、群馬県立女子大学の立場や意見を代表するものではありません。

博士と教授の実態

2025年08月08日 | 日記
ある調査によると、小学生男子がなりたい職業の第1位は、「学者・博士」のようです。確かに、メディアには、〇〇大学教授といった「学者」を肩書にする人物がしばしば登場して、さまざまな問題にコメントをよせたり、意見を発したりしています。優れた研究成果を残した学者は、社会から高い尊敬を集めます。こうしたことから、小学生が「学者・博士」に憧れても、不思議ではありません。

私は小学生の「夢」を壊したいと思いませんが、「学者・博士」の実態が、どれだけ世間で理解されているのか、とても気になっています。おそらく、ほとんど理解されてないのでしょう。

第1に、博士号を取得しても、大学で学問を生業にできる研究者は、ごく一部です。ある教育社会学者によれば、大学教員のポストは、今や博士24人に1人です。とても狭き門をくぐらないと、大学教授にはなれません。いわゆる文系では、アカポスをめぐる競争率は、理系より高くなります。その結果、一生涯「フリーター」の博士もは珍しくないのです。これには多くの人達は驚くでしょうが、偽らざる実態です。

第2に、大学教員の最高位である教授は、世の中の多くの人がイメージするほど、給与が高くありません。大学教授(60歳)の平均年収は、大手企業の課長クラスと指摘されています。しかも、大学教員の就職は、一般企業や公務員より、はるかに遅い。博士号を取得するまでに時間がかかり、さらに、専任教員や研究員のポストを得るための「就活期間」も決して短くありません。30歳代半ばから40歳前後といったところでしょう。20歳代で正職がみつかる学者は、そうとうな幸運に恵まれいます。したがって、生涯賃金は、大手企業のビジネスパーソンに比べると、さらに下がります。さらに、多くの「学者」は、大学院時代に受けていた奨学金を返済しなければなりません。

運良く大学教員のポストを得たとしても、その仕事の実際はどうでしょうか。興味のある人は、櫻田大造『大学教員採用・人事のカラクリ』中公新書、2011年を読んで下さい。

キャリア教育は、今では子どもの時からから行われています。果たして、「職業としての学問」は、どのくらい小学生に教えられているのでしょうか。わたしは学者を目指して大学院に進学する際、ゼミナールの先生から「一生、定職につけず、フリーターで終わる覚悟がなければやめるべきだ」とアドバイスされました。これはとてもよい助言でした。

わたしは、かなり悲壮な覚悟で研究者を目指したのです。そして大学での正規の仕事すなわち正教授職に就けたのは幸運以外のなにものでもありません。社会学の巨人であるマック・ウェーバーでさえ「この世の中で大学の教師ほど、偶然によって決まる仕事をわたしはほかに知らないほどです。実際のところわたしがかつてごく若い頃に、一つの学科の正教授に就任できたのも、まったくの偶然によるものでした…わたしが選ばれたのは僥倖のおかげだったので、これをとくに強調したいのです」と言っているくらいです(マックス・ウェーバー『職業としての政治/職業としての学問』中山元訳、日経BP、2009年、168-169頁)。

現在、学者を目指して大学院やポスドクで頑張っている若い人たちは、こうしたアドバイスを受けているのか、気になるところです。「こんなはずではなかった」と後悔していなければよいのですが…。





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成功するのは才能のおかげ、それとも努力のたまもの?

2019年10月29日 | 日記
このブログ記事のタイトルの問いは、誰もが一度は考えたでしょう。この難問に正面から取り組んだの研究が、アンダース・エリクソン、ロバート・プール(土方奈美訳)『超一流になるのは才能か努力か?』文藝春秋、2016年です。この質問に対する筆者たちの答えは、「努力」です。より正確に言えば「正しい練習」です。「えっ」と思う人も少なくないでしょうが、本書は、この主張を裏づける根拠や証拠をたくさん示して、この古典的ともいえる問いに対する自らの回答の妥当性を裏づけています。



ただし、この本は「努力と根性」を礼賛しているものではありません。ひたすら「努力」をすれば、誰でも「超一流」になれるか?たくさん「練習」をすれば、皆が成功を収められるのか?著者たちの答えは、NO(ノー)です。「『努力しつづけなさい。そうすれば目標を達成できるよ』と。これは間違っている」(22ページ)とハッキリ言っています。正しい「限界的練習」が優れたパフォーマンスを生み出すのです。「限界的練習」について、詳しくは同書に譲りますが、人は「居心地の良い領域(コンフォート・ゾーン)」、すなわち「勝手がわかる」範囲で練習を積んでみたところで、必ずしも上達しないそうです。そこから外に踏み出し、「できないこと」の練習、つまり、自分の限界を少し超えた負荷をかける練習をするとともに、できなかったことからフィードバックを得て、それを直す練習を重ねるのが、著者たちによれば効果的なのです。

ところで、私が直観的にはそうだろうなと感じつつも意外に思ったのは、練習時間についてです。確かに、練習に莫大な時間をかけなければ、成功はおぼつきません。エリクソン氏らは、こう言います。「練習に膨大な時間を費やさずに並外れた能力を身に付けられる者は一人もいない」(141ページ)と。他方、彼らは、こうも言います。「新しい技能をもっと早く修得するのに一番良いのは毎回明確な目標を設定して練習時間を短くすることだ」(208ページ、下線引用者)。なぜなら、100%の力で短い練習をするほうが、集中せず長く練習するよりマシだということです。そして、練習に精力を傾けるためには、十分な休憩をとることが大切になります。「休むことも練習」とは、まさしく、この意味だったのですね。

ここまで読んで、「でも、同じことをやって、すぐできる人とそうでない人がいるでしょう。それって才能の差では?」と疑問を持つ方はおられるでしょう。こうした疑問にエリクソン氏らは、こう答えています。「(チェスなど)IQが高い子ほど上達も速い。だがそれは物語の始まりに過ぎない。本当に必要なのは終わり方だ」」(298ページ)と。たとえば、いくつかの研究は、チェスや囲碁の技量とIQには相関が見られないことを示しています。結局、「長期的に勝利するのは、知能など何らかの才能に恵まれて有意なスタートを切った者ではなく、より多く練習したもの」(305ページ)なのです。

このエリクソン氏らの研究が正しいとするならば、我々は、もはやガラパゴス化した「学歴」神話に惑わされて、どれだけ潜在的なエキスパートを失ってきたのでしょうか。私たちは、「やればできる」との一般通念を無批判に信じて、効率の悪い練習(あるいは、かえって能力を損なう練習)をしてこなかったでしょうか(あるいは、それを他人に勧めなかったでしょうか)。本書は、「頑張れ!」「頑張る!」という精神論が幅を利かせる我が国において、より広く読まれたい良書だと思います。

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「痛勤」の莫大な損失と地方創生

2018年06月27日 | 日記
日本における長い「通勤時間」が、生産性を大きく損なっているそうです。ある教育社会学者の試算によれば、平日1日あたりの平均損失額は、なんと1424億円だとか。くわえて、満員電車による通勤地獄が、ビジネスパーソンから知力や体力を奪っています(『ニューズウィーク』日本版ウェブサイトより)。主要な原因は、もちろん「東京一極集中」に象徴される都会への過度なオフィス等の偏重です。

「痛勤」が生み出す損失は、私が前々から持っていた、東京に政治や経済の拠点が集中しないほうがよいのではないか、むしろ分散すべきではないかとの漠然とした考えの妥当性を裏づけています。首都機能を地方に分散すれば、おそらく、大手企業も地方にオフィスを移転したり広げたりするでしょう。そして、地方により多くの職場が生まる結果、東京に存在する大学も少しずつ地方に移ることでしょう。

そもそも、なぜ大学や学生が東京に集中しているのか。その1つの答えは、大学の最も主要な出口である就職先が、都心に集中しているからです。青山学院大学学長の三木義一氏は、次のように述べています。

「なぜ地方の大学に学生が進学しないのか。逆に、なぜ東京の大学に学生が集中するのかというと、東京に大学があるからではなく、東京に就職先があるからです。地方の雇用の問題こそ本来問うべきなのです」(『中央公論』2018年7月号、140-141ページ)。

そうだとすれば、国家が地方分権や首都機能の地方への移転を断行し、企業の地方分散を促せば、学生たちは、もっと地方の大学に進学するようになるはずです。もちろん、これが「地方創生」に寄与するのは、いうまでもありません(大分県の立命館アジア太平洋大学の経済波及効果は、年間200億円、同大学出口治明学長インタビュー、『中央公論』2018年7月号、124ページ)。さらに、「痛勤」が解消されることにより、生産性低下も回復できるでしょう。日本の経済力の向上に一役買いそうです。

安全保障や危機管理の観点からも、政治や経済の機能は分散しておいた方が好ましいです。東京に国家の中心的価値が集中していることは、必然的に、そこが「戦略的重心」を形成します。軍事戦略は、相手を打倒するためには、敵の重心を叩くことが重要であると説いています。日本の場合、東京が極端な重心になっているので、万が一、ここに深刻な打撃を与えられたら、決定的なダメージを受けることになってしまいます(日本では防衛省でさえ、東京のど真ん中の市ヶ谷にあります。他方、アメリカの国防省はワシントンから離れたバージニア州にあります)。さらに、首都直下型地震などの自然災害が東京を襲ったら、国家機能がほぼマヒ状態になるでしょう。つまり、日本は安全保障の「ポートフォリオ」ができていないのです。

首都機能の地方への分散、地方分権、地方創生などの一連の政策は、政治、経済、安全保障上の国益になります。もちろん、それによるコストや弊害もあるでしょうが、私見では、便益の方がはるかに上回ると思います。








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「学問の府のアパルトヘイト」

2018年06月04日 | 日記
過激なタイトルだと思った人が多いのではないでしょうか。これは私が考えたものではありません。今から20年前、アイヴァン・ホール氏が著した『知の鎖国―外国人を排除する日本の知識人産業』(毎日新聞社、1998年)の第3章のタイトルを拝借しました。



さらに、ホール氏が、かつて雑誌『諸君』(1998年7月)で受けたインタビュー記事の副題は、もっと過激です。「『象牙の塔』から『木鐸』まで、すべてが国際規格外。既得権益にむらがる島国根性につける薬はない」です。

日本の知識人産業に対して、こうした激しい怒りをぶつけるホール氏とは、何者でしょうか。実は、『森有礼』研究で知られる学者です。プリンストン大学を卒業後、外交研究で知られるフレッチャー・スクールで修士号(国際関係論)をおさめ、ハーバード大学で博士号(東洋学日本史)を取得しています。日本では、学習院大学などで教鞭をとっていました。

ホール氏の主張は、以下の通りです。

「日本の知的産業における『排外的な障壁』が、解消される糸口さえ見いだせない状況では、日本が国際的にリーダーシップをとることなど、到底無理だろう」(前掲『諸君』142ページ)。そして、当時の日本の大学の状況をこう皮肉っています。「(日本の大学を例えると)アメリカの大学が中国人の天才を雇って物理学を教えさせず、サンタヤナのようなスペイン人に哲学の講義をさせたりもせず…(し)ているかのようだ」(『知の鎖国』136ページ)。

『知の鎖国』が世に問われてから20年が過ぎました。今では、日本の大学も外国人の研究者に門戸を開くようになりました。ただし、日本の大学が十分に知のグローバル・スタンダードに適合しているかと問われれば、そうだとは言えないでしょう。制度面での象徴的なことは、海外の多くの大学が採用している9月の学年開始制度に日本のほとんどの大学が移行できていないことです。これが大学の国際化にとって、1つの大きな障壁になっているのは、大学関係者の誰もが知ることです。

そして、日本の大学の「鎖国」は、大きなツケを払わされているようです。『日本経済新聞』記事「日本の大学 痩せる『知』」(2018年6月4日)によれば、「欧米の有力大学との差も開いたままだ。先端研究で海外との人的ネットワークが細り、イノベーションの土壌が痩せてきて…国際的な知のネットワークから取り残されつつあ」ります。端的に言えば、この20年間で日本のアカデミズムは、「知の鎖国」から「知の孤立」になったのです(他方、世界のトップクラスの英語ジャーナルに論文をどんどん発表している、立派な学者がいることも十分承知しています)。何という皮肉でしょうか。

いうまでもなく、日本の大学が9月学年開始に制度改革しても、こうした問題の根本解決にはならないでしょう。問題の深層にあるのは、ホール氏に言わせれば、「日本人の他者に対する知的、感情的、文化的な態度の中にみられる偏狭さ」(前掲『諸君』)だということです。私は、この仮説が正しいかどうかを判断するエビデンスをもっていませんが、もしホール氏の主張が正しければ、「つける薬」を開発するのは、かなり困難だと思われます。

私は、当時、『知の鎖国』の原著 Cartels of the Mind を日本に来ていた米国の博士候補の留学生たちと読み、意見を交わしました。彼らとは、幸いになことに、今でも知的交流は続いています。残念なことは、誰一人、日本には残らなかったことです。










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留学、ワーホリと「国際人」

2014年07月15日 | 日記
日本の「国際化」が声高に叫ばれた1980年代に大学生活を送った私は、良い意味でも悪い意味でも、「国際人」という言葉に特別の響きを感じます。「国際人」なるものには、常に「あやふやな期待」がともないます。加藤恵津子『自分探し」の移民たち―カナダ・バンクーバー、さまよう日本の若者―』彩流社、2009年は、それを明確にしてくれる文献でした。

『「自分探し」の移民たち』は、バンクーバーへ留学や働きに来た日本の若者に対する、長年のフィールドワーク研究の成果です。著者の加藤氏がバンクーバーで参与観察を行っていた2008年、私も同市のブリティッシュ・コロンビア大学に長期研究滞在をしていたこともあり、同書を興味深く読みました。



同書に綴られているバンクーバーでの日本の若者の「実態」に、私は少なからず驚きました。当時、私はバンクーバー郊外のブリティッシュ・コロンビア大学で主に活動しており、ダウンタウンには、ほとんど行きませんでした。そのため、ダウンタウンに集中する日本からの若者の情報に触れることは、ほとんどありませんでした。同書で詳細に紹介されている、日本からのバンクーバー渡航者の「成功」とは異なる経験は、不覚ながら、これまで知ることがなかったゆえに、私は大きな興味を覚えました。表からは見えにくい、バンクーバー滞在者の「コインの裏側」です。こうした情報は、留学やワーキング・ホリデーなどを考えている、日本の若い人たちにも、広く提供されるべきでしょう。

それはさておき、私が同書で最も印象に残ったのは、「国際人」や「地球市民」に対する加藤氏の深い洞察です。仕事柄、私は、これらの言葉に触れる機会が多く、また、この2つの用語を様々な用途で使っていましたが、加藤氏の以下の指摘は、こうした概念には、もっと注意深くなるべきだと言っているようです。

「『地球市民』という語には、(本来)『権利をもらう』というよりも『責任を担う』というニュアンスがつよい…、『地球市民』の場合、何らかの『権利』を『ギブ』してくれる政府は、特にない。(中略)『国際人』のイメージ(は)、『国と国の間』を浮遊し続けることが理想であるかのような勘違いをさせ、若者の、どの地にもコミットしない状態を長引かせかねない…これは若者たち自身にとっても、延々と『自分探し』を続けなければならない苦しい状態といえるだろう」(同書、291、305ページ)。

「地球市民」や「国際人」に付随する違和感があるとすれば、加藤氏の説明ほど、この「違和感」なるものを明らかにしたものには、私は、出会ったことがありません。簡潔で分かりやすい見事な指摘です。

同時に、『「自分探し」の移民たち』に、疑問がないわけではありません。第1に、加藤氏は、バンクーバーに渡航する日本人若者の男女の比率が相対的に女性に傾いている事実を指摘したうえで、このことを日本の家父長制に結びつけています。そして、家父長制が残る中国や韓国からは、女性とほぼ同数か、それ以上の男性がカナダに渡っていることから、日本の家父長制の強固さをほのめかしています(同書、第五章)。もちろん、こうした分析は説得的なのですが、代替仮説も立てられます。すなわち、上記のアジア各国の政治体制や地政学上の変数が、男女比の差に作用しているということです。これは単なる個人的な経験による推論にすぎませんが、この2つの変数の因果関係は、かなり強いように思います。

第2に、これは純粋な疑問ですが、物価の高いバンクーバーで、これほど多くの若者が、どうやって経済的に生活できるのだろうか、というものです。なんでも、たとえば「バンクーバーの不動産価格は北アメリカ最高クラス」(『ニューズウィーク日本版』2014年7月29日、18ページ)だとか。同書で参与観察の対象となった若者たちは、比較的裕福な家庭からバンクーバーに渡ったのでしょうか。

いずれにせよ、『「自分探し」の若者たち』は、日本の文化人類学者の力量を私に感じさせる1冊でした。


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