サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

明治日本の産業革命遺産の光、影、疑問

2015年07月19日 | 日記

 世界遺産登録に関してブログに書き込もうと思っていたのですか、延び延びになっていました。
 何故かと言うとなでしこジャパンのせいです。女子ワールドカップ決勝前夜に世界遺産登録が決定したのですが、その時の私の頭のなかはなでしこジャパンで溢れかえっていて…。
 
(以下サッカーに関する記述が続きます。関心がないかたはこの段落のみスルーしてください)
 「日本とアメリカのマッチアップを考えるとロイドのところがこわい。自由に動き回ってマークを掴みづらいし。センターバックがマークするのか?ボランチがマークするのか?センターバックがいくとしたら岩清水選手。サイドに展開されてクロスを入れられた時は熊谷選手が残っているほうがいいし。センターバックがつり出されそうになったらボランチがマーク。右なら阪口。左なら宇津木。うーん。ロイド要注意!要注意!要注意!」「その他気になるマッチアップは宮間選手とアメリカの右サイドバック、クリーガー選手のところ。クリーガー選手身体能力高いからな。味方につければ頼もしいお姉様なんだけど…。そのあたりも不安!不安!不安!そこは宇津木がフォローしてくれ。そうするとロイドがフリーになってズドン!いやいやいや…」

 そんなことが頭のなかで渦巻いていたので世界遺産登録決定!と聞いても「あ、そうでっか」という感じになってしまい…。
 世界遺産に登録された三池炭鉱のある大牟田市は私の生まれ故郷なのに!
   実家が荒尾市に引っ越したので万田坑はすぐ近くなのに!
 
 ということで世界遺産登録に関して、私の地元中心に書き込みます。
 世界遺産に登録されたのは福岡県大牟田市が三池港、三池炭鉱宮原抗、三池炭鉱専用敷跡。熊本県荒尾市が三池炭鉱万田抗。

 そう、韓国から「朝鮮人が強制的に働かされていた」抗議を受けた施設です。日本政府が「1940年代に意思に反して連れて来られ、厳しい環境で働かされた多くの朝鮮半島出身者らがいた」と述べ、いわば玉虫色の解決を図ったところです。
 『強制徴用』に関しては国内でも議論がわかれるところですがある種の強制性があったことは確かで、明治日本の産業革命遺産が対象としている1850年代から1910年以降のこととはいえ、こういった負の歴史も後世にきちんと伝えていくべきだと思います。
 
 当初、明治日本の産業革命遺産は1850年代から1910年までを対象としており、『負』の部分はその後のことで世界遺産登録には緩解のない話という議論がありました。確かにある時代にスポットを当てることにより見えてくる歴史は、確実にあるでしょう。しかし連続性を無視してしまえば必ずや何かを見失ってしまいます。歴史は連綿と続いていくものですから。
 
 ところで有明海は世界で二番目に大きい干満の差があります(だったと思います)。大きな船が入るために切望されていた三池港の開港(1908年)。そこから多くの石炭が運び出される。そして戦争へと向かう時代。ある種の活気にはつつまれていたのかもしれません。1930年代にはヒトラーユーゲントも来日し立ち寄ります。映画監督の森崎東氏も、当時かなりの衝撃を受けたようです。そこには〝熱狂〟があったのでしょう。   
 
 もちろん炭坑には負=影の歴史のみならず、強烈な光の時代もありました。黒いダイヤを求めて多くの労働者が集まり街は活気に満ちあふれます。
 そしてエネルギーの主流が石炭から石油と移り変わるなかで再び影の時代へ。総資本対総労働の対決と呼ばれた三池争議、458名の人々が亡くなり多くの一酸化炭素中毒患者を出した炭塵爆発。高い高い塀に囲まれた三池工業の甲子園大会優勝。優勝パレードに目を輝かせていた原辰徳少年。
 三池工業は、強制的に宮原抗で働かされていた囚人たちが収監されていた『三池集治監』の跡地にあります。宮原抗は昭和6年まで続いた囚人労働で有名。またその昔は囚人のみならず女性も坑内で働いていました。戦前には朝鮮人のみならず多数の中国人も働いていました。また与論島出身者も過酷な労働を強いられていました。そして1997年の閉山。

 大牟田の街は人口も減少し、現在は認知症への取り組みが注目されています。
 そんななかでの世界遺産登録。近年にない明るいニュースでした。

 詳しくは
 大牟田の近代化産業遺産のHP https://www.miike-coalmines.jp/
 荒尾市万田抗のHP http://www.city.arao.lg.jp/mandako/


 それにしても何故、明治日本の産業革命遺産は1850年代から『1910年』までなのでしょう。何故明治の最終年明治45年(=1912年)ではなく『1910年』までなのでしょう。
 『1910年』と言えば日韓併合の年。
 日本が開国し明治維新を経て西洋列強並に植民地を持つにいたった。そういった流れのなかの産業革命遺産というようにしか読み取れないのですが。
 何故1912年ではいけなかったのでしょうか?このあたりも相当韓国を刺激したように思うのですが。1912年にすべきだったと思いますが、何か他に特別な理由があるのでしょうか。あるいは1850年代~明治末でもよかったのでは。しかし英訳する場合にはやはり具体的な西暦年号が必要となるのでしょうか。
 (日韓併合の解釈論争はここではしません)

 また他の地域に目をやると、何故、萩の城下町までが世界遺産に登録されたのでしょう?
 松下村塾も何故?と思わないでもないですが、こちらは人的資源を輩出したということでは理屈は通っているといえばそうかなという感じです。それでもかなりの疑問符はつきますが。韓国から見ると安重根が暗殺した伊藤博文を輩出したところでもあり、安重根が韓国内で英雄的な扱いを受けていることを考えると韓国を刺激する点はあったかもしれません。
 松下村塾はいいとしても何故、城下町まで?山口県出身の安倍首相の影響なのでしょうか?

 個人的には萩は好きなところです。生まれて初めての一人旅で泊まったところが萩市。市内、松下村塾など見てまわりました。中学生の時のことです。その後も一度訪れたことがあります。吉田松陰に関する本も高校の時に何冊か読みました。

 
 歴史には光と影、そして闇があります。影や闇だけを取り出してみることは著しくバランスを欠きますが、光のみで歴史を語ってしまえば途端に語り部にとって都合の良い歴史に堕してしまいます。
 光があれば必ず影があるということは、歴史そのものが証明してくれています。



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