サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

サッカー日本代表 ヴォルゴグラードの他力本願 

2018年06月29日 | サッカー

 ロシアワールドカップグループリーグ最終戦、西野監督はポーランド戦の試合終盤、0-1の「負け」を選択し戦いを放棄、結果として決勝トーナメント進出を決めた。日本はグループリーグ3試合を終えてセネガルと勝ち点、得失点差、総得点、当該チームの成績まですべて並んだものの、警告の数の違いによりセネガルを上回り、コロンビアとともにグループリーグ突破を果たした。
 
 日本代表の終盤の戦い方は様々な議論を呼ぶだろうが、思うところを書いておきたい。

 「負けてセネガルを上回る」という監督の選択が、長谷部選手の投入によりピッチ上の選手たちへ意思統一がなされた。結果としてうまくいく形となったが、もしセネガルがコロンビアからゴールを奪い1-1の同点に追いついてしまったら日本代表はその瞬間から予定調和のボール回しをやめ得点を奪いにいかなくてはならなかった。セネガルのゴールが遅い時間であればあるほど、日本の攻撃時間は少なくなる。仮に韓国がドイツ相手に奪ったゴールのようにアディショナルタイムに入っての得点であったならば、日本の攻撃のために残された時間はほとんどない。最悪の場合、10分以上も「負け」を求めてボール回しをした後に、1点を取りにいく時間の圧倒的な少なさという絶望のなかでワールドカップの戦いを終えてしまう可能性もあった。自分たちの力不足で負けるのではなく、力を出す時間もないままに終わってしまう可能性もあった。

そんな悲劇のなかでワールドカップを終えてしまったら、選手たちの心はどうなってしまうのだろうか?
少なくない選手にとっては最後のワールドカップだ。最後の最後がそんな形の終わりだとしたら…。

そんな悲劇の運命を、監督の他力本願で強いてしまってよいものなのか?

そんな悲劇を選手たちに背負わせる権利が監督にあるのか?

そう思いながら試合を見つめた。いや「何をやってんだ」と叫びながらテレビを観ていた。

結果が出たから博打に勝ったからといって、許されるものなのだろうか?

勝負師として確率論の中で選択した論理は理解出来ないわけではない。もちろん試合終盤で敢えて「負け」を選択し、後方でボール回す選択を否定するものでは全くない。仮にセネガル0-2コロンビアというスコアなら完全肯定だ。それはサッカーだ。

選手たちはつらい選択に「見事な」意思統一で応えた。そういった形でもぎ取ったグループリーグ突破、是非次戦につなげてほしいという思いは強いものの、この試合で起きたことはあまりにも釈然としない。

〈追記〉 各種報道等で、なでしこジャパンロンドン五輪のグループリーグ最終戦で、敢えて2位抜けを狙ったことが今回と対比して語られています。 あの時はすでに決勝トーナメント進出は決まっており、1位抜けか2位抜けのどちらを選択するかという状況でした。その試合で五輪が終わるという可能性は0%で、2位抜けが移動が少なく楽でした。 その時のことは、試合の際から100%肯定しており、ブログの過去の記事にも書き込んでいます。 今回とは全く状況が異なります。 ついでに2004年アジアカップグループリーグ最終戦、日本とイランが示し合わせて引き分けに持ち込んだ試合もOKだと思いますし、ドーハの悲劇はまだまだナイーブだったと思います。