まもなく東日本大震災から12年経過する。
12年という数字に何か意味があるとは思えないが、干支は12年周期であるし、木星は12年周期で太陽を巡るのだという。「12」という数字に限って言えば、1年は12か月で構成されているし、鉛筆やビールビンは1ダース12本の入れ物に収納されているし、地上波のチャンネルは12に割り振られていることを考えれば、何かしら神秘的な謎がそこには隠されているのかもしれない。
それはさておいて、この12年、「瞬く間」に進行したというのが実感。震災の日を考えれば「つい昨日」のようだ。
昨日、八木山から長い坂を歩いているときに考えていたことだが、12年と言えば、小学校に入学してから高校を卒業するまでのスパンだ。それは、「途方もなく長い歳月だった」ような気がした。
同じ時間が流れていたと言えるのに、どうしてこうもわが身の実感がこうも異なるのだろうか。
いつだったか、何かのQ&Aで、「どうして年を取ってくると時間の流れが速いのですか。昨日正月だと思ったら、すぐに年末が訪れます」
という趣旨の高齢者からの質問があったが、心理学者か科学者か、その筋の専門家はこのように回答した。
「年を取るとときめきを感じなくなるからです。まわりの世界に感動しなくなるのです」
ときめきを感じずに、朝起きれば朝ドラを見て朝食、昼のワイドショーを見ながら昼食、夜のお笑いを見ながら夕食、世の中のニュースにさして驚かず、家族はもちろん、近所や友とも交流せず、もちろん恋めいたことも遠ざかり、出会う人はめっきり減り・・・たしかにこんな生活を送っていれば、ヒトビトに公平に割り振られた時間は瞬く間に過ぎゆくのだろう。刑務所に収容されている無期懲役の囚人もこのような感覚なのだろうか。
震災の年に小学校に入学した子等は、今この12年間を何と答えるのだろうか。1年という時間に限っていえば、ウクライナの戦士たちはこの1年の長さを何と答えるのだろう。
青葉の森のチョウや樹木たちにも聞いてみたいところだが、彼らたちに言わせると、「人生」が長いとか短いとか思う暇はなく、ただただ今を生きることで精いっぱいなのだろうし、わが身の個体の存在だけの一方通行の時間感覚はないのかもしれない。
春が来れば体が自然と動き、成長し、恋をし、次の世代にバトンタッチして、次の命の一員になったいくというくりかえしのなかで生きているので、あるいは生死という観念もないのかもしれない。
人生の残された時を短いと驚き嘆くよりも、オイラもチョウや植物たちの時間感覚にあやかりたいと思っているが、・・・・・まだまだだ。
キタテハさん
青葉の森 マンサク三景
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