鳥取から浜坂の駅に降りて、加藤文太郎お墓を再訪しようとした。
浜坂の墓所は、集落の中にあって寺はなく現世の子孫達に日常的に見守られているような風であった。
つい、3,4年前にお参りしていたから加藤文太郎の墓は容易に見つけられると思ったが、方向さえ不明となってしまい、地元の老人に声をかけ、なんとか案内していだき、たどり着いた。
何でも子孫の反対で、かつてはあった標識を取りはずしているとのことで、これでは全国の孤高の人信者達がお参りしようとしても、見つけられないと思う。
駅前に堂々と「登山家 加藤文太郎生誕地」、街の路地に「加藤文太郎の墓」の案内板まであるのだが墓所に入ると容易には探し出せないという状況であった。
地元の方は、文太郎の子孫はこの街にはおらず、娘は神戸のほうにいたが、今はどうなっているか分からないのだという。
近くの、加藤文太郎記念図書館の関係者に尋ねれば分かるのかもしれないが、無用な詮索は必要ないのだろう。
昭和11年1月6日槍の北鎌尾根で命を落とした加藤文太郎は、昭和57年に天寿を全うされた奥様の花子さんと仲良く一つ墓で眠っている。それだけで安心し、山と旅の安全をお願いし、美しい浜坂に別れをつげた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/8b/9bcef196351b72dfa81f4fd2823119da.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/32/6754703ca310a3f1cee054020f0f74b6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/bf/c9574dc083708062e09f6ea50cbb5f5a.jpg)
浜坂の墓所は、集落の中にあって寺はなく現世の子孫達に日常的に見守られているような風であった。
つい、3,4年前にお参りしていたから加藤文太郎の墓は容易に見つけられると思ったが、方向さえ不明となってしまい、地元の老人に声をかけ、なんとか案内していだき、たどり着いた。
何でも子孫の反対で、かつてはあった標識を取りはずしているとのことで、これでは全国の孤高の人信者達がお参りしようとしても、見つけられないと思う。
駅前に堂々と「登山家 加藤文太郎生誕地」、街の路地に「加藤文太郎の墓」の案内板まであるのだが墓所に入ると容易には探し出せないという状況であった。
地元の方は、文太郎の子孫はこの街にはおらず、娘は神戸のほうにいたが、今はどうなっているか分からないのだという。
近くの、加藤文太郎記念図書館の関係者に尋ねれば分かるのかもしれないが、無用な詮索は必要ないのだろう。
昭和11年1月6日槍の北鎌尾根で命を落とした加藤文太郎は、昭和57年に天寿を全うされた奥様の花子さんと仲良く一つ墓で眠っている。それだけで安心し、山と旅の安全をお願いし、美しい浜坂に別れをつげた。
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