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東京「昭和な」百物語<その50>東京都美術館

2019-02-11 23:16:01 | 東京「昔むかしの」百物語
モノの弾みということが、昭和にはあった。

自分の思いとは全く別の、選択肢というのではなく、突然思いもしなかった道が目の前に立ち現れる感じが、言葉としては一番近いかもしれない。

あれは昭和50年頃だった記憶がある。

東京都美術館という、非常に長い歴史を持った日本で最初の公立美術館だった東京府美術館が、昭和18年に東京が都制へとシフトし府から都に変わり、昭和43年には新館建設の準備委員会が立ち上がり、昭和50年に新しい美術館として3つの機能を掲げ生まれ変わった。
三つの機能とは、

(1)美術館が主体性をもって企画展を進め、現代美術の秀作を収集し、常設展示を充実させる「常設・企画機能」
(2)公募団体の要請に応えられる規模と設備を整え、作家の技量を発揮できる場とする「新作発表機能」
(3)都民の文化活動を促進するために、美術研究、創作活動、美術普及の場を提供する「文化活動機能」

この三つだった。

おそらくこの3番目に関してなにかできそうだと思ってくれたのだろう、当時のボクの創作活動を知る知人が一緒に講堂の杮落しのイベントをやらないかと声を掛けてくれた。

それが誰だったのか、ハッキリとは覚えていないが、ボクは舞台監督的な立ち位置で協力したと思う。主体は武蔵野美術大学の卒業生だったかもしれない。

天下の東京都美術館のイベントを、どこの馬の骨ともわからない一介の自称クリエイターレベルの人間に任せるというのは、尋常ではない。

その当時、落語家からパントマイマーに転身した「好ちゃん(その後、残念ながら30代の若さでガンでこの世を去った)」をステージに引っ張り出し、舞台転換を自力でやりながらイーゼルに置かれたキャンバスの絵を、次々に複数枚、複数人で完成させていくというようなイベントもやった。

こんなことは、今の時代には絶対ありえないことなのだと思う。

イベントそのものの観客動員は芳しくなかったが、その経験は大きな影響をボクに与えた。

そこに座すべき位置を据え、その後に繋げていれば、僕の人生も変わったものになっていたことだろう。ボクはそうしなかった。

こんなことは昭和には当たり前に起きていた。自分の身をどこに置き、連れていくかによっては、思いもしない世界への扉が開かれた。

そういう意味では、なにか社会という規範にがんじがらめにされ、社会の成り立ちも合理性やらデジタル的な計算と、外れることの許されないマニュアルでできているような平成以降の世の中では、絶対に起きそうもない人間の可能性が感じられる時代だったことは確かだ。


コメント
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