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東京「昭和な」百物語<その2> 代々木

2015-01-11 15:11:38 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和20年代後半から昭和40年代の後半まで、代々木駅とその周辺はほとんど変化もなかったと思う。

4歳だったボクが家族と共に、山陰の古都・松江から上京したのは、昭和28年の暮れか、29年の初めだったと思う。
確かめようにも、父も母もいない。二人の兄たちは当時すでに「大人」で、別行動だった。先に東京に出ていたのではなかったかと思う。姉はボクと4歳違いだったが、記憶は定かでないという。

上京したボクら家族には、住まうところがなかった。真っ先に転がり込んだのは母の姉の暮らす、代々木にあったとある有名企業の二階建ての社宅(というより社屋に生活スペースが隣接している、いかにも昭和な佇まいの建物)だった。住まいが決まるまでのつなぎで「居候」ということになったようだ。

その居候先は、今でもある。JR・山手線の代々木駅を渋谷方面に向かうと、建物としては新しく立派なビルになっているが当時と同じ社名の看板が線路脇左にすぐ見える。

明治神宮の北参道を降りてきたところで、半年ほどの居候中、遊び場はもっぱら明治神宮だった。

代々木駅も、現在は地下鉄なども乗り入れて、なかなか複雑な構造になっているが、昔は原宿寄りの改札口一つだけだった。ずっと長い間不思議だったのだが、4番線の総武線ホームと1番線の山手線ホームをつなぐアンダーパスは、当時から存在していた。なんのためにあったんだろう? 駅前の雰囲気も、駅を取り巻く建物は高層のビルディングになってはいるが、駅前の交差点の醸し出す雰囲気は、昔とあまり変わりない。

いまはないが、駅を降りて線路沿いに原宿方面に歩くと、「お城」(ボクの記憶では……)というお好み焼き屋があった。ボクらが居候していた頃にすでにあったか否かは判然としないが、造りがお城のような外観で、3階か4階建てだった。記憶にある店はそれだけ。少し大人になって2、3度行ったことがあるが、いつの間にかなくなっていた。

線路を挟んでやはり原宿方向に向かって歩くと、共産党の本部が当時からあった。

喧噪の新宿から一駅離れただけで、なにか鄙びた駅という印象が長く残った。

代々木がことさらににぎわいを見せ始めたのは、1959年以降「代々木ゼミナール」が開校してから。60年以降は、叔母の家族が原宿に転居していたので、代々木にはあまり行かなくなっていた。

当時のことを考えるだけで、鮮明に蘇る思い出がいくつかある。

別の機会に書くが、一つは明治神宮北参道周辺に現れたサーカス一座の話(以前にも何度か書いているが…)、一つは鳩小屋の話、そして5寸釘の話。

ここでは、5寸釘の話を書いておこう。

昭和30年前後の子供の遊びといえば、アクティブな女の子はゴムダンや縄跳び、おとなしめの子はママゴトや着せ替え人形遊び、お手玉、綾取りくらいのもの。男は鬼ごっこ(何種類かあった)、Sケン、水雷艦長、ビー玉にメンコ、ベーゴマ、おとなしめの子は軍人将棋なんてところだった。

その中に、的当てのような遊びがあった。ぺったんこにした5寸釘を手裏剣代わりに、砂山などで作った的に当てる。ただそれだけなのだが、5寸釘をぺったんこにするやり方が、いまでは考えられない方法だった。これは時効だと思うから書く。

実は、居候していた先の代々木の建物は本当に線路に隣接していて、子供のボクでも崖をよじ登って線路に立てた(当時5~6歳!!)。フェンスや壁など何もなかった。だから線路の上に、5寸釘を真っ直ぐ線路に寝かせて置きさえすれば、電車の行き過ぎた後に、ペッちゃんこになった5寸釘が光り輝いて残されていた。

悪くすれば、自分がペッちゃんこになっていただろうが、そんなことにはお構いなしで、何本もぺったんこ5寸釘を作った。

思えば恐ろしく危険なことなのだが、当時はまだ分刻みの運行スケジュールではなかったからできた芸当なのだろう。

後に、友達に聞いたところによれば、多くの男の子は都電の線路で作成していたらしい。

山手線での作成者は、ボクと従兄弟とおそらく数名だっただろう。

なにか胸の内が、もやっとする代々木の思い出。
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