いつから日本は、こんなに毎日毎日、殺さなければならない理由らしい理由もない、気味の悪い殺人事件の起きる国になったんだろう?
確かに殺人事件は毎日起こる。それは昔から変わらない。だが、昔の殺人事件には人を殺すそれなりの理由があったような印象がある。
なにか、どこかで「情緒的」とでも言える、1-1=0とは異なる数式が成立していたように思う。0コンマ幾つかが何か意味合いとして残るような感覚。殺人を犯したものへの幾許かの共感や、同情が残るような感覚。
今の殺人でも理由はあるが、その理由の大半ははっきりしている。金。ほとんどが金。そして性的でありながら関係性の崩潰した、ストーカー的殺人。共感も同情もなにもない。極めて個人的ないきさつからしか生まれない殺人。
それは、裁判ともなれば、当然のようにドラスティックで、弁護士の存在もほとんど自己正当化を殺人の理由とするような弁護を成立させるためのもの。
一方で、三権分立の最も大切な要素である司法も、どちらかといえばファナティックな「人を殺してしまったものは、すべて死刑でも当たり前」的な、被害者の関係者の主張が、裁判そのものの行く末を左右するようなところが垣間見えたりもする。こちらにも意味合いは異なるが、共感も同情もない。
思い起こすに、阪神淡路大震災の年に発生した、例の「酒鬼薔薇聖斗」事件、その7~6年前に宮崎勤が引き起こした「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」あたりから、日本の殺人事件は、変化したように思う。人を殺すことへの痛みを持たない人々の引き起こす殺人事件。
こんな書き方をすれば批判されることにもなりかねないが、構わない。
殺人という行為は、ある意味哲学的な試行錯誤の行き着く先にあるものという、犯罪心理学を少しだけでもかじった経験から言うと、具体的には書かないが、今の殺人事件は極めて「異常」な殺人事件としか言い様もない事件の連続なのだ。
そしてその受け止め方も、被害者も、周辺の人々も、無関係の傍観者も、ある意味「異常」な反応しか示せなくなっている、昨今なのだ。
確かに殺人事件は毎日起こる。それは昔から変わらない。だが、昔の殺人事件には人を殺すそれなりの理由があったような印象がある。
なにか、どこかで「情緒的」とでも言える、1-1=0とは異なる数式が成立していたように思う。0コンマ幾つかが何か意味合いとして残るような感覚。殺人を犯したものへの幾許かの共感や、同情が残るような感覚。
今の殺人でも理由はあるが、その理由の大半ははっきりしている。金。ほとんどが金。そして性的でありながら関係性の崩潰した、ストーカー的殺人。共感も同情もなにもない。極めて個人的ないきさつからしか生まれない殺人。
それは、裁判ともなれば、当然のようにドラスティックで、弁護士の存在もほとんど自己正当化を殺人の理由とするような弁護を成立させるためのもの。
一方で、三権分立の最も大切な要素である司法も、どちらかといえばファナティックな「人を殺してしまったものは、すべて死刑でも当たり前」的な、被害者の関係者の主張が、裁判そのものの行く末を左右するようなところが垣間見えたりもする。こちらにも意味合いは異なるが、共感も同情もない。
思い起こすに、阪神淡路大震災の年に発生した、例の「酒鬼薔薇聖斗」事件、その7~6年前に宮崎勤が引き起こした「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」あたりから、日本の殺人事件は、変化したように思う。人を殺すことへの痛みを持たない人々の引き起こす殺人事件。
こんな書き方をすれば批判されることにもなりかねないが、構わない。
殺人という行為は、ある意味哲学的な試行錯誤の行き着く先にあるものという、犯罪心理学を少しだけでもかじった経験から言うと、具体的には書かないが、今の殺人事件は極めて「異常」な殺人事件としか言い様もない事件の連続なのだ。
そしてその受け止め方も、被害者も、周辺の人々も、無関係の傍観者も、ある意味「異常」な反応しか示せなくなっている、昨今なのだ。
あら、テレビの話じゃなかったわね。そうね~、「こいつ、何考えてるんだ?」的なニンゲンが多くなった気はするわね。 ま、メディアの影響とか、コミュニティの崩壊と不景気とか、要因はいろいろあるんでしょうね。
あたしにはそれくらいしかわかんないわ!さ、溜まった洗濯しなくちゃ!