端的に言えば、僕が認知していない世界は存在しない。
だが、認知・認識のプロセスが実際の体験で得たものでなくとも、世界は存在し得る。
ただし歪んだ形で。
なぜなら、経験したもの以外は想像や思い込みで不足部分や死角部分を補うのであって、歪まざるを得ない。
ただし、実際に体験したところで歪みはあり続ける。
なぜなら想定できる世界が1000の構成要素でできていたとするなら、体験というプロセスではその内の100も獲得などできない。すべてを獲得などできないのだ。
そういう意味では、例えば読書であったり映像で観たりという実体験・経験以外の疑似体験の方が、獲得できるファクターは、断片的だが、多いのだ。
この、断片的という言葉が実は、世界の相貌の実相なのだ。
本当なら体験というプロセスはアナログであり、すべてが連続している。途切れるところがない。線あるいは多少の面で認識されるのだ。一方の疑似体験は、デジタル的だ。
端的に言えば、断片の連なりだ。
ところが、体験という線での連なりも、大きな視点から見れば断片化された、線の集合体としての点でしかない。
どういうことかと言えば、より高次の視点から眺めれば、様ざまなファクターが複雑に積み重なった世界と雖も、点でしかないのだ。細胞核の中のDNAの二重螺旋のようなものなのだ。
世界を認識する方法は、アナログか、デジタルかという二つに集約される。
実は世界の認識の方法は、パラレルな次々と生まれる点が描き出す重層する世界として認識されていく。
ある意味、フラクタルなのだ。ここまでくると点で描かれた世界なのか、線で結ばれた世界なのかなどは、認識の埒外になる。要は世界は点なのだ。
仏教の数の概念に登場する、恒河沙、つまりガンジス川の砂粒の数、あるいは塵点劫という塵芥の数、言ってみれば点の世界こそが、世界の実相なのだ。
その点の原点・原風景は、結局自分でしかない。
だから、自分の世界は具体的に見えようが想像の産物に見えようが、自分が形づくるものでしかありえないのだ。言い換えれば誰にも手伝ってもらえない世界を創造しているのだ。
要はどんなプロセスであろうが、体験であろうが、責任を自分で負えるのだ。
はっきりさせておくが「自分でしか負えない」のではなく、「自分で負える」のだ。
それは、すべてを変えられることを示している。望み通りに世界を創れることを示している。
逆に言えば、良くも悪くも自分が望んだ世界にいま生きているということなのだ。
世界は、望んだようにしかそこにない。
ただし、望むということの意味は「そう思う」ということではない。
時々書くが、仏教的な六識を越えた、末那識、阿頼耶識、阿摩羅識の領域での生命の渇望なのだ。
その領域で、世界の無数の人々の無数の経験・疑似体験としての点は、共鳴し通奏低音を奏でる。
そして世界は、1人の思いがすべてを変えることのできる可能性をもったものとしてあるのだ。
もっと言えば、一番最初に書いた通り。
僕が認知していない世界は、存在しないのだ。
別の言い方をすれば、世界は僕が認知した通りに存在するのだ。
だが、認知・認識のプロセスが実際の体験で得たものでなくとも、世界は存在し得る。
ただし歪んだ形で。
なぜなら、経験したもの以外は想像や思い込みで不足部分や死角部分を補うのであって、歪まざるを得ない。
ただし、実際に体験したところで歪みはあり続ける。
なぜなら想定できる世界が1000の構成要素でできていたとするなら、体験というプロセスではその内の100も獲得などできない。すべてを獲得などできないのだ。
そういう意味では、例えば読書であったり映像で観たりという実体験・経験以外の疑似体験の方が、獲得できるファクターは、断片的だが、多いのだ。
この、断片的という言葉が実は、世界の相貌の実相なのだ。
本当なら体験というプロセスはアナログであり、すべてが連続している。途切れるところがない。線あるいは多少の面で認識されるのだ。一方の疑似体験は、デジタル的だ。
端的に言えば、断片の連なりだ。
ところが、体験という線での連なりも、大きな視点から見れば断片化された、線の集合体としての点でしかない。
どういうことかと言えば、より高次の視点から眺めれば、様ざまなファクターが複雑に積み重なった世界と雖も、点でしかないのだ。細胞核の中のDNAの二重螺旋のようなものなのだ。
世界を認識する方法は、アナログか、デジタルかという二つに集約される。
実は世界の認識の方法は、パラレルな次々と生まれる点が描き出す重層する世界として認識されていく。
ある意味、フラクタルなのだ。ここまでくると点で描かれた世界なのか、線で結ばれた世界なのかなどは、認識の埒外になる。要は世界は点なのだ。
仏教の数の概念に登場する、恒河沙、つまりガンジス川の砂粒の数、あるいは塵点劫という塵芥の数、言ってみれば点の世界こそが、世界の実相なのだ。
その点の原点・原風景は、結局自分でしかない。
だから、自分の世界は具体的に見えようが想像の産物に見えようが、自分が形づくるものでしかありえないのだ。言い換えれば誰にも手伝ってもらえない世界を創造しているのだ。
要はどんなプロセスであろうが、体験であろうが、責任を自分で負えるのだ。
はっきりさせておくが「自分でしか負えない」のではなく、「自分で負える」のだ。
それは、すべてを変えられることを示している。望み通りに世界を創れることを示している。
逆に言えば、良くも悪くも自分が望んだ世界にいま生きているということなのだ。
世界は、望んだようにしかそこにない。
ただし、望むということの意味は「そう思う」ということではない。
時々書くが、仏教的な六識を越えた、末那識、阿頼耶識、阿摩羅識の領域での生命の渇望なのだ。
その領域で、世界の無数の人々の無数の経験・疑似体験としての点は、共鳴し通奏低音を奏でる。
そして世界は、1人の思いがすべてを変えることのできる可能性をもったものとしてあるのだ。
もっと言えば、一番最初に書いた通り。
僕が認知していない世界は、存在しないのだ。
別の言い方をすれば、世界は僕が認知した通りに存在するのだ。