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歴史上の人物伝② アルフレッド・ヒチコック

2011-01-07 16:55:36 | 歴史上の気になる人々<的>な
アルフレッド・ヒチコックの
『報われぬ人生』
という作品。


 一八九九年、八月一三日。ロンドン郊外の八百屋、ウィリアム・ヒチコックに三人目の子供が誕生する。アルフレッドと名付けたこの子供が、後に「サスペンスのマエストロ」と言われ、二十世紀の映画史を語る上で、欠くべからざる名監督アルフレッド・ヒチコックとなることなど、両親は知らなかった…。
 ヒチコックは、十五歳で父に先立たれ学校を止め労働者の仲間入りをした。そして映画と出会い、苦労を重ね自力で監督になった。誰も助けてはくれなかった。新進気鋭の監督として渡米後、空襲を受けているイギリスを捨てたと英映画界からの中傷を受けた。
 ハリウッドでは『断崖』『ダイヤルMを回せ』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』など、傑作を世に送り出しながら不当に低い評価……ヒチコックは常に一人で戦う運命だった。それが過食・肥満の原因であり、やがて彼自身の生命をも奪う。
 ヒチコックは生涯に五十七本の映画を撮った。イギリスで二十七本、ハリウッドで三十本。
 一九三九年、四十歳になりハリウッドのプロデューサー、D.O.ゼルズニックに招かれ、アメリカに渡る。ゼルズニックはヒチコックのサスペンスの手腕を売れると考え、ヒチコックはイギリスで燻っているよりはハリウッドで己の才能を開化させたいと考えたのだ。
 渡米第一作が『レベッカ』だった。D.D.モーリアの小説の映画化であり、この記念すべき第一作は四〇年度アカデミー賞の作品賞を獲得する。だが、監督賞は逃す。そしてヒチコックは、数回のノミネートはあったものの、生涯監督賞からは見放される。
 それはハリウッドが、「ヒチコックを他愛のない内容の、おもしろい映画を作る男」という評価しかしなかったからだといわれる。ヒチコックの映画には、必ずワンカット監督自身が登場する。そんなイタズラが、品格を重んじたハリウッド向きではなかったのだろう。
 グノーのマーチに乗って太ったヒチコックのシルエットが現れるTVシリーズ『ヒチコック劇場』の成功で、五八年にはゴールデングローブ賞を獲得、七九年にはアメリカ映画制作者協会から功労賞を贈られ、晩年には本国イギリスからナイト爵位の称号を与えられるなど、一見報われた生涯のようであったが、実際は違った。
 ナイト爵位の授与式は、埃を被り荒れ果てたままの自分のオフィスではなく、映画のセットに作られた作り物のオフィスで行われた。
「長年一つのことに専念していれば、いつかは誰かに認めてもらえることが、これで立証されたわけです」
 記者会見で皮肉タップリに語ったヒチコックの冗句に誰も笑わなかった。
「私が引退するのは、私が死ぬ時」
 ヒチコックは常々妻アルマに語っていたが、七六年の『ファミリープロット』を最後に、映画作りの話はまったくないままだった。そして映画を作りたいという希望を抱いたまま、『報われぬ人生』というタイトルの失意の生涯を終えたのだ。
 一九八〇年四月二九日のことだった。
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