普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

都電もあったが、トロリーバスでしょ、やっぱり!

2011-07-21 22:06:22 | 東京「昔むかしの」百物語
 昭和30年代(本当は漢数字で書く方がしっくりくるな)、東京の空はカオスだった。

 ボクが島根県松江市から家族で上京したのは、昭和28年。当時4歳だった。
 トレーラーバスという、運転席と客席がセパレートになっている大型バスで松江の駅まで出た覚えがある。当時、松江市内を走っていたバスの主力は、このトレーラーバスだった。カッコイイなと思っていた。
 松江から一度北陸路を辿り、新潟県の糸魚川近くの鬼舞に向かった。そこは母の母方の実家だった。半年ほどそこに滞在したような記憶がある。夏に着いて冬に東京へと向かったと思う。
 だから、東京に辿りついたのは昭和29年になっていたかもしれない。
 新潟からどう経巡ってきたのかわからないが、東京駅に着いた時に駅構内は黒山の人だかりだった。街頭テレビで、力道山のプロレス試合をやっていたのだ。それを見た記憶がある。
 電信柱のような柱の上に箱が載っていて、その中で映画のように人が動いていた。おそらくあまりの人だかりで父が肩車をしてくれたのだろう。子供のボクはおそらく大人達のケツの辺りしか見られなかっただろうから。
 住むところも決まっていなかったらしく、その時は代々木に住んでいた母の姉の元に転がり込んだ。昭和29年中は、そこで世話になっていた。

 昭和30年、富坂(小石川のお隣)のアパートに引っ越した。そこには1年足らずしか住まなかったが、その間に後楽園遊園地が完成し、地下鉄の丸の内線も一部完成していたと思う。できたばかりの後楽園まで坂を下って歩いて見物に行った。ジェットコースターがあったが、恐ろしげであった。
 後楽園から家に向かって富坂を上り、右手を見ると時計台が見えた。それが学校だと聞いて「アソコに入る」と言ったらしいが、残念ながらそこは東大で、勉強嫌いのボクが入学することはなかった。
 やがて上板橋のボロ長屋に転居する。ここには昭和33年までの3年間住んだ。たった3年間だったが、不思議と思い出が詰まっている。おいおい書こうと思う。

 そんな時代、省線と都電と、もう一つ東京に住む者にとって重要な脚だったのが「トロリーバス」だ。
 松江のあのトレーラーバスよりカッコ良いバスが、東京にはあったのだ。
 空に張り巡らした架線からトロリーボールという集電装置で得た電気を動力にして走るバス。クリーンな乗り物だった。
 池袋から新宿を経て渋谷まで、東京の3大歓楽地をこのトロリーバスはつないでいた。だから、都電の架線もあいまって、明治通りの空は、のべつまくなしくもの巣に覆われているような景色だった。なにか猥雑な感じさえした。だが、たわんだ架線の作り出す景色は間違いなく東京の風景だった。
 東武東上線・上板橋に住んでいたから土地勘もあり東上線の基点である池袋は庭のようなもので、西武デパートの大食堂にはよく行った。渋谷は叔母が代々木、原宿と移り住んでいて、年の近い従兄弟と遊ぶために毎週末出かけていたから、こちらも馴染みがあった。東急のプラネタリウムが懐かしい。そして新宿は昭和33年以降、荻窪が住処となり新宿がターミナルのようなもので、のべつ遊びに出ていた。
 だからトロリーバスは重宝だった。確かではないが昭和42~3年までは、確実に都内を走り回っていた。
 ところが。都電もそうだが、トロリーバスもある日パタッとなくなった。おそらく物流の時代が来て、大型のトラックが走るにはあの架線が邪魔になったのだろう。交通量も瞬く間に増加した。そうなればノタノタと走る都電もトロリーバスも、邪魔者扱いされるのは目に見えていた。
 そうはいっても、あの頃の光景は忘れがたい。
 冒頭に「昭和30年代、東京の空はカオスだった」と書いたが、本当に架線が縦横に張り巡らされた、あのワサワサとした感じは、まさにカオスで、たまらなく好きだった。

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