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東京「昭和な」百物語<その33>宇宙

2018-01-17 18:36:23 | 東京「昔むかしの」百物語
「ボクら」がはじめて「宇宙」を意識したのは、1957年に打ち上げられたソ連のスプートニク2号で、はじめて地球の生命体である犬、雌のライカ犬が地球の周回軌道に乗り(二度と地球の土は踏めなかったが)、宇宙空間に進出した時だった。

その後、1961年にボストーク1号で地球を周回し「地球は青かった」の名言を残した人類最初の宇宙飛行士ユーリィ・ガガーリン、1963年ボストーク6号に搭乗し「私はカモメ(ヤー・チャイカ)」と、意味はよくわからないが印象的な言葉を残した初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワが、相次いで宇宙空間に進出し、帰還した。

なぜか黎明期の宇宙進出は、ソビエト連邦の記憶しかない。もちろんアメリカの宇宙飛行士も宇宙に進出していたのだが、あまり強い印象はない。名前も覚えていない。アメリカの印象はアポロ計画で初めて印象付けられた。

この1960年代における米ソの宇宙競争は、まさに夢と希望と本物の未来を見せてくれたような気がする。

両陣営の巨大な国家間のせめぎあいとしての宇宙開発競争が生み出した結果に、ボクらは一喜一憂し、開かれた宇宙へと広がる世界を、希望と夢と言う言葉で表現しさえしていた。実はそこには底知れぬ戦争戦略、戦術の具体化としての宇宙開発が存在したのだが、ボクらはただ夢を抱いて眺めていた。

もちろん日本の宇宙開発にも過大ともいえる期待を抱いていた。

だが当時の日本の宇宙進出の道具は、ペンシルロケット言われた、小さな小さな試射ロケットだった。それでもボクらは、そのロケットに大きな夢を託していたように思う。

少なくとも、大国の戦略的宇宙開発とは異なる、純粋に学術的な宇宙へのアプローチであることを、本能的に理解していたのかもしれない。

文京区茗荷谷にあった窪町小学校、杉並区荻窪にあった西田小学校に通いながら、ボクは確かに宇宙を想起していた。

ただし、宇宙は抱きかかえられるほど近くにあった。そう、週刊少年マガジンと、週刊少年サンデーの中に。

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