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東京「昭和な」百物語<その19>新宿大ガード付近(再録)

2016-12-17 17:43:07 | 東京「昔むかしの」百物語
(2011年7月20日にこのブログで書いた原稿を少し書き直して再録します)

 昭和33年の冬、それまで住んでいた上板橋のハモニカ長屋から、荻窪の公団住宅に引っ越した。これは画期的な出来事だった。

 当時僕は小学校三年生で、板橋から文京区立窪町小学校に越境入学していた。越境入学の理由は、今は筑波大学となっているが、当時の東京教育大学附属小学校の入学試験に落ち、癪にさわって隣りにあった窪町小学校に通うことにした、ということになっていた。本当のところは不明。
 確か季節は冬。ニ学期の終業式当日だったような……。

 上板橋から窪町小学校に向かい、帰りは荻窪に帰った。
 よく考えれば、10歳の小学校3年生にはかなり無謀な行程だったような気がする。なにしろ荻窪なんぞは、行ったことも聞いたこともなかったから。

 当日の朝、帰りは荻窪まで来るようにと言われ、心細いなんてものではなくて、当時の学友に先生(中村先生!)に促されてサヨナラの挨拶をし帰路についたが、心此処にあらず的な浮き足立った感覚を覚えている。

 営団地下鉄丸の内線の茗荷谷が窪町小学校への下車駅だった。いまの感覚で行けば、それなら茗荷谷から荻窪まで丸の内線で一本じゃないか、と言いたいところだろうが、丸の内線、当時はまだ荻窪まで開通していなかった。池袋から霞が関までしか開業していなかったと思う。荻窪からは方南町あたりまでだったかな?

 どんな行程で茗荷谷から荻窪まで行ったのか定かではないが、その夜にはきちんと荻窪で食事をした記憶があるから、ちゃんと行けているわけだ。いろいろな方法があった思うが、おそらく、茗荷谷から池袋(2駅)へ出て、省線(と昔は言ったのだよ)に乗って新宿へ出て、当時は高尾ではなく浅川行きと言った中央線に乗って行ったのか、あるいは、新宿で降りて淀橋方面に向かって大ガードを抜けて歩き、都電に乗っていったか、いずれかだろうが、そこのところの記憶は曖昧だ。
 どちらかと言えば、都電で行った公算が大きい。というのも、4歳年上の姉が、当時まだあった淀橋浄水場近くの精華女学園中等部に通っていて、記憶にはないのだが、彼女と待ち合わせて帰ったと考えるのが最も妥当だ。そうなれば都電で荻窪に向かうのが最も自然だ。

 当時、都電は東京を縦横に走り回っていた。ボクが最も馴染んでいたのはやはり杉並線で、新宿の大ガードを超えたすぐの所に、熊の胃の宣伝だったかジンギスカン料理屋だったか、大きな熊の絵だったか彫刻だったかがあって(後々、当寺は結構あったという今でいうところのジビエ料理の店だったと、友人に教えてもらった)、その目と鼻の先に都電杉並線の停車場があった。それに乗れば、終点の荻窪駅まで連れていってくれた。
 都電荻窪駅は、新宿から向かえば荻窪陸橋を越えた北口側にあった。
 ただ、営団の丸の内線が荻窪まで乗り入れた昭和37年の翌38年には廃線になった。だからボクが乗ったのも、約4年間程度だったという計算になる。

 都電は、本当なら環境にも優しい素晴らしい交通手段だ。東京でもいまも最後の一路線「荒川線」が早稲田から三ノ輪まで走っていて、たまに何の用もないのに乗る。ゆっくりと風景が流れていく様は、普段感じることもない時間の流れが目に見えるようで楽しい。

 季節になると大塚駅から池袋方面へと向かう線路際が、バラの花で覆われる。結構好きな光景だ。
コメント (1)
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